第17話 なかったこと
――お父さんに会ってくれない?
茜からのお願いに、俺は自分でも驚くほど、自然に頷いた。
「会うよ。何日を空ければいい?」
「次の日曜日。午後1時に会う予定なんだ」
「わかった。空けとく」
あっさりと了承した俺を、茜は不思議そうに見ていた。
◇
茜の父に会う。
絶対に気まずいだろ、とは思う。
だが、この先に進むなら、避けては通れないことだろうとは前から思っていた。
顔は知っている。昔よく一緒に遊んでくれた、優しい人だ。話を聞いている限り、それは今でも変わっていないのだろう。
うっすらとした予感は、指定されたカフェに入った時点で確信へと変わった。
高級感のある空間だ。メニューには何種類もコーヒーがあって、どれも千円以上する。
「えっと……俺がいることは、知ってるんだよな。茜のお父さん」
「知ってるよ。浅葱くん、ちょっと顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫。基本的にこういうとき、人って普段より顔色悪くなるもんだから」
「無理はしないでね」
隣に座った茜が、そっと俺の手を握ってくる。指先が温かい。対して俺は、すっかり血の気が引いて冷えてしまっている。これは心配されるわけだ。
情けなくてため息が出た。
「先に注文してていいって。なににする?」
「茜と同じのでお願いします」
こういうとき、ちょっと高いの頼んでしまうと気まずい。相手は気にしないとわかっていても、こっちは気になるのだ。
「じゃあ、紅茶二つにしよっか」
「はい」
「なんで敬語?」
「ふー。落ち着く。ちょっと時間くれ」
「あっ、お父さん来たよ」
「終わった……」
頭を抱えることもできない。なぜかって、もう窓の向こうと目が合っているからだ。
茜のお父さんも、俺を見ると幾分か表情を硬くする。店内に入ってくるときは、すっかり背筋を伸ばしていた。
俺と茜が隣で本当に良かったのだろうか。いや、でも、こういうときってどうするのが正しいんだ? というか今はどういうときなんだ?
いまいち分類できないこの状況に、困惑しているのは俺と茜の父。茜だけが、いつも通りにしているように見える。
対面に座った父――名前は確か、
「久しぶりだね、茜。それから浅葱くん」
「久しぶり、お父さん」
「お久しぶりです」
一礼して向き合う。視線が重なった。
「……」
「……」
お互いになにも言い出せないでいると、助け舟を出すように茜が会話を切り出す。
「浅葱くんの大学ね、私の学校とすごい近いの。だから最近、よく一緒にいるんだ」
「そうだったのか」
幸助さんは得心言ったように頷く。どうやら、母親とは違ってこっちにはほとんど俺のことは伝わっていないらしい。
「お父さんは覚えてるかわからないけど、私ってあんまり料理とか得意じゃないじゃん? でも浅葱くんは大得意!」
「大得意は言い過ぎな」
「大得意だよ。だって浅葱くんの料理美味しいもん。――見てみてお父さん。浅葱くんの料理」
日々増えていく写真フォルダを自慢する茜。
幸助さんはそれを見て驚いたように目を見開くと、何度か俺と見比べた。
「これを全部、浅葱くんが?」
「一応、はい」
「茜はなにか料理をしたりしないのか?」
「全然!」
いっそ清々しいほど明瞭な返事をする茜。最初の方はうっすらと見せていた罪悪感も、最近ではすっかりなくなった。俺としては、そっちのがやりやすいとは思うけれど。聞いている幸助さんは複雑な表情だ。
「浅葱くんはそれでいいのか?」
「俺は全然問題ないです。誰か食べてくれた方が、料理する気も湧くしって感じで」
「そうか。……ならいいが。あんまり迷惑をかけるなよ」
「はーい」
間延びした返事。平和な茜の笑顔に、場の雰囲気も緩む。
「学校はどうだ?」
「いい感じだよ。友達もできたし、勉強も楽しい」
「そうか。なにか困ったことはないか? 買いたいものとか、ないか?」
「大丈夫大丈夫。お金には困ってないし、アルバイトも始めようと思ってるし」
「なんでも言っていいんだぞ。……そうだ。腹は減ってないか?」
「まだ大丈夫。さっき食べたばっかりだもん」
「そうか……」
「私ちょっとお手洗い行ってくるね」
沈黙の気配。それと同時に、茜が立ち上がる。
遺された俺と幸助さんは、何とも言えない空気になってしまった。何とも言えないというか、何も言えない。
俺が黙っていると、幸助さんが重たい息を吐いた。
「すまないね。こんな姿を見せてしまって」
「いえ……話は軽く聞いていたので」
「……私は、取り返しのつかないことをした」
俺は黙る。相槌を打つのも、正しくはないような気がしたから。
幸助さんは頭を抱えて、自らを呪うような言葉を吐く。
「どうして……どうして……こんなことを」
「どうして茜に会いに来たんですか?」
「それは――」
「後悔するほど茜が大事なら、不倫なんてしなければよかったじゃないですか」
我ながら、平坦な声だった。怒りとかはまるでない。ただ不思議だった。
「どうしてもなにも、奥さんより茜より、不倫したい気持ちの方が大事だったんでしょう。そんな単純なこと、まだ自問自答してるんですか」
紅茶を飲み干す。カップを置いた乾いた音が、やけに耳に響いた。
「『なかったこと』にしたいんでしょう」
「ああ……そう、だな」
「茜は家族の思い出を『なかったこと』にはしなかったのに」
美しい思い出が本物だったと確認したくて、彼女は朝焼けを見に行ったのに。そうやって前に進んでいこうとするのに、どうしてこの人は。
消してしまえばなんて、まだ願っているのだろう。
「すいません。俺はここで失礼します」
一礼して、席を立った。
◇
店の外に出てから、茜にメッセージを送る。
俺は適当に、近くの公園で時間をつぶすことにした。
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