第2話 『深々』

 氷寄潔良は新雪のなかにいた。

 びりびりと、身をしびれさせるような寒さ。

 すねのあたりまで積もった雪で、靴の中までじっとりと湿っている。

 深々と降る雪。

 静寂。

 まわりには建物も、ひとの姿も、なにもない。

 どこまでも続く、平板へいばん雪原せつげん

 現代にはなかなか、存在しなさそうな空間だ、と潔良は思った。

 ……実際どうかはわからないが。

 少なくとも自分は、こんな場所を知らない。

 ここに来た経緯についての記憶も、当然ながら見当たらなかった。

 来た覚えなんてない場所に、気づいたらいる――。

 それは明白な、異常事態だった。

(……きっとこれは、夢だな)

 いわゆる、明晰夢めいせきむ、というやつだろうか?

 夢のなかで「夢だ」と分かるなんて、妙なこともあったもんだ。

(ひとまず、足を動かそう。死ぬほど冷たい……)

 潔良はひとつ、深呼吸をした。

 上空をぼんやり見上げる。

 持ち上げた足が重くて、またすぐにそこに戻してしまった。

(雪が本降りになってきたな。どんどん積もる。降っては降っては――歌ってる場合じゃないか)

 一面に広がる、のっぺりとした雲。

 子供が図画工作の時間に、木工用接着剤で貼り付けた綿みたいな。

 そんな現実感のうすい空から、ひらひらとした軽い羽のような雪が、断続的に舞い落ちていた。

「……積もるの、はっや」

 思わず、そんな感想が洩れる。

 実際のそれより、圧倒的に速いペース。

 みるみるうちに膝までにじり寄ってきた、真白い地面を眺めていた。

「頭がつめたいや」

 苦笑し、なにげなしに、頭のうえの綿雪を払いのけ――ようとして、首をかしげた。

「ん? なんか今、……べちょっ、としたような」

 頭が急に重くなって、バランスを崩す。

 だが不思議なことに、足は抜けない。

 積もった雪は、太腿ふとももの半ばくらいまで迫ってきていた。

「うわわっ!」

 慌てふためきながら転倒。

 身体を全て、雪に委ねる。

 ――しかし。

 それは思っていたような、常識的に思い描くようなものでは、なかった。

「なん……だ? コレ……?」

 じわりじわりと全身を埋めていく、――黒い、雪。

 雪?

「……ひッ」

 ずぶずぶ、と、彼の肢体が「それ」に飲みこまれていく。

 悲鳴をあげようとする口にも流れ込み、喉を通って内部をおかす。

 えづく声はもう外界には届かず、ぐるりぐるりと肺の中で回転するのみ。

 あまりの冷たさとおぞましさに、身を、海老のようにのけぞらせる。

(オレ、死ぬのかな……?)

 夢のなかで死んだら、どうなるんだろう。

 今まで親しんできたフィクション。

 そこでの末路を、脳裏に浮かべる。

 眠りながらなら、きっと苦痛などないと思っていたのに、

 なんだ、――こんなに苦しいなんて。

 目を閉じる。

 眼窩がんかに雪もどきが入って冷たかったが、別に、構わなかった。

 はやく、と、知らず懇願する。

 刃物のようなつめたさが、脳髄を焼き切る。

 冬籠ふゆごもりの熊のようにゆったりと、思考が眠りにつくその前に、

 ――ざく、ざくっ。

 雪を踏む音が、機能をうしないかけた耳に、どこからか聞こえてきた。

 くぐもった声。

 低い低い、ベースのような声。

 潔良は知らず知らずのうちに、その主の名を呼んでいた。

       ◇

「目が覚めましたか? 氷寄さん」

 潔良が目を開くと、すぐ近くに、色濃い黒のすだれがあった。

 数秒の間のあと、それが大学での希少な友人、――二石楚唄の、前髪だと認識する。

 背中全体に、柔らかい感触。

 どうやら、自室のベッドに寝かされているらしい。

 身体の上から、覆いかぶさるような体勢。

 つやのある髪が、潔良の鼻先に軽く触れる。

 嗅いだことのないような、少し変わった香りがした。

 エスニック系の香水、……だろうか?

 香草こうそうを焚いた煙と生クリームを混ぜ合わせたみたいな、濃い甘さが、後味をほぼ残さずに鼻を抜けていく。

「ん? どうしたんですか、……氷寄さん?」

 楚唄が、怪訝な口ぶりで、問いかける。

 逆光で、その表情はうかがえなかった。

 彼が小首をかしげ、さらに身体の距離を縮める。

 体重がかかり、どこか異郷を思わせる甘い香りが、潔良の思考をぐらつかせた。

「……顔近ぇよ。離れろ」

「あっ、すみません! 驚かせちゃいましたね……!」

 後ろから押されれば、唇が触れてしまうくらいに接近していた楚唄を、ぐいっ、と押しのける。

 知らず、頬に手をやった。

 誤解されてしまいそうな温度だった。

 ――まさか、そんなふうになる訳など、ないのだけれど。

「いやすみません、本当、心配すぎて……」

 ゆっくりと距離を取って、楚唄はマットレスに両手をつく。

 若干残念そうに見えるのは、あんな体勢になっていたから、自意識過剰になっているだけだろう。

「大丈夫ですかぁ? 具合、悪くないですか?」

 ベッドの隅っこに座り直し、ぼんやりした表情の潔良を、眉を下げて見やった。

「この前に、住所教えてくれたんで遊びに来たら、お風呂場でぶっ倒れてたんですもん! もうびっくり仰天ですよぉ、死んじゃわないかなって思ってぇ」

「あー……ごめん。ってことは、介抱してくれてたんだな。ありがとう」

 記憶を手繰り寄せる。

 服を脱いで、洗髪を始めたあたりから、ふつりとそれは途切れていた。

(――それじゃ、シャワーを浴びていたときに、体調が悪くなったってことか)

「日頃の不摂生がたたったかな」

 苦笑して、ふと何かに気づいたように、目をまたたいた。

「……ん」

 首に手をやる。

なんとなく、強張こわばるような違和感があった。

「なあ、二石。なんかさっきから、首がちょっと痛てぇんだけど。ヘンなとこある?」

 楚唄がやわらかく微笑む。

 口元へと左手をやり、言葉につられるように、自らも彼の首筋に、その手を這わせた。

 ゆっくりと伸ばされる、つめたい手。

 触れた瞬間に、潔良の肩が、ほんのわずかに震える。

 しばらくそこをでさすっていたが、やがて、離れる。

「んー。……特になにもありませんけどね?」

「そっか」

 潔良はしばし、そのまま黙っていた。

 うつむく。

 長い前髪が、ふわりと彼の目の前にかかる。

 エアコンに視線を向け、自分の肩を、両腕でかき抱く。

「さむいのは……嫌だなあ」

 その瞳はどこか、虚ろに濁っているように見えた。

「えっ?」

 楚唄が、すっとんきょうな声を上げる。

「湯冷めしちゃったんですかね? 大変です。冷房、温度下げますね」

 リモコンを操作して、卓上に置く。

 口元は、ほんのかすかに笑っていた。

「大丈夫ですよ。また倒れても、僕がそばにいますからね」

 ふふふ、と笑い、そのまま歌うように、続ける。

 どこか艶っぽい声で。

「今は夏ですよ。まだ。……このままだと今年、越冬えっとうできないかもしれませんねえ」

 おかしそうに肩を震わせ、潔良の肩を抱く。

 特になにも不平を言うことなく、彼の頭が楚唄の首元に収まる。

「そのときは。――一緒に、雪に埋もれたねぐらのなかで、むつまじく過ごしていましょうねえ」

 潔良が、光のない目でうなずく。

「……うん」

 楚唄が嬉しそうに微笑む。

 その前髪の奥で、真黒な瞳が一瞬だけ――妖しい光を、纏った。

 やわらかい茶髪に伸ばそうとした手が、不意にぴたっ、と止まる。

「可愛いです。……でもやっぱり、自分から好きになってもらえたら、もおっと愛着がきますよね?」

 ――よし。

「まだですね」

 ぼんやりと、形骸的に開かれていた潔良の瞼を、そっと閉じさせる。

 彼の身体から力が抜け、がくり、と首が前に折れた。

「もう少し、僕は辛抱強くならなくちゃ」

 潔良の頬を両の手で包み込み、いとおしそうに、視線を注ぐ。

「なにせ――雪が解けぬままでは、春は訪れないものですからね?」

 首すじの、……消えかけた五指のあとを、なぞる。

 それがくすぐったかったのか、眠りについていた潔良が、軽く身じろぎした。

「おっとっと! マズいマズい、起きちゃいます」

 あわてて彼から離れ、まだ半分寝ぼけている彼が目をこする様子を、楚唄はにこにことして眺める。

「どう転がっていくのか、僕も楽しみですよ」

 ぱちりと、目を開ける。

 緩慢な動きで、あたりを見渡す。

「ああ。……寝てた、のか。ごめんな二石、話の途中で」

「いえいえー。全然大丈夫です。なんの話でしたっけ?」

 楚唄がけろりとして応える。

 冬に深々と積もる雪。

 それがいったいどこから来ているのかは、

 いずれ――明らかになるのかもしれない。

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