最終話 君となら
彼女ができると、なにが変わる?
初めての彼女ができたときは、それはもう、世界のすべてが変わるものだと思っていた。デートの予定を組んだり、さらに頻繁に連絡を取り合ったり、無尽蔵のきらびやかな幸福で満ちていくものだと思っていた。
だが、実際はそうではない。
朝起きて大学に行って、やることをやれば一日が終わる。金がなければバイトを入れなきゃいけないし、なにもしなくても腹は減る。
生活の合間を縫うように、俺たちは恋をする。
『なにか買って帰るものある?』
『長ネギと豆腐がほしい』
『オッケー』
学食の席に着いたところで、メッセージのやり取りをする。
恋、なのか。これは。
いや、これは普通に生活だな。
『今日、お泊りしてもいい?』
これは恋。
躊躇いそうになる指先をなんとか動かしてメッセージを打ち込む。
『いいよ』
たった三文字。しかしこの三文字に、心臓は早鐘を打つ。
呼吸を整えていたら、ラーメンを確保してきた船見が到着する。
「なんだアサーギ、まだ食ってなかったのか」
「――ああ、ちょっとな」
「茜ちゃんとの会話はほどほどにしとけよ。カレー、冷めちまってるぜ」
「そんな時間経ってねーよ」
スマホを伏せてスプーンを手に取る。
そういえばまだ、ちゃんと付き合い始めたことは報告していなかった。
なんて言おうか。
船見はもう、俺たちが婚約してると勘違いしてるからな……。
言わなくてもいいか?
だがそれは、義理を通していないような気がする。別に俺たちの間に、そんな義務はないのだが。まあいいや。言っておこう。
「あのさ、船見。実は一つ、報告することがあって」
「入籍か?」
「なんかもうそれでいい気がしてきたな」
ここで入籍したと思ってもらえば、報告の数がいくつか減らせる。が、俺が既婚者だという間違った噂を流されるのはかなり面倒だ。
「違う違う。付き合い始めただけだよ。まだ交際開始しただけ。オーケー?」
「不可解」
「なにがだよ」
「どう見ても茜ちゃんとアサーギはその段階を超えているはずなのに……なぜだ?」
「いろいろあんだよ、人には」
「そういうもんか」
船見がラーメンをすすりだし、この話は終了。
案外あっさりした幕引きではあったが、元々こいつはこういうやつだ。婚約済みだと勘違いしていれば、確かに付き合い始めではインパクトも少ない。
ラーメンがなくなったところで、船見は思い出したように言った。
「んで、結婚式はいつよ」
「まだしないって」
「純愛なのに」
「純愛だからだろ」
「アサーギは慎重派だな」
「ごく普通の感性だろ」
俺のが正論を言っているはずなのに、この友人には通用しない。やれやれと首をかしげ、「なにを言っているんだか」と言われる始末だ。
「もういいや、実験行くぞ」
「あー、今日もたりぃな」
空になった皿を返却して、俺たちは午後の授業に戻る。
◇
実験が終わったら帰宅する。
そろそろバイトを始めようかと思っているが、求人を見るだけの日々が続いている。夏休みになったら始めようか、などと最近では思っている。
六時半ごろになって、チャイムが鳴った。玄関を開けて、茜を中に入れる。
「ただいま」
「おかえり。買い物ありがとな」
「いいのいいの。来る途中だしっ」
鍵を閉めて、靴を脱いで、リビングに入ってくる。
こたつはもうしまった。いくぶんか寂しくなったフローリングの上に荷物を置いてから、茜は俺の胸に飛び込んでくる。
細くて小さな彼女の背中に手を回して、そっと引き寄せる。
俺の顔が、そのまま茜の頭に載せられるくらいの身長差。ぴったりと収まるこの具合がちょうどいい。
茜が満足したら自然に離れるので、そのタイミングで俺も腕を放す。
時間的にちょうどいいので、買ってきてもらったものを使って料理を始める。
「今日はなに?」
「豚肉焼いて、ネギタレ作って、豆腐の味噌汁。レタスとトマトでサラダ」
「天才~。お米は炊いた?」
「いや、まだだな」
「じゃあ私がやっとくね」
「ありがとう」
俺が野菜を切る横で、茜が米を研いで炊飯器に入れる。
繰り返される生活の、その中に茜はいる。寂しくなったり、不安になる暇もないくらい、俺たちは同じ時間を過ごしている。
「浅葱くん、他になにかやることある?」
「いや、特にないな」
「そう。じゃあ適当に掃除しとくね」
「座ってていいんだぞ」
「ダメ。私もちゃんと家事をして、浅葱くんにアピールするの」
「なにをだよ」
「うーん、嫁適正?」
唇に手を当てて、茜が小首をかしげる。ふわっとした髪が揺れて、大きな瞳が俺へと注がれる。
「それは大事だな」
「でしょ。ちゃんと高めないとね」
すぐに彼女は洗面所に移動した。地味にほこりが溜まりやすい場所なので、そこから手を付けてくれるのはありがたい。嫁適正、すでにけっこう高めだ。
さて、俺もなにかしらの適正を高めるとしよう。婿適正……ではないか。いったん彼氏適正とでもしておこう。
料理が終わるころに、茜も掃除を切り上げた。米が炊けるまでの時間を二人でのんびり過ごして、テレビを見ながら夕食をとる。
皿を洗って、リビングに戻る。俺は実験のレポートをまとめ、茜は漫画を読みふける。
提出まで終えてパソコンを閉じると、茜がこっちを向いた。
「浅葱くん、今日の宿題終わり?」
「終わったよ」
「お疲れさま」
パソコンをたたんで、大きく伸びをする。
「私、そろそろシャワー浴びてこよっかな」
「ん」
「一緒に入る?」
「バカ、急にそういうこと言い出すな」
「冗談は半分だけだよ」
目が合うと、茜は手で口元を隠した。
「……私も、恥ずかしいけど」
俺は頭を抱えた。
そりゃあ茜だって恥ずかしいに決まっている。だが、いつかどこかで越えなければならない壁だ。据え膳食わぬはなんとやら。ここでいかねばいつ男になる。
…………。
頭がねじ切れるほど首を傾げ、大きく息を吸う。
「茜」
「はい。はいっ」
自室に入って、貴重品をまとめた小箱から目的のものを取り出し、茜の手に握らせる。
「合鍵、お前が持っててくれ」
茜は瞬きを何度も繰り返し、手の中の鍵を不思議そうに見つめる。
「……いいの?」
「これからは好きな時にくればいい」
頷いて、それから視線をそっと外す。
「一緒に風呂とかは……近い将来、な」
「うん」
茜はというと、受け取った合鍵を見てほくほくした顔をしている。
「お風呂にも持っていこっかな」
「やめろしまえ」
「明日、うちの合鍵も持ってくるね」
「……ああ」
そういえば、茜にも家があるんだった。めっちゃうちに入り浸っているから忘れていた。
茜の家って、どんな感じなんだろう。
想像していたら、茜が抱き着いてきた。
「どうした?」
「合鍵嬉しいハグ!」
されるがままに俺も抱き返して、そのまましばらく頭を撫でてやる。
十分な時間の後に、茜が言う。
「ずっと一緒にいようね、浅葱くん」
「よろしくな。茜」
未来を二人で作るために、大きな歩幅は必要ない。
小さなものを積み上げて、明日を引き寄せていく。
茜となら、それができる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これにて完結です!
応援してくれてありがとうございました。
次回作でまたお会いしましょう。
彼女に浮気された俺から、幼馴染が離れない 城野白 @sironoshiro
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