第18話 ファーストキスを教えて
五月にもなると、外はすっかり過ごしやすい気候だ。ベンチでスマホをいじっていれば、時間はあっという間に過ぎていく。
背後に気配を感じて顔を上げると、空はすっかりオレンジ色になっていた。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
「いや、あっという間だったよ」
俺がベンチに座ったままでいると、茜は隣に座った。
「ごめんな。途中でいなくなって」
「ううん。私もわりとすぐ席立っちゃったし」
「やっぱりあれ、わざとだったか」
「うん。……ごめん」
「いや、いいよ。しゃーない」
茜が早々にトイレへ向かったときは絶望したが、理由はわかる。
苦しかったのだろう。なんとか許されようと必死になる父の姿が、彼女には息苦しくて、だから離れることを選んだ。たぶん、そんな感じだ。
「浅葱くん、お父さんとなにか話したよね」
「……まあ、話したというより。出過ぎたことを言ったというか」
我ながら随分とまあ、偉そうなことを並べたものだ。部外者が踏み込んでいい領域ではなかったようにも思う。
もう一度あの場面になったら、きっとまた言ってしまうだろうけど。
息を吐いた。全身から力を抜いて、ベンチに体重を預ける。
「なくならないよな。良かったことも、悪いことも」
「うん」
「そうだよな」
茜がそれを教えてくれたから、俺は、自分の失恋にも折り合いをつけることができたように思う。
なくならない。
好きになったことも、振り向かれなかったことも、蔑ろにされたことも。全部、なくなりはしないのだ。
それでも、放っておけばいつかは風化していく。時間だけが、その権利を持っている。
「なんかさ」
「うん」
俺が切り出した曖昧な言葉に、茜が相槌を打ってくれる。視線がぶつかった。
「茜のお父さんに、言おうと思ってたことがあったんだけど……言わないことにしたんだ」
「なんで?」
「こういうのは、順序が大事だからな」
指を組んで、呼吸を何度か整える。
空を仰いだ。カラスが二匹、並んでビルの向こうへ飛んでいく。夕暮れの公園には、俺たちを除いて誰もいない。
「言葉の順番もそうだけど、それを伝える順番はもっと大事だ」
隣を見る。茜は俺がそうする前から、こっちを向いていた。目が合うと、やや不安そうに彼女は顎を引いた。
「俺、茜のことが好きだよ」
なにを伝えるにしても、まずはこれを言わなきゃ始まらない。全ての前提に置くことを、これ以上引き延ばしては進めない。
息を吐く。
思ったよりずっと落ち着いている。
茜からすでに告白されていることもあるだろうが、それ以上に俺の意識が変わっているせいだろう。
これはゴールじゃない。
あくまでスタートラインに立つための、一歩目。
「これから先も一緒にいたいと思ってる」
「浅葱くん……」
茜は目を伏せて、その細い指を俺の手に絡ませてくる。
俺は視線を、絡めた指に落とした。
「茜がいてくれると、毎日が楽しいんだ。だから今度は、俺が茜を幸せにしたい」
視線を上げることはできなかった。ただ、お互いの手に力が加わる。
微かな笑い声が、二人の間に落ちる。
「なに言ってるの。私はもうとっくに幸せだよ」
「そうか?」
「そうだよ。浅葱くんと一緒にいられるんだもん。こんなに幸せなことってないよ」
「……もっと幸せにする」
口の中をかんで、顔を上げた。同じタイミングで、茜も顔を上げる。真っ赤な頬。潤んだ瞳。きゅっと結んだ唇。
心臓がうるさい。
夕日がやけに眩しく感じる。
「だから……」
息を、吸う、吐く。それでも、その先の言葉は喉に引っかかった。
口の中をかんで、一度目を閉じる。深呼吸。大丈夫。
もう怖くない――なんて言えば、嘘になる。だけど、きっと大丈夫。
「俺と付き合ってほしい。よそ見する暇もないくらい一緒にいよう。これから先、ずっと」
「浅葱くんにとって、付き合うってなに?」
「なんだろうな。まあでも、家に泊まってて付き合ってないは不可解だと思うよ」
「う……た、確かに。浅葱くんの情操教育にも良くないね」
「俺ってまだその段階なの?」
高等教育もだいぶやってきたつもりだが、肝心の情操教育が終わってなかったらしい。一番大事なやつだろ、それ。
「女子を家に泊めるのが普通だと思うようになったら――大変!」
「そんなことはしないけどな」
「私だけだよ! 他のことにそんなことしたら、絶対ダメだからね! わかってるよね?」
「わかってるって。わかってるから、それをはっきりしたいから付き合うんだろ」
「た、確かに……そうかも」
「彼女がいるって言えば、なんか誘われても断れるし。はっきり茜を優先できる」
「優先してくれるの?」
「そりゃそうだ」
左手を茜の頭に載せて、くしゃくしゃと撫でる。
「最優先」
「そっかぁ」
そっと下を向いた茜の口元が緩んでいる。
「じゃあ、いいよ」
「ん」
茜の髪を整えて、そっと手を放す。
目が合って、それがとてもくすぐったくて、はぐらかすように二人で笑った。
ベンチから立ち上がって左手を差し出す。
「帰るか。今日もうち来るだろ」
「うん」
茜が手を取って立ち上がる。だが、歩き出しはしなかった。
「ね、浅葱くん」
「どうした」
「これは普通に嫉妬なんだけど……浅葱くんはもう、ファーストキスとかしちゃったよね」
やや自己嫌悪の混じった表情だった。それでも、茜は顔を上げてじっと俺を見る。
「どんな感じだった?」
「……」
俺は首をかしげて、じっと茜の目を見た。
「どんな感じと言われてもな――。目、閉じて」
「えっ」
驚きながらも、咄嗟に目をつぶる茜。
夕日で照らされるその顔に近づいて、そっと唇を重ねた。
柔らかい。頭の奥まで痺れるほど、その情報が脳を満たす。
ほんの数秒。すぐに離れて、それからゆっくり息を吐く。
「え、え、き、キスした?」
「未経験じゃ、さっきの質問に答えられないだろ」
ぽかんとする茜の手を引く。歩き出した彼女と歩幅を合わせる。
「いい感じだったよ」
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