第10話 命に関わる可愛さ
毎日使っているはずの風呂場から、いつもとは違う匂いがする。自分で使っている安物のシャンプーやボディソープよりも、高級感があるそれは――
ちょうど今、リビングでまったりしている茜のものと同じだ。
浴室の棚にちょこんと置かれた、小さな容器。一人暮らしのこの家に、もう一人分の生活が加えられているのを実感する。
いつもよりシャワーの温度を上げて、思考の隙間から入り込んでくる煩悩を追い払う。毛穴が引き締まるほどの温度まで上げて、ようやく少し落ち着くことができた。
さっさと全身洗って、手早く浴室から出る。パジャマに着替えて、保湿とドライヤーをしてからリビングに戻った。
茜はぽーっとした表情で、つけっぱなしのテレビを見ている。
こたつの上で腕を組んで、その上に顔を載せている。俺が部屋に入った音で肩をぴくっと動かすが、反応はそれだけだった。
お湯を沸かしてカモミールティーを二人分用意して、そっと茜の前にも置く。
「ありがと」
「ん」
ちらっと目を上げた茜と視線を交わして、俺もこたつに入る。夜の冷え込みには、まだまだ心強い味方だ。
テレビでは暮らしの豆知識を紹介するバラエティをやっている。どれもネットに転がっているようなものだが、芸能人が話していると面白いから不思議だ。
番組が終わって、CMが流れ始めた。この後は知らないドラマが放送するらしい。
「茜、このドラマ観たいか?」
「観てないやつだから大丈夫」
「じゃあテレビ消すか」
「うん」
ぬるくなったカモミールを飲みながら、手癖でスマホをいじる。見たいわけでもないサイトを行き来して、得たくもない情報を得る。
無為な時間は、そんなに嫌いじゃない。
「ねえ、浅葱くん」
「ん」
「いちおう確認したいんだけど……さっきの、『間違えないようにする』って」
視線がぶつかって、茜の顔が一気に赤くなる。こたつのふとんを持ち上げて、彼女はそこに隠れた。
「誰だったら、間違いじゃないって思ってるの?」
「……」
それはまるで、表になったトランプの図柄を問うように。
俺にとっては当たり前で、茜にとってもわかりきったことで。それでも、その百パーセントを埋めるような言葉を、彼女は求めているのだ。
茜の大きな瞳が、艶やかに揺れた。
次の瞬間、こたつから勢いよく飛び出して全身で顔を隠す。
「ご、ごめん! 今の忘れて! おかしかった! 私、すっごいおかしくなっちゃってた!」
「おかしくはないだろ」
「言わなくていい! 言わなくていいからね!」
「……俺は別に、言ったっていいけど」
「だめ! ドクターストップかかってるから」
「どこの医者だよ」
「歯医者!」
「歯医者!?」
「そう歯医者さん! 歯科検診の時に言われたの」
「歯科検診であんまり命の話しないだろ」
「甘いもの食べすぎないでくださいって」
「虫歯予防の話だろそれ」
「とにかく、命に関わりそうだからだめ」
「関わってたまるか!」
「もうっ。甘い言葉だって致死量があるんだよ」
「まだなにも言ってないんだが」
「言う前に止めなきゃ手遅れなの」
「……それはそうか。そうか? ……まあ、わかったよ」
喉元まで準備していた言葉をしまって、ちらっと茜の様子を見る。
茜はまだ、手の甲で顔を隠して部屋の隅でうずくまっている。
「うぅ……怖い……浅葱くんが怖いよぉ」
「ひどくない?」
元はといえば、聞いてきたのは茜だ。俺はそれに答えようとしただけ。茜が甚大なダメージを負ったのは、自業自得としか言いようがない。
「うぅ……」
とぼとぼリビングを出ていった茜。
こたつで待っていようと思ったが、そわそわしてしまって俺も洗面所に移動する。
茜は歯を磨いていた。寝る準備をしているようだ。茜は明らかに困り顔をした。
「……なにしにきたの?」
「いや、ちょっと鏡で顔を見に」
ごまかそうとしたら、ナルシストになってしまった。
首をかしげる茜から逃げるように、リビングへと撤退する俺。ダメだ。なんとなく、この状態で同じ空間にはいられない。洗面所は地味に面積が小さいので、絶対また変なことになる。
こたつに手を突っ込んで、顎を机に載せる。どうしたもんかと思考するが、どうにかできたらこんなややこしい状況になっていない。
茜が戻ってきた。まだ気まずそうだ。
「もう寝るね。お布団ある?」
「出すから待ってな」
リビングから直通の自室に入って、押し入れから布団を取り出す。
場所もないので、俺が使っているマットレスから少しだけ離したところに敷く。
茜が使うことを想定して、シーツ類はすべて洗濯しておいた。清潔感はばっちりだ。
「マットレスはないから、ちょっと床が硬いかもな」
「今度持ってくるね」
「……ま、それも検討だな」
「浅葱くんはまだ寝ない?」
「そうだな。もうちょっと後にするよ」
「ん。おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉まって、向こう側の電気もすぐに消える。
リビングに残った俺は、惰性でまたスマホを触る。向こうに行くのは、茜が寝てからの方がいいだろうか。
頭の後ろで手を組んだ。
目を閉じると、浮かぶのは必死に顔を隠す茜の姿。
頬が緩みそうになるのを堪えて、俺はスマホをそっと机の上に置いた。
しばらくして、俺も自室に戻った。
茜は布団にくるまって、顔を隠すように眠っていた。夢の中でも、恥ずかしがっているのだろうか。
マットレスの上に寝転んで、布団に入る。
隣から聞こえてくる呼吸がやたらとはっきりしていて、それだけの音に心が乱される。
車中泊のときみたいな疲労がないせで、いろいろと頭も回ってしまう。
どれくらい時間が経っただろうか。
茜の方から、布団の音がした。寝返りかと思ったが、呼吸の音が小さい。寝息とは違う気配に、俺は小さく声をかける。
「起きてるか?」
「――うん」
「なんかごめんな。変なこと言った」
「ううん。浅葱くんは悪くないよ。――私が、準備できてないだけ」
か細い声が、手繰るように尋ねてくる。
「ねえ、浅葱くんはどれくらい待ってくれる?」
「待つとかじゃないだろ。もう一緒にいるんだから」
茜が横にいてくれる。それだけで俺は、孤独を感じずにいられる。温もりをもらっている。
真っ暗な部屋で、体だけ茜の方へ向ける。
「だから、心配しなくていい」
「浅葱くんは優しいね」
「茜には負ける」
「ふふっ。……おやすみ」
「ああ。おやすみ」
仰向けに体勢をなおして、もう一度目を閉じた。
眠りに落ちるには、もう少しだけ時間を要した。
◇
淡い日差しで目が覚める。
乾いた目を開けると、隣の布団で座っている影が目に入った。影は俺が起きたことに気が付くと、こっちを向く。
寝起きの茜は、髪の毛や表情がふわふわしていてぬいぐるみのようだ。
ふわふわの笑顔が、俺に注がれる。
「おはよ。浅葱くん」
俺は目を閉じて、彼女に背を向ける。
「ドクターストップ!」
これは確かに、命に関わる。
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