幸せを照らす初日の出

川野狼

1.穏やかで善良な幸福

 なぎさは年越しデートが楽しみだった。来年はいよいよ大学四年生になる。就活が忙しくなるからその前に出来ることは色々しようと、ひびきと話していた。年越しデートはその一環だ。

 けれど、残念なことに響は遅刻した。時刻は今丁度、約束の朝の十時になった。だから渚は腹が立っている。非常に腹が立っている。

 渚は、自分が彼氏に依存するようなチョロい女ではないと信じている。砕けやすくも高い自尊心を持っているから、一人でも生きていけると信じていたし、事実響と付き合うまでの渚はそうだった。だから、気に入らないことがあれば真っ直ぐ響に伝えることが出来た。

 遅刻は渚にとって禁忌だった。妙なこだわりだと自覚してもいたが、渚は響が約束の時間に遅刻することがどうしても許せなかった。遅刻は、それが数分でも許せない。響に会える、という欲求が既定の時間に満たされないと、それが激しい苛立ちを生むのだ。そうなると、自分でも制御が効かなくなる。いざ会えたとなっても、その後一時間は口を利かなくなる。

 響は十二分遅れて集合場所に来た。渚は腕を組んで右足のつま先を何度も何度も地面に打ち付ける。

「本当にごめん!ちょっと、荷物落としちゃった人の手伝いしてた……」

 響は両手を合わせて、それよりも低く今日のために決めてきたらしいセットされた金髪パーマの頭を下げて謝ると、手の隙間からこちらの顔を窺った。

「だったら、何?」

 なるべく語調を和らげてやろうとしても、きつくなってしまう。そもそも選んだ言葉もとげとげしいことに言ってから気が付いた。

「本当にごめん」

 響は渚に怒られ慣れているから、きちんと謝り方を心得ている。こういう時はただひたすら自分の非を謝り続けるのが事態を収束に導く一番の方法だ。しかし、とても楽しみにしていたデートだ。どれだけ会えることを心待ちにしていたか、それを裏切られてどんな気持ちでいるのか、響をもう少し懲らしめないと許せない。

 響は状況を理解したのか、頭を上げて渚の手を取った。

「電車に乗ろ」

「……」

 渚は答えることなく、体重を後ろにかけるようにしながら手を引かれていく。改札を抜けて、ホームに立つ。下りの電車が到着して、乗り込み座る。その間、一言も渚は喋らなかったし、響も喋らなかった。響は時折渚の顔を見つめてきたが、渚はそれに気付かないふりをして遠い空を眺めていた。

 本当は最近読み終えた本の話をしたいんでしょ?今度発売される新作ゲームを一緒にやろうとか言いたいんでしょ?それとも今度のコンサートチケットの話でもしたい?

 意地の悪い言葉が頭に浮かぶ。渚にとって、もう遅刻そのものはどうでもよくなっている。ここからはただのゲームだ。響が負債を背負っているから、それをどう返済するのか。返済できるかどうかは、ここからの響の腕次第。

 こんなことをもうかれこれ一年近く続けている。数日前、久し振りに会った高校の友達にそんな彼氏との状況を話したら、かまちょだな、と突っ込まれた。確かに多少我が儘だとは思うが、かまちょと言われるのは心外だった。友達はさらに、そんな依存してると後悔するよ、とまで言っていた。依存なんてありえない、と渚は言い返しつつも、本当のところはよくわかっていなかった。渚は今の今まで忘れていた友達とのそんな会話を、雲一つない空を眺めながら突然のように思い出して、モヤモヤしていた。

 ちらと右隣の響を見る。スマホをいじってゲームをし始めていた。最近そのゲームのガチャの新シリーズが出たんだよね。本当は、渚が、そう声を掛けたかった。

 でも今、渚は怒っている、ということになっている。だから、視線を窓の外に戻す。雲がないはずの空に少しでも雲を見出したかったが、無駄だった。一人だけ世界から取り残されたみたいでなんだか急に心細くなり、渚は目を瞑ることにした。

 目的地に着いて電車を降りると、改札周辺は沢山の人でごった返していた。駅のすぐ近くに有名なお寺があり、年越しに向けて駅前にも既に屋台が並んでいる。まだお昼前なのに人の波が凄く、移動するのもままならなかった。

 響が手を握り、先を歩く。

「はぐれないでね」

「……うん」

 嬉しい。機嫌が悪いというはずなのに、もうどうでもよくなってしまいそう。日陰だから本当は足が震えるほど寒いのに、指先から感じる響の熱で頬が上気する。人混みを抜けて、さらに南に十分ほど歩いていくと、目的のマンションに着いた。この三階が予約している部屋だ。

「ちょっと待ってて」

 エントランスに入ると、響が事務室の方に向かって行った。渚は今入ってきた自動ドアの向こうを見る。楽しそうなカップルが左から右へ、手を繋いで歩いていく。渚は自分の赤い指先を見た。

 こういう時、つまり響がやらかして渚の機嫌を損ねた時、許しのサインは渚が当然出さないといけない。渚は気持ちをはっきり伝えることは苦手だ。それでも、響は渚が許すまで罪滅ぼしを行うのに必要最低限なことでしか手を出してこない。

「鍵ゲット!行こ」

 響が鍵を見せながら事務室から戻って来た。渚は頷きながら、なるべくそれとない感じで響の左手の指先を掴む。響が一瞬目を見開いて、すぐに何事もなかったかのように渚の手を包むようにして握り返した。

 三階に上がり、部屋に入る。テレビやベッドが用意されている1Kは、二人で泊まるには十分な広さだった。

「いい部屋だね」

 渚はソファに腰掛けながら響の顔を見る。響はほっとした様子で渚の隣に座った。

「うん、ちょうどいい広さだし、予約出来てよかった」

「カーテン開けてみよ。景色見てみたい」

 渚が立ち上がろうとすると、響が袖を掴んで引き留めた。振り返って見ると、響は子犬のような目で見上げていた。

「何?」

「なんでしょう」

 渚も響も、はっきりとはものを言わない。そして大抵、響が雰囲気を醸し出し、渚が響に明確な言葉を求める所から二人のやり取りは始まる。響が袖から腕に持ち替えて、ぐいっと渚を引っ張り抱き寄せる。

「ちょっと、いじわるだったんじゃない?」

 耳元で囁かれる声に若干の痺れを覚える。渚は自分に、負けるな、チョロいぞ、と心の中で叫びつつも、上着越しにも全身に感じる響の体温に理性をカリカリと削られていく。

「だって、遅刻するのが悪いんじゃん」

「そうだけど、だいぶ我慢した」

 響の腕に力が入る。ちょっぴり苦しい、けど悪くない。

「そうね。何を期待してるの?」

「わかってるくせに」

 渚はわかっている。響は理性が強いけれど本当は甘えたがりのゴールデンレトリバー。だから、いい子にしていたらご褒美を与えなければならない。でも、渚ははっきりとは口に出さない。だから、

「だったら?」

 と遠回しに答える。すると、響はいつもの台詞を言う。決まった台詞を言うのだ。

「意地悪だなぁ」

 この言葉が出て来ると、渚は響をどうしようもなくいじめたくなってしまうのだ。その後の展開が、採れたての蜂蜜よりも甘くてとろけるような展開が、わかっているから。

「ダメ?」

 響の耳元につぶやく。すると、響は渚の鎖骨と肩甲骨の間に顔をうずめるようにしてから、頬をぴったりと渚の頬にくっつける。そして、耳元に口を近づけた。

「そういうところが大好き……」


 響は渚の心を掴むのが上手だ。

 初対面の時もそうだった。大学二年生の春休み、友達に誘われて参加した退屈なボランティアで、響と出会った。響は一目惚れをしたらしく、猛烈なアプローチをしてきた。大学が一緒だったこともあり、ことある毎に響は昼食に誘ってきた。一匹狼気質だった渚は、特に昼食を食べる友達も大学にいなかったのでその誘いを断ることはしなかった。響は聴き上手で、会話が得意じゃない渚も自然と自身の話を始めることができた。だから渚は、響と話すことを次第に楽しいと感じるようになった。

 大学三年の夏休みに入る二週間前、響は渚に誘われて、昼食後に近くの山の上にある公園まで散歩に行った。夏の日差しが眩しくも流れる汗が気持ちよく感じられる穏やかな日だった。公園から見下ろす景色は日常ののどかさを象徴していて、渚はその場所がすぐに好きになった。その時だった。

「渚、好きです。僕と、付き合ってください」

 一瞬呆気にとられた。響は真剣だった。真っ赤に染まった耳と頬、渚を真っ直ぐ捉える泣き出しそうな潤んだ瞳、緊張で白くなるまで握り固められた両手の拳。全てが渚の脳裏に今でもしっかり刻み込まれている。渚はその時、強く心を揺さぶられた。胸が震えて、世界が地震でも起こしたかのように落ち着かなくなった。その日は答えを保留にして帰ることにしたが、結果的に響は渚の心を鷲掴みにした。

 次の昼食の時に、渚はOKを出した。自分から直接的に表現することはとても苦手だったので、

「この前の話、いいよ」

 というとても婉曲的で簡単な答え方になった。それでも、響は両腕を上げて喜び、渚はそれが恥ずかしかったけれども嬉しかった。


 記憶の中に一瞬意識が飛ぶほど渚は頭がとろけてしまっていた。それから自分が無意識に響を抱く腕の力を強くしていたことを知る。背中で絡ませた自身の指を解いて、響の肩に掛けると、頬に一度だけ短いキスをして、

「私も好き」

 とだけ小さい声で自分の耳を真っ赤にさせながら伝えた。

 それからお昼の時間を過ぎているのにソファの上で肌を重ねた。時計が午後一時ニ十分をさそうとする頃になって一段落し、お腹が空いたね、と笑った。

「あ、お昼、予約してたって言ってたよね。あれ、何時だったの?」

 髪を直しながら、後片付けをする響に尋ねる。

「十四時」

「なんでそんな時間に……って、まさか」

 振り返ると響が舌をペロッと見せて笑っていた。こいつ、こうなることをわかっていたんだ。

「私がその気がなくて、遅い時間の昼食に文句言ったらどうするつもりだったの」

 手の上で転がされていたようでいい気がせず、眉間に皺を寄せて響の顔を睨む。

「その時は、その時で、それまでゆっくりここでテレビでも見ようと思ってたよ」

「ふーん」

 立ち上がって響の背中をパシッと叩いた。嬉しそうに笑う響にムカつきつつ、可愛いなとも思ったりする。既に傾きかけた陽がカーテンの隙間から穏やかにさしている。

 昼食を食べて、街を散策して、スーパーで買い物をする。マンションへの帰り道、渚は胸いっぱいに心地よい冬の風を吸い込んだ。

 ふと、同棲したら、こんな風に何気ない幸せな日を過ごすのかな、と考えた。そして、自分がいずれ響と同棲をするものだと信じていることに気が付いた。

 そういえば、響は同棲のこととか考えたりするのだろうか。

 今まで、彼とそんな話をしたことはない。

「まだお腹空かないよね」

 部屋に戻って上着を脱ぎながら響に言うと、彼も、そうだね、と頷いた。

 何気なくテレビをつけるとニュース番組が年末のニュースを流していた。

「今日未明、千葉県五街道市にて発生した住宅火災では、住宅一棟が全焼、周辺の住宅にも一部火が燃え移りましたが、午前七時頃に鎮火されました。現場からは一名の遺体が確認されており――」

「年末に火事だって」

 渚が言うと、そうみたいだね、怖いわ、と響は答えながら、特に気に留める様子もなくテレビに映画配信サービスのデバイスの接続をしている。

 渚は再びテレビに視線を戻すも、番組は既に次のニュースへと切り替わっていた。そして渚もそのニュースで取り上げられた政治の話に興味がわかなくて、響が接続を終えるなり、リモコンの入力切替ボタンを押した。

「何見る?」

 響が笑顔で隣に座る。さりげなく渚の手を握っている。甘えたがりだな、と思いながらも、渚は笑顔になっていた。

「この前のドラマの続き見たい。あの、ホラーのやつ」

「ああ、ストレンジャーズね。いいね、見よう」

 ドラマを二本見て、少しだけイチャイチャして、料理をする。年越し蕎麦を啜りながら、渚は響の顔を盗み見た。いつも穏やかな海のように渚のことを受け止めてくれる響。依存することはない、はず。だけど、やっぱり、響はいてほしい存在だ。依存なのか、そうじゃないのか。この気持ちがいいことなのか、悪いことなのか。わからない。でも、とにかく、響と一緒にいたい。

 この時間はどれだけ続くのだろう。そんな不安が胸を霞めた。

 幸せが最高潮の時ほど、この後が下り坂になるのではないかという不安が襲ってくる。その気持ちから自然と口を開いていた。

「同棲したら、こんな感じなのかな」

 ずっと一緒にいようね、なんて子どもだけが許される言葉を吐くことは許されない。本当は言いたいけれど、離さないでと約束させたいけれど、そうすることはお互いにとって呪いになることを渚は知っている。だから、自然と遠回しに尋ねることになる。それでも、同棲の話を今までしたことがなかったから、重たい質問だったかもしれないと、言ってから不安になった。

 響は渚の顔を見る。

 目が合った。

 二人の視線の間で何かがやり取りされたわけではない。そんなテレパシーは使えない。ただ単純に目が合っただけだ。

 渚は目を逸らさない。自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ茶碗と箸を持ったまま、口の中の蕎麦を噛まないまま、呼吸と瞬きを忘れて固まっていた。足先が微かに震える。

 響は微動だにしなかった。ただ、ゆったりと渚の目を見たままだ。

 三秒ほどそのままだった。

 一秒過ぎる毎に居たたまれなさが累乗されていく。目を、背けたくなる。自分が、間違っているのだと思われてくる。目を瞑ろうとした、その瞬間だった。

「うん、きっとそうだよ」

 響は微笑んだ。

 きっと響にとっては、何気ない答え方なのだと思う。ただ、賛同しただけ。響の気持ちはわからない。けれど、「そうだね」じゃなくて、「そうだよ」という言い方に渚は、自分の想像が単なる想像ではなくいずれくる未来であると言われたような、自分と響の気持ちが一緒であるような、そんな気がして心が高鳴るのを感じた。高校の友達に話したらきっと、考え過ぎだ、依存しているって笑われるだろうな。そんなことを思いながら、渚は嬉しくて零れる涙を響から隠すように拭った。蕎麦を先に食べ終えた響が背中に回してくる腕がとても温かい。

 それから洗い物をして、映画を見て、身体を絡ませる。いつの間にか渚と響は眠りに落ちた。一年で一番穏やかな眠りだった。


 目を覚ますと、響はまだ眠っていた。時計を見ると八時十二分。カーテンの隙間から太陽の跡がちらちらと見えている。初日の出を一緒に見るのもいいね、なんて話をしていたのに、結局見はぐってしまったが、嫌な気はしなかった。怠惰なようだけれど、これくらいの穏やかな生活が自分達には丁度いいのだ。

 ベッドから立ち上がり、カーテンを開く。

 眩しい朝陽が、光のシャワーとなって渚の顔に降り注ぐ。胸いっぱいに息を吸いこむと、身体の内側から全てが洗われるような気がした。

 ベッドでまだ眠っている響の頬を撫でる。温かく穏やかな朝に、渚は「幸せ」を噛みしめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る