第8話 我、願ひたまふ。鬼に逢ひ見んことを(前編〜古き契約〜)

 ここしばらく私にはずっと気になっていることがあった。



『伏見稲荷の起源にはある渡来人が関わっている……機会があったらお前の祖先を辿ってご覧。何かのことわりがきっと見つかるかもしれんぞ』



 以前、ヘイマオ嬢が午睡の合間に私に教えてくれたこと。


 そして、各務君の本当の名前、『鏡魂の君かがみたまのきみ』。


 各務君はなぜ、自分の本当の名を私に伏せていたのか?

 あれから各務君に会う機会は何度かあったが、彼はそのことを話題にするたび話をはぐらかしてしまう。


 業を煮やした私はその後、足繁く図書館に通った。

 自分の力のことを知るために、様々な資料を紐解いた。

 今までにだってその機会はあった。だが、私は何故か今までその事実に向き合おうとはしなかった。

 物心ついた頃から普通に物の怪の姿を見ることのできた私は、別段自分の力のことを知りたいとは思わなかった。


 だが、宗像先生を護っていた犬の女怪「はな」が私に投げた一言が、私の心に大きな波紋を描いたのだ。。


『お前ほどの有名人は他にはいないからね。お前はそこいらにいるただの見鬼じゃない。あの伏見がお前を護り、伏見最強の守護狐、『鏡魂の君かがみたまのきみ』をお前の守護につけている意味をどうしてお前自身が知らぬのだ!』と。


 物の怪の世界では私の名はよく知られているらしい。


 知らないのは私一人。

 これはいったいどういうことなのか。


 稲荷に関する古い資料を調べて判ったことがいくつかあった。


 名を持っている狐は相当に位が高い。ましてや神具の一文字をその名に持つ者は名を持つ狐の中でもかなりの高位の者。


『自分たち眷属狐には名などない。各務という名は、君が俺を呼びやすくするため適当につけた通称だ』と、かつて各務君本人が出会った時に言っていた。


 そしてそれは恐らく嘘ではなかったはずだ。

 名前を知らなければ話ができないことだってあるからだ。

 各務君がただの名もない眷属狐だったとしても、きっと通称を名乗っただろう。


 ただ、名を持つ狐が本名を伏せるのなら勝手が違ってくる。

 各務君は何らかの目的を持って私の元にやってきたのだろう。

 私の側にいるのが高位の守護狐でなければならない何かの事情が私にあるのだろう。


 では、そんな高位の守護狐に護られている自分はいったい何者なのか?


 長年私を悩ませ、時には助けてくれたこの不思議な目。

 人ならざるものを見ることのできる力。

 遮妖の眼鏡で封じていなければ、とても危険な見鬼の才。



 ━━━━━━━ 私はいったい何者なのだろう?



 各務君は以前、私にこう言った。



『吉岡君。君みたいな物の怪を見る者は『見鬼けんき』と呼ばれるんだぜ。怪奇小説を書きたいなら覚えておけ』



 かつて私が各務君と出会ったとき、『見るだけではなく、干渉もできる力はやっかいだ』と各務君は言った。

 伏見の大神様も同じ事を言った。



 ━━━━━━━ 見鬼。



 鬼を見る力。

 鬼籍に入った者の姿を見る力を持つ者を見鬼と呼ぶ。

 その源流は道教にあり、見鬼術と呼ばれる。

 生まれつきこの能力を持つ者だけが使える力だが、聖職にある者が厳しい修行を経て習得することもできるという。


 この場合の鬼は地獄絵図にあるような角の生えた鬼のことではなく、鬼籍に入った者を指す……つまり死者の御霊だ。


 それは、今は亡き懐かしい人に逢いたいと強く願う祈りの力の究極の形。



 ━━━━━━━ 我、願ひたまふ。鬼に逢ひ見んことを。



 見鬼はさして珍しい力ではないという。

 考えてみれば、死者の御霊や、物の怪らしき異界の者が見える者は自覚するしないに関わらず結構いるものだ。私自身、今までに出会った多くの人々の中にもそれらしき人がいると感じたことがしばしばある。

 霊感を持つと言う者の大半は『自称』であり、本当に才を持つ者はその力を隠していることが多かったが、なぜ、隠していたのかも私にはよくわかった。


 見えることがもたらす恩恵など殆どない。

 大抵は厄介事に巻き込まれる。望んで得た力でなければなおさらだった。


 だが、私の場合は単に見鬼の才があるだけではないようだ。

 物の怪たちや大神様は私に「特別な力を持った見鬼」だと言った。

 それが善き事なのか、悪しきことなのかは今の私には知る由もない。


 伏見に行けば、もう一度大神様に逢えばきっと何かがわかるだろう。

 全ての答えは伏見にある気がした。


 だが、私は知るべきなのか?

 自分の力を。自分の行く末を。

 私は迷っていた。

 それを知ることは果たして私にとって良いことなのか? 災いの種になるのか?


 昔、大神様は私に言った。


『体は人だ。だが、その魂は人とは言えぬ。だが、物の怪でもない。しかし、それゆえお前のその力は強く特殊だ。そしてそんなお前の力は諸刃。我らにとっても、人間にとっても便利であり、やっかいなものである』と。



 諸刃の力。

 その力の真実を知ることで、私は何を得るのだろう?

 知らぬことで、私は何を失うのだろう?





 私の葛藤をよそに、月日は過ぎ、師走に入った。


 師も走るという月、師走。

 年の瀬が近づくにつれにわかに忙しくなり、私自身も日々の忙しさに追われ、そのことについて考える時間すら取れなかった。


 各務君はここしばらく姿も現さない。

 守護狐も年の瀬は忙しくなるのだろうか?

 各務君がこの地での住まいと定める、この家からほど近い小さな稲荷社でも、正月の参拝者を迎える準備で忙しいはずだ。眷属の狐に何かできることがあるのかどうかは知らないが、とにかくここ数日間、各務君は私の前に全く姿を現さなかった。



「はぁ……冷えるなあ……」


 私はかじかんで赤くなった手に暖かな息を吹きかける。

 一瞬暖かくなるが、じきに手は冷たくなる。


 ここ数日、東京は雪の日が続いていて、武蔵野界隈は一面の銀世界。

 先生に仕立てて頂いた愛用のインバネスを纏い、街に出れば、底冷えの寒さ。

 まるで煙のような白い息を吐き出すと、眼鏡はたちまち曇り、私は何度か眼鏡を手ぬぐいでぬぐわなければならなかった。


 先生に頼まれた本を図書館から借りて戻ってくると、本田先生は暖かな火鉢の側で両手をこすり合わせるようにして温めていた。


「おかえり、吉岡君。寒い中ご苦労だったね」

「お気遣いありがとうございます先生。お言いつけの本を借りてきました」


 私は風呂敷に包んだ本を先生に手渡した。


「おお……ありがとう、助かったよ……吉岡君、外は寒かったろう。さあ、こちらで火鉢にあたりなさい」

「はい。ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……」


 私は外套を脱ぐと暖かな火鉢の側に寄った。

 大きな墨が火鉢の中で赤々と燃え、冷えた体をふわりと暖かい空気で包みこむ。

 火鉢のすぐ側にはおたまが長々と体を伸ばして横たわり、軽い寝息をたてていた。


「猫は寒さが苦手だからねえ。おたまは火鉢に火を入れたら、ずっと側から離れないんだよ……見てご覧、吉岡君。なんて可愛い寝顔なんだろうねえ」


 先生は微笑みながらおたまの頭を撫でてやる。

 おたまは一瞬耳をぴくりと動かすが、目を開けることはなく、まるで寝返りを打つように、のばした体を今度は丸め、前足は顔の前で交差させる。

 彼女はその寝顔を見るなと言わんばかりに隠し、またすやすやと眠り込んでしまう。


「雪景色は風情があっていいけれど、年を取ると年々寒さが身にしみるよ」


 先生はそう言うと火鉢の上にかざした手をすり合わせる。


「冬来たりなば、春また遠からじと申しますよ、先生」

「そうだね……とはいえ、まだ師走。暖かな春が来るまでには、まだ三月ほどこの寒さを我慢しなければならないね」

「三ヶ月などじき過ぎますよ、先生」

「うむ……ところで吉岡君、さきほど中臣なかどみさんの家から使いの者が来たのだが、清史きよふみ君は松の内が空けるまではご実家にいるそうだ」

「そうですか……まあ、神社は正月が一年で最も忙しいですからね」


 清史君は先日から実家に戻っている。

 見習いとはいえ神職である彼は、正月の準備のため忙しい身となる。

 清史君と犬猿の仲であるヘイマオ嬢などは「おかげで正月をのびのび過ごせる」と大喜びだ。


「もうすぐ正月なんですね……一年が過ぎるのは本当に早いです」


 私は火鉢の中で小さく燃える炭の赤い火を見ながらぽつりとそう言った。


「そうだね。年を取れば取るほど一年は短く感じられるよ」


 私はそう言った先生の表情をなんとなく見ていた。

 なんだか今日の先生は妙に年老いて見えた。寒さに背中をまるめているせいでそう見えるのだろうか?


「小説家になってからもう二十年以上経つ……思えばいろいろな作品を書いた……」


 火箸で火鉢の墨を転がしながら、先生はそう言った。


「先生の作品はどれも素晴らしいですよ。まるで、鬼界の様子を実際に見てきたかのような描写……物の怪の持つ怖さと美しさ……悪鬼は今にも本から飛び出し襲ってくるかのように恐ろしく描かれ、女怪の描写などは、まるで本当に誘惑されてしまいそうなほど艶かしくて……先生の小説は本当に素晴らしいです。私もあんな世界を描きたいと思っています」

「ありがとう、吉岡君。私の作品の一番の読者はやはり君だね」


 そう言われて私は少し照れくさくなる。


「私は勉強不足で語彙が少ないので、とても先生のような繊細な描写はできません……どうしたらあんな素晴らしい言葉がでてくるのでしょう?」

「それは、実際見たものをそのまま描写しているからだよ」


 先生は悪戯小僧のような表情で笑いながらそう言った。


「えっ? まさか……冗談ですよね? 先生は、鬼界をこの目で見て書いていると仰るんですか?」


 私は一瞬どきりとする。

 火鉢の側で眠っていたおたまが一瞬薄目を開ける。


「そうだと言ったら?」


 そう言われて私はうろたえる。

 怪奇小説家、本田鉄斎について、まことしやかに囁かれている噂は以前からよく耳にしているからだ。


 ━━━━━━━ 本田鉄斎は物の怪や鬼界と契約し、鬼界に自由に出入りすることができる。また、作品執筆の時には、彼が鬼界から召喚した物の怪が彼に憑依し、怪奇小説を書いている。


「まさか……噂は本当だったとか?」


 私の心臓は早鐘を打ちはじめた。

 もし、あの噂が本当だったら、どうしていいかわからない。

 先生の小説の鬼気迫る描写、他に類を見ない情景描写、どれもが天才的だった。

 もし、それが、単に先生がその目で見てきた鬼界の様子をそのまま描いただけのものであったり、本物の物の怪が先生に憑依して書いたものなら納得も行く。


 にわかには信じがたいが、確かに疑わしいこともいくつか思い当たる。


 先生は執筆のときは書斎に篭り、集中力がなくなるからと言って執筆中は決して部屋に誰も入れない。

 それに、先生の出世作『式神の都しきのみやこ』はたった二晩で書き上げ、その間は別人のように執筆に集中していたという。その二日のあいだ、先生は一切飲まず食わずで眠ることもせず、何かにとりつかれたようにその作品を書き上げたと聞く。


 それはやはり物の怪が憑依して、先生に作品を書かせたからなのか?


 嘘だと言って欲しい。

 私は心の底からそう祈った。

 しかし、先生の次の言葉は私の期待を見事に打ち砕いてしまった。


「さあ……それはどうかな」


 私の落胆をよそに、先生は楽しそうだった。

 私にはわからなかった。


「嘘……ですよね? もし、本当だとしたら先生は卑怯なことをしていることになります」

「卑怯……か」


 先生は何かを考え込むような表情をする。


「そうです。実際に先生が鬼界を見てきて、その様子を書いているだけというのならまだしも、小説を書いているのが先生じゃなく、物の怪だったなら、それは先生の作品じゃない! 嘘ですよね先生?」


「小説を書いているのは、間違いなく私自身だよ」


 先生は笑いながらそう言った。

 そして、まだ怪訝な顔をしている私にさらに言った。


「信じてもらえないかもしれないが、本当に私が書いているんだよ。私の心の中に、天啓のように情景が降りてくるんだ」


 私はこの言葉に少しほっとする。

 しかし、一度わいた疑問はどうしても確かめておきたかった。

 執筆中、なぜ誰も部屋に入れないのかという疑問はまだ残っていた。


「先生……不躾ついでにもうひとつお聞きしたいのですが」


 私はおそるおそる切り出した。


「なんだね?」

「あの……先生はどうして執筆中に部屋に誰も入れないのですか?」

「ああ、そのことか」


 先生は笑いながら言った。


「創作の神が降りてくるとでも言えばいいかな……。急にひらめくことって君にもあるだろう? だけど、それは泡のように消えてしまうのも早い。だから、心の中に降りてきたものが消えないうちに、私の全ての知識と語彙を動員して、なんとか書き残したい……そう思うから集中したいんだ」

「そうだったんですか……」


 その言葉には説得力があった。


「だいたい、物の怪が私に憑依して小説を書いていたなら、私の小説はもっともっと人の心を掴むだろうし、もっと多くの人が私の作品に目を止めるだろう……だけど実際はそうじゃないだろう?」

「でも、先生の作品は『月刊青嵐』の中でも一番人気じゃないですか」

「青嵐……ではね」


 先生はそう言って苦笑する。


「吉岡君。世の中にはもっともっと偉大な作品がある。海の向こうの海外の偉大な作家の作品を私たちが読むことはあっても、私の作品を読むのは、怪奇小説の好きな一部の読者だけだ。一つの雑誌で人気だからといって、それに満足していてはいけないんだよ。もっと、志は高く持たないと」


 言われてみればそうかもしれない。

 しかし、私の中では先生が一番の偉大な作家なのだ。

 だから、そんな先生が卑怯な人でなくて本当に良かったと、私は心の中でほっと大きな安堵の吐息をついた。

 それにしても先生は本当に人が悪い。

 今度ばかりは心臓に悪い冗談だった。


「よかった……先生。失礼なことを言って本当に申し訳ありませんでした」


 私は先生に深く頭を下げた。


「気にしなくてもいいよ、吉岡君。君にちゃんと話さなかった私も悪かったのだ」


 先生はそう言って私の頭を上げさせた。


「だけどね、吉岡君」


 先生は少し苦笑しながら言った。


「自分の作品を多くの人になんとかして読んでもらいたいと強く願ったことはあるよ。それはいけないことかな?」

「いいえ、先生。それは、私にもよくあります」

「うん……まあ、私が言っているのは神頼みとかそういうものだけどね……そもそも誰かに頼っている時点で、本当は志が高いとも言えないとは思うが」


 先生は照れたように軽く笑った。


「先生。それは誰でも願うことです。私だってよくやりますよ。寺や神社に行くといつもそればかり祈ります。でも、そういうのって叶ったことないですよね」

「そうだね。私も昔、友人に教えてもらった『なんでも願いを叶えてくれる不思議な石像がある』と評判の場所に行って、『多くの人を魅了できる作品を書きたい』と願ったことがあったなあ」

「そんな場所があるんですか?」


 私は思わず身を乗り出す。


「昔のことだよ。噂では願いがなんでもかなうと聞いたが……今ではもう、その場所には大きな建物が建ってしまった」

「それは残念です。それで、願いは叶ったのですか? 先生」

「さあ、どうなんだろうねえ……」


 火鉢の中の炭がパチンと大きな音を立て、一瞬だけ目を覚ましたおたまが、おおきな欠伸をした。





「ところで、吉岡君。餅は好きかね?」


 先生は急に話題を変えたかと思うと、やけににやにやした表情になった。


「はい。餅は好きですが……」


 私は怪訝に思いながらもそう答える。


「そうか……実はさっき家内が近所からつきたての餅を貰ってきたそうなんだが、君は餅を食べたくはないか?」


 こういう聞き方をするときの先生の魂胆はわかっている。奥様から餅を分けてもらう口実に私を使う腹積もりだ。『吉岡君も餅を是非食べたがっているから』と私をだしにしてつきたての餅をせしめてくるつもりに違いない。

 さして腹は減ってはいなかったが、ここで断ると、先生はさぞやがっかりするだろう。


 私が返答に困っていると、先生は駄目押しするように私に聞く。


「吉岡君、本当に腹はへっていないかね?」


 先生はどうしても餅を食べたいらしい。


「はい……お恥ずかしい話ですが、実は少し小腹がすいております」

「そうかそうか。若いと腹は減るものだ。待っていなさい、餅を少し分けてもらってこよう」


 先生は満面の笑み。なんともわかりやすい人だ。


「吉岡君は安倍川餅と餡餅、どちらが好みかね?」

「どちらも好きです」

「そうか、餅はやはり黄粉と餡子だな。よろしい、それも貰ってこよう。海苔があるとさらにいいね……砂糖醤油も美味いねえ」

「はい」


 私は本当は甘い餅よりは、軽く焼いて醤油をつけただけの餅が一番好きなのだが。


「では、台所に行って貰ってくるかな」


 先生がよいしょという軽い掛け声と共に立ち上がろうとしたその時だった。


 突然、眠っていたおたまが目を覚ましたかと思うと、部屋にひとつしかない窓の方向に向かって全身の毛を逆立て、体を弓なりに曲げ、牙を剥き出し唸り始めた。


「どうしたんだね? おたまや。威嚇なんてめずらしい」


 しかし、同時に私も突然妙な感覚に襲われていた。



 ━━━━━━━ 何かが来る!



 物凄い速さで、禍々しく、黒いものの気配がこちらへ向かってくる。

 シャーッ! とおたまが叫ぶ。


 いけない! ここにいてはまずい。


 しかし、今までに感じたことのない禍々しさで、私は体が思うように動かず、ただその場で身を硬くするしか術がなかった。


「うわっ!」


 何か真っ黒なものが、私の側を物凄い速さで通り過ぎていった。

 私は思わずぎゅっと目を閉じ、頭を両腕で隠すように抱えた。

 次の瞬間、どさりと何かが落ちるような大きな音がした。


「我が主に手をかけることは妾が許さぬ!」


 ヘイマオ嬢の声が聞こえ、私はおそるおそる目を開けた。


 ヘイマオ嬢は出会った時に身に纏っていた銀糸の刺繍をちりばめた黒い旗袍チーパオを纏い、右手には鉄で出来た大きな扇を持ち、金色の鋭い瞳で一点を睨みつけていた。

 ヘイマオ嬢の背後には、先生が倒れていた。


「せ……先生! 本田先生っ!」


 先生の側に行こうとしても、体が動かない。まるで金縛りにあったように、ぴくりとも動かないのだ。


「吉岡。危ないからお前は動くでない」


 ヘイマオ嬢は、ぞっとするほど気迫のこもった顔で私を睨みつける。

 普段は殆ど意識していなかったが、彼女もまた年経た力の強い女怪だった。その力は彼女が生きた年月に比例して強大だった。

 私は動くことすらできなかった。


「何者じゃ。姿を現せ」

『……大陸の女怪がなぜここに居る』


 低く、おどろおどろしい声と共に黒い霧のようなものが部屋中にたちこめはじめた。

 それはだんだん一点に集まり、ある形を取り始めた。


「ほう……みずちか」


 ヘイマオ嬢は金色の目を細め、艶やかな声で言った。


『そうだ。我は古い生き物だ。お前よりずっと長く生きておる……その男と交わした約束によりその男の魂魄を貰い受けに来た。邪魔立てをするな。小娘』


 それは真っ黒な龍の姿をしていた。

 頭には鋭い角、たてがみと目は血のように赤く、背にはところどころ青く光る鱗がある。

 その口には鈍く光る白い球が咥えられていた。


「そうはさせぬ。この男は妾が守護する香箱の持ち主。香箱の持ち主たるこの男は妾の主でもあるのだ……だから妾は主を護る。さあ、蛟よ! 妾の主のはくを返せ」

『なるほど、契約に従い主を護るか……しかし我とてそうはいかぬ。そちらこそ、その男のこんを寄越せ。この男は我と契約したのだ』

「契約だと?」


 ヘイマオ嬢は困惑した表情を見せる。


『そうだ。お前も我と同じ古き生き物なら、契約が絶対たるものであることはよく知っておろう? この男は我に強く願ったのだ。『自分の作品を多くの人になんとかして読んでもらいたい』と……祈願は成就した。だから、対価を貰い受けに来た』

「契約とな……それは真か?」


 ヘイマオ嬢はひるむ。

 正式な契約として取り交わされた約束なら反故にはできない。

 それを聞いていた私はふと、先ほど先生が言った言葉を思い出した。


「お前は『願いを叶える石像』に宿る者か?」


 黒い蛟は私のほうに首を向ける。


『なんだ、お前は?』


 そして蛟はしばらく私をじっと見ていたが、やがて血のように赤い瞳を光らせ、言った。


『ほう……お前、奇果きかか。噂には聞いておったがここにおったとはな』


「奇……果?」


 初めて聞く言葉だった。

 怪訝な表情をする私に、蛟は言った。


『お前、自分のことを知らんのか? なら、教えてやろう。お前は……』

「いい加減にしろ!」


 ヘイマオ嬢が突然、鉄扇を振りかざし、蛟に襲い掛かった。

 しかし、蛟はひらりとそれをかわしてしまう。


『なるほど……誰も教えておらぬのか。それならそれでまあよい。我は奇果には興味はない。よいか、小僧、よく聞け。この男は二十余年前、我に願ったのだ。我はそれを叶えてやった。対価を頂くのは当然のことよ』

「そんな……」



 ━━━━━━━ 「……うん……まあ、神頼みとかそういうものだけどね……誰かに頼っている時点で、本当は志が高いとも言えないとは思うが……」 



 そう言って笑った先生の照れたような笑顔が私の脳裏に蘇った。


「では聞こう。お主、正式な契約に従っているのか? この男の意思を無視した一方的な契約ではあるまいな?」


 ヘイマオ嬢は鉄扇を蛟に突きつける。


『正式な契約だと? そんなことお前に関係ないだろう? 何にせよ、この男は我に願い、我はそれを叶えた。だから、契約は成立だ』

「おおかたそんなことだろうと思ったわ」


 ヘイマオ嬢は勝ち誇ったように笑った。


「吉岡。この契約は一方的なものじゃ。おそらく鉄斎は普通に神仏に祈るような気安さでこの蛟めの宿った石像に願をかけたのじゃろう。それが契約だったことすら知らぬうちに……だが、こやつはそれを逆手にとって鉄斎の魂魄を奪おうとしておるんじゃ」

「そうだったのか……」

「しかし、残念ながら三魂七魄さんこんななはくのうち、七魄をあやつに奪われてしまった。残る三魂を奪われたら鉄斎は死ぬぞ」


 ヘイマオ嬢の声はいつになく迫力があった。


『いまいましい小娘め、お前のその鉄扇に弾かれなければ残り三魂も我のものになったものを……』

「妾が主の魄は返してもらう!」


 ヘイマオ嬢は鉄扇を広げると、まるで舞うように蛟に切りつけた。


『しつこい女怪だ……まあよい。今日のところは引き下がり、また日を改めよう。必ず残りの三魂も頂くからな』


 蛟はそう言うと、突然、煙のように掻き消えた。


「ちっ……逃がしたか……」


 ヘイマオ嬢が舌打ちをしたその時だった



「あなた? どうなさったんですか?」


 奥様の声がして、足音が近づいてきた。


「あなた、どうし…………」


 戸を開けた奥様が、倒れている先生の姿を見つけ悲鳴を上げる。


「吉岡さん! これはいったい」

「先生は急に倒れられたんです、今お医者様を呼びに行こうと……」


 私は咄嗟にそう言った。

 ヘイマオ嬢の姿はいつのまにか消えていた。


「吉岡さん! 早くお医者様を」

「わかりました、奥様」


 顔面蒼白になった奥様は先生に縋りつき、頬を軽く叩いたり、呼びかけたり、ゆすったりしている。

 私はいたたまれない気持ちでその場を後にし、医者を呼びに行くため外に出た。





 かかりつけの医院への道を急いでいると、いきなり目の前に各務君が現れた。

 いつもと違い、真剣な表情で、腕組みをしていた。


「医者なんか呼んでもあの先生は目を覚まさないぜ。はくを抜かれてるんだからな」

「わかってるよ。それでも、私は行くよ」


 私は各務君の側を通り抜けようとした。


「待てよ」


 各務君が私を呼び止めた。


「全ての答えは、伏見にある。君に覚悟があるなら……俺と行くか?」


 私は足を止めた。


「教えてくれ。どうしたら先生を助けられる?」

「伏見の大神様に助力を願うのさ。君の先生を救うにはそれしか方法はないよ」

「大神様に? 助けてもらえるのか?」

奇果きかたる君の願いなら、大神様は間違いなく力を貸してくれるだろうさ」


 あの蛟も言っていた奇果という言葉。

 どうやら私はその奇果らしいが、これは一体どういうことなのか?


「奇果ってなんだ……? 私はいったい、何者だ?」

「今、ここで俺の口からは言えないな」


 各務君は飄々とした声で言った。


「伏見に行けば……わかるのか?」


 私は、今にも掠れそうな声を搾り出した。


「君が知りたいと思うなら」

「……相変わらず各務君はずるいな」

「俺は道を示すだけ。あとは君が決めることだ」

「わかった……だが今は気休めであっても私は医者を呼びに行く。あとで逢おう」


 私は振り向かなかった。

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