祲世界へと
天萌 愛猫
第1話 『だるまさんがころんだ』
いつも通り、全くもって変わり映えのしない、退屈かつ窮屈な大学での時間。
ひとの目線が、ひたすらに怖い――。
巨大コミュニティ内においての、息詰まるような生命活動。
(いちいち怖がるクセを、どうにかしたい。……けど、そう願うだけで改善できるなら苦労はしないよな。世間の誰もかれも)
ふう、と小さく溜息を吐き、じっとりと肌に貼りついていたシャツを洗濯槽に放る。
たったそれだけの動作ですら、なんだか今日は面倒くさかった。
――異様に、肩が重い。
久しぶりに、ひとと話したからだろうか。
ぬるめのシャワーが、彼の茶髪をやわらかく濡らしていく。
普段はヘアゴムで簡素にまとめ、ポンパドールにしている前髪が、アイマスクのように両目を覆った。
視覚情報が遮断され、多少、負担――のようなもの――が、軽くなる。
休み時間。
騒がしいフリースペースの隅。
座面の硬い椅子に腰掛け、昼飯の安い菓子パンをかじっているときに、彼はふらりと現れた。
日ごろ、周りの学生たちから
(話しかけてくる奴なんて、滅多にいないのにな)
自分の目つきに
どこかぽうっとする頭に喝を入れるように、住み始めた時から不安定ぎみな水勢が強まった。
(おんなじ前髪長い族としては、まあ……親近感が持てる。むしろ、オレより上だな)
クセのとても強い猫のような黒髪で、その目元を完全に隠してしまっている、彼――楚唄の風貌。
オブラートに包んでも、かなり、……もっさもさだった。
すだれが下ろされているように、表情が読み取れない。
でも正直、思い返すだけでちょっと、クスっときた。
ゆるんだ頬を、水滴がぱたぱたと叩く。
(んー。だけれど、何というか……不思議ちゃんっぽいな。大学生男子でそれは、ぶっちゃけ流行らないと思う)
寄ってきた彼は、手に持っていたカップラーメンに湯を入れに行くでもなく、ただしばらくじぃっと、潔良のほうを眺めていた。
腰を下ろし、なお、じっと見つめる。
他の奴らと同じで、すぐにどこかに行くだろう。
そう思っていたのに、それは、いっこうに訪れなかった。
ただ、うれしそうな、困っているようなよく分からない表情で、黙ったまま。
「…………」
長い沈黙。
話しかけてくるわけでも、ない。
「…………何?」
違和感を覚え、勇気を振り絞って彼のほうを向いた瞬間、
彼はひとり鼻歌でも口ずさむみたいに、次のようなことを言った、のだった。
「『だるまさんがころんだ』。有名な遊びですよねえ。参加したことないひとなんて、そういないでしょうね。……ねえ。僕たちはいつだって、それの一員なんですよ?」
「なかなか意味分からんこと言うよな、あいつ。ふふ」
つい独り言が出てそれで、ここが風呂場だ、と思い出した。
出しっぱなしになっていたシャワーの流れる音が、浴室の中でいやに、大きく反響している。
栓をひねり、湯を、きっちりと止めた。
今月だって厳しい。節約を心がけねば。
シャンプーの泡を、手にすくい取る。
髪の先から、薬液がたらり、と流れてきて、思わず固く目をつむる。
「だるまさんが転んだ、ね。そんな遊び、小学校のときにやったかもなぁ」
嫌な記憶。
(…………)
昔のことを思い出してしまって、内心で、こんな話題を出会い頭に振ってきた彼のことを、呪った。
(どこの科の子だろう。あんな奴いたら目立つから、噂にでもなってそうなのに)
ひとの噂が大好きなうちの学生たちに、ほっておかれるはずがないだろうな。
そこまで考えたところで、なぜか、寒気を感じた。
「?」
なにか、見られているような、そんな感じがする。
「なんで?」
ここは浴室だ。
窓だって閉めているし、人影なんてない。
ひとり暮らしだから、同居人も、いない。
(……)
少し、湯冷めしたのだろうか。
身体が、不随意的に、震える。
ネットサーフィン中に見つけて、暇潰しに読んだオカルト記事。
その内容がふと、潔良の頭をよぎった。
洗髪をしているときに、
「だるまさんがころんだ」
そう、唱えてはいけない。
遊びに参加しようと思った、「何か」が。
鏡に、映り込むかもしれないから。
(…………まさか)
目を開けるのを、若干ためらった。
そういうのが別段苦手というわけでもないが、めっきり信じていないとも言い
遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
嫌な記憶。
嫌な記憶。
久方ぶりにフラッシュバックしてきたそれが、彼の脳裏から、とても離れてくれそうになかった。
「……人間よりは、マシかもな」
呟き、やけに重たいまぶたを開く。
鏡に視線をやる。
自らのしとどに濡れた茶色い前髪、その向こうで、
――真黒な一対の目が、
「あ、」
にこり、と、黒い目が細められ、首をひっつかまれる感触。
ひいやりとした細い五指が、肌に食い込んだ。
全身が総毛立ち、ぶるりと骨のうちからふるえて、
……潔良の意識は、そこで途絶えた。
◇
二石楚唄はにこにこと嬉しそうにわらいながら、布団にもぞもぞとくるまる。
薄暗い部屋。
世界が終わる日の夕焼けのような、赤みの強い室内灯。
それを、一番小さな光量に設定し、隣へと顔を向ける。
昼間に会った、青年。
蒼白な顔。
その両眼はゆるく閉じられていて、角度によっては、すこし半目にも見える。
日ごろ彼の周りから有象無象を退けている、
黒髪を無造作に掻き上げ、青年の背に腕を回す。
「あぶないあぶない。――壊しちゃうところだった」
野うさぎのようなふわふわとした髪を、指先でくしけずると、わずかにぴくりと動いた。
手をそのまま、下にすべらせる。
しろい手がさすった首筋にはくろぐろと、……「何か」に
「っと。んー……。向こうに帰す前にある程度、うすくしておかないとですね」
腕に力を込めて、楚唄はその
とくっ、とくっ、と弱々しく打つ鼓動を堪能するように、しばらく動きを止める。
苦しげに漏れる、
青年の顔へと、頬を寄せる。
彼の癖毛に、顔をうずめる。
うすい掛け布団の上で、あかく火照った男の裸身を抱きしめる楚唄の姿。
それはどこか
黒髪の奥で、鈍い光を放つ、瞳。
弓なりに弧を描いた唇の隙間から、熱い息が吐きだされる。
困ったみたく眉尻を下げて、引き締まったふくらはぎに、骨張った指に、ごく少量の
彼がやさしく、手探りで触れるそのたびに、うすく開いた青年の
とてもちいさく、不明瞭だった
虚ろに開いた瞳から、つう、と流れる涙を、ていねいに親指で拭い取る。
くすくすっ、と笑う。
やや汗ばんだ、洗髪料の香る茶髪をやわやわと手でもてあそび、耳元にひそりと
「きよらくん、っていうんだよね。僕、きみが――『すき』だなぁ……」
ふわふわしてるのが、かわいいね。びくびくしてるのも、かわいい。あとね、あと、あと――。
眼を
闇色の髪がだんだん、不定形に
――それはやがて、何だか
べちゃっ、べちゃべちゃべちゃっ、とそれが、身動きの取れない青年の全身に降りかかる。
血色を失ってきている彼の身体がびくりと跳ね、こまかく震え始めた。
「……あっ。いけないいけない。壊れちゃったら元も子もないよ。戻らないんだよなぁ」
かるく頭を振る。
どろどろとしたそれはすぐに、楚唄へと吸収されていった。
背を繰り返しさすり、言う。
「ごめんね、危なかった……危ない、危ない。でも、せっかく『誘って』くれたんだし。もうちょっとだけ、あそぼ? もっともっと楽しいこと、いっぱいきみとしたいんだぁ」
ね、いいでしょう? きよらくん――。
屈託のない笑顔で問いかける楚唄。
ふるり、と身震いをした青年が帰途に就くのは、
もうしばらく――後のことに、なりそうだった。
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