第11話 忘れられない

 寝ぐせと、緩く気崩れたパジャマ。蕩けるような優しい笑顔。


 ――おはよ。浅葱くん。


 可愛かったな……。


 シャーペンの先端を、手のひらに軽く刺す。


 そうしないと思考が今朝の光景に引きずられてしまうからだ。そんなことをしている場合ではない。講義に集中しなければ。


 ルーズリーフに教授の話をまとめていく。要点を絞らないとついていけない。大学の授業は、高校までとは違って親切さに欠ける。


 甘い記憶に意識を乱されながら、なんとか午前の講義を乗り切った。


「アサーギ、飯行こうぜ」


「おう」


 隣に座っていた船見に声をかけられて、俺は席を立つ。


 午後に実験があることを思い出して、憂鬱なため息が漏れた。集中力が持続する気がしない。


「憂鬱な顔だな。……さては、茜ちゃんとなにかあったな?」


「当たり。外れ」


「どっちだ」


 廊下を歩く。この時間は食堂へ向かう学生が、蟻の大群みたいに規則正しく同じ方へ向かっている。


 列に並びながら、今日はなにを注文しようかと考える。まあ、いつも通りでいいか。


「なあ、船見」


「どうしたよ」


「茜って、可愛いよな」


「そりゃあそうだろう。あんな可愛い子、少なくともうちの大学じゃ見たことないぜ」


 昔から地元では飛びぬけて可愛いと言われていたが――やはり、船見から見てもかなりレベルが高いらしい。


「そうだよな。可愛いんだよな」


「なんだ、自慢か?」


「いや、ただの確認」


「定期的な確認は大事だな。指差呼称しとけ」


「……そうだな」


「あんなに可愛い幼馴染がいるなんて、アサーギは前世でどんな徳を積んだんだ?」


「知ってどうする」


「来世に賭けて、今生は真面目に生きるかな」


「仏教徒みたいになってきたな」


 輪廻転生ガチ勢、実際それなりにいるらしいし。


「俺ラーメン。アサーギは?」


「カレー。先に座っとくぞ」


「オーライ」


 麺類は茹での時間が間に入るせいで、米よりも時間がかかる。並んで待つのも面倒なので、俺はいつもカレーを頼むことにしている。


 学食の、具がわずかしか入っていないカレー。それでも三百円程度で食べられるのでありがたい。


 会計して、水を二人分コップに注いでから椅子を探す。隅の方に行けば、昼時でも空いている席はある。この日も窓際の閑散とした場所に座った。


 船見を待っているとカレーがドライカレーに変わってしまうので、さっさと食べ始める。


 数分後、ラーメンをトレーにのせた船見がやってきた。


 割り箸を割って、勢いよく麺をすすり始める。


 先に食べ終わった俺は、スマホをいじって時間をつぶす。


 茜からメッセージが届いていた。写真付きだ。


『みてみて! 桜咲いてたよ!』


 ふくらんだつぼみの隣で、凛と咲いた一輪の花。


『もうそんな時期か』


 我ながら面白みのない返答。それでも茜は、すぐに返信をくれる。


『お花見の時期だね』


『車で綺麗なところに行ってもいいな』


『それ天才!』


 週末にでもまた、車を走らせることになりそうだ。


 おにぎりかサンドイッチか、弁当にして持っていったら茜は喜ぶだろうな。


 顔を上げると、汁まで飲み干した船見と目が合った。


「アサーギ。貴様……茜ちゃんとメッセージを送りあっているな!」


「なんでわかんだよ。顔に出てたか?」


「フッ、案ずるなアサーギ。貴様はなかなかどうして、表情を隠すのが上手い。しかしそれだけでは、純愛の波動は隠せない!」


「キッショ。純愛の波動ってなんだよ」


「マイナスイオンのようなものかな」


「俺から摂取するのはやめてもらっていいか?」


 別にそれが好きなのは構わないが、供給源は別の人間にしてほしい。ゾッとするので。


「ともかくな、清い恋をしている人間からは確かにそういうオーラが〝出る”んだ」


「〝出る”も禁止な」


 水を飲んで深く息を吐く。


 この一年見てきた中で、船見は昨日と今日が一番盛り上がっている。


「そういうお前自身はどうなんだよ。自分の純愛ハンティング、ちゃんとしてるのか」


「アサーギ、純愛とハンティングは最も遠い概念だ。恋とは引力によって落ちるもの――とある説によると、アイザック=ニュートンは自らが恋に落ちたことにより、万有引力の法則を発見したと言う」


「リンゴだろ」


「リンゴは恋のメタファー」


「無敵の理論やめろ」


 歪ませちゃいけない部分を歪ませられたら、こっちからはもう手出しができなくなる。ディベートにおいて最強の存在は、そもそも話が通じないやつ。


「つまり俺は、待っているのさ。恋が俺を呼ぶ瞬間ってやつを」


「まあ好きにすればいいさ」


「そんでそんで、茜ちゃんとなんの話してたんだ?」


「今度、花見でもしないかって」


「俺に任せろ!」


「なにをだよ」


「花見専用デートプランなら、30ほどある。後でPDFで送っておくから、参考にしてくれ」


「なんでそんな大量のプランがあんだよ」


「まあ気にするなよブロゥ」


「ブラザーのうざい言い方やめろ」


「イマジナリー彼女とのデートプランくらい、男なら誰だって作るだろ」


「俺はお前が怖いよ」


 船見はにやりと笑って、トレーを持ち上げた。


 午後は実験だ。俺は頭を振って眠気を遠ざけ、スマホを胸ポケットにしまった。





――もう間違えないようにするよ。


 こたつに座って、穏やかなトーンで彼が言ったことが、ずっと消えない。


 あれは、はっきりとした答えを持っているときの顔だった。浅葱が稀に見せる、その表情が、茜は好きだった。


「あかね。あかね。あ・か・ね~」


 ひらひらと目の前で手を振られて、茜はハッとする。


「あ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてた」


「早めに帰って休んだら?」


 心配そうに首をかしげるのは、専門学校でできた友人。酒井さかい七穂ななほだ。


 こげ茶色の髪をポニーテールにしている。休日は体を動かすのが趣味らしく、見た目の活発さとマッチした人間性をしている。


 茜は学校終わりに、彼女とお茶することにしたのだ。


 駅前のバーガーショップは、同じような目的の学生たちで溢れている。


「ぼーっとしてただけだから。大丈夫!」


「どう見てもちょっと疲れてるけど。ちゃんと寝れてる?」


「ねっ!? ねっ、ねれ……寝れてるよ」


「あ、あ、怪しすぎ~! うち的に怪しさ五万パーセントくらいある~」


「別に寝れない理由とかないもん」


「寝れない理由あるぅ~! 絶対あるぅ~!」


 七穂は茜の手をがしっと掴んで、なにやらもにょもにょと指を動かす。


「えっ、なになに? なにされてるの?」


「ん~。お客さん、恋してますねぇ」


「ええっ!?」


「えっ、当たり!? 適当に言ったら当たっちゃった! うちメッチャ冴えてる!」


 手を叩いて喜ぶ七穂の前で、茜はすんと肩をすくめる。


「相手は? 相手はどんな人?」


「……幼馴染」


「えぇ~いいじゃん。めっちゃいいじゃん。告白は? 告白はいつするの?」


「もうした」


「したの!? えっ、じゃあ付き合ってるってこと?」


「付き合ってない」


「フラれた!? え、じゃあうちめっちゃ空気読めてなくない? ごめんね」


「ううん。保留してるの。私が」


「……?」


 七穂の表情が曇り、ゆっくりと首が九十度傾く。


「えと、うちの頭が悪いのかもしれないから、もう一回教えてね」


「うん」


「茜が告白したんだよね」


「そう」


「茜が保留してるの?」


「そうだよ」


「なんで!?」


「いやまあ保留というか……内定は出てるというか……内々定かもしれないけど……でも」


 もじもじする茜を見て、七穂は頭を抱える。


「心配だなぁ。その幼馴染、他の女のとこ行っちゃうかもよ」


「あ、浅葱くんはそんなことしないもん!」





「くしゅっ!」


 なんか急にくしゃみが出た。風邪でも引いただろうか。


 ううむ。


「咳をしても一人」


 とりあえず言ってみた。くしゃみと咳は違うけど。


 茜、今日はいつもより遅いな。

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