第5話 一緒に寝よ?

「不倫?」


「そ。既婚者の浮気、つまり不倫」


 俺は頭が真っ白になって、なにも言えなくなってしまった。


 茜の父親なら知っている。明るく優しくて、俺にもよくしてくれた。


「どうしてお父さんが、って思ったでしょ。私も思った。……でも、そういうものなんだって」


「そういうもの……って」


「私もよくわかんない。でも、不倫したのは本当だから、考えてもしょうがないじゃん」


 赤くはれた瞳で、茜は海を見ていた。水平線の上に、星が瞬き始める。


「だけど――お父さんが私に優しかったのも、楽しかった思い出も、本当」


「……そっか」


「だから最後に、もう一回見たかったんだ。家族で見た海の、朝焼けを。そしたら……」


 その続きを、茜は言わなかった。


 冷めていくコーヒーを飲み干して、テーブルに置いた。茜が俺を見る。


「ありがとうね。浅葱くんのおかげで、嘘じゃないって確かめられる」


「ならよかった」


 綺麗な思い出が嘘ではなかったと確かめるために、茜は北を目指した。


 ならば俺は――綺麗な思い出すらもない俺は、どこを目指せばいいのだろう。


 俺は、なんて小さいことで悩んでいるのだろう。


 空になったコップを手で触る。軽くて冷たいそれを撫でるのは、心を落ち着けるためだ。


「冷えてきたね」


「カップ麺作って食べるか。そうすればちょっとは暖かいだろ」


「賛成! 浅葱くん冴えてるね~」


「一般的な意見だと思うけどな」


「私はお湯を沸かすね」


「じゃあ飯取ってくるよ。スイーツも持ってきていいな」


「うん」


 後部座席に置いてあるレジ袋に、今日の夕食が入っている。


 カップ麺を取り出して、茜にはシーフードを渡す。俺は醤油味。お湯が沸くまでの間に、スープの粉を入れておく。


「ここってシャワーもあるんだっけ」


「トイレの横にある建物がそうらしいぞ」


「オッケー。ご飯食べたら浴びてこよっと」


 沸いたお湯を注いで三分待つ。待ちきれなくて、二分半で割り箸の準備を始める。茜も同じだった。


 冷えた体を温めるように、俺たちはカップ麺をすする。


「あったかいね」


「な」


 そのくらいの会話。一日一緒に居れば、黙っている時間の方が長い。


 けれど茜は、それを嫌そうにはしない。


 元カノと一緒だったときは違った。


 沈黙してしまうと、途端に気まずそうにされるから、俺は必死に話題を絞り出して――楽しませようと必死になった。たまに笑ってくれると、それがたまらなく嬉しくて。けれど楽しませようとしているうちに、空回りが増えていった。


 心が離れていくのは、見えていたはずなのに。


 みっともなく縋って……息苦しい思いをさせた。


「あのさ、茜」


「どしたの?」


「俺と一緒にいて、楽しいか?」


「えっ、うん。すっごく楽しいよ」


「そっか」


「変なこと聞くね。浅葱くん、そんなこと疑ってたの?」


「思い出したんだ。元カノとのこと」


 茜は黙って聞いてくれる。俺はその優しさに甘えてしまう。


「つきあう前から薄々気がついてたけど、俺以外の人と話してるときのが、ずっと楽しそうなんだ。それで浮気されて……だから、俺がつまらないせいだったんじゃないかって。別れてから、そればっかり考える」


 浮気をされた。それだけ切り取れば、俺は被害者だ。


 けれど、浮気をされた俺にも問題はあったのではないだろうか。


「浅葱くんはさ、背負いたいんでしょ」


 テーブルを挟んだ向こうで、柔らかな瞳が俺を見据えていた。


 シーフードヌードルをすすって、ゆっくりと茜が続ける。


「私はそれを否定できないよ。でも、言ったことを取り消すつもりはないから」


 スープを勢いよく飲み干して、テーブルに置いた。茜はむすっとした顔をしている。


「馬鹿だよ。大馬鹿。地球上探したって、ここまで馬鹿な人はいないんじゃない?」


「誰のことだよ」


「元カノ!」


 バン!


 テーブルを叩いたのは、茜の小さな手のひら。すぐに彼女は叩いた場所を撫でて、小声で謝る。顔を上げたら、さっきと同じ険しい顔。


「いやもうむしろ、私からしたら『ありがとうございます』って感じなんだけど、とにかく馬鹿すぎ。話になんない。なんで自分は楽しませてもらう側、みたいなスタンスなの? 何様? そんなに可愛いの? 可愛かったらなにしてもいいの?」


「……」


「浅葱くんは! どう思ってるの!?」


「えっ、俺? いや、なにをしてもいいわけじゃないと思うけど」


「でしょ!」


「そうだけどさ」


「でももだってもタージマハルもない!」


「タージマハルはどこにもないだろ」


「インドにはあるもん」


「それはそうだけども」


「カレー食べるもん」


「食べたらいいけども」


「日本のカレーってインドカレーとは全くの別物なんだって」


「よく聞く雑学を出されても困るよ」


「日本人ってすぐ原型なくすよね。元カノも原型なくなればいいのにね」


「とんでもない切り口から火力を出すな」


 誰がその流れで攻撃するのを予想できるだろうか。


 茜はすっきりしたように口の端を緩めた。立ち上がって、俺を力強く指さしてくる。


「そんな人の思い出なんて、全部私が上書きしてあげる。思い出との勝負だね。ふふふ」


 不敵に笑って、彼女はコンビニスイーツを開けた。





 シャワーから戻ってきた茜は、シャンプーの華やかな香りがした。肩にかけたタオルはうっすらと湿っていて、乾かしたばかりの髪はぺたんとしている。なぜか半袖で、ほんのり赤い肌が惜しげもなく晒されている。


 座席を倒して平らになった後部座席に乗り込んでくると、開口一番に茜が言った。


「うーっ、やっぱり半袖は短いね」


「それはそうすぎる。早く長袖着てくれ」


「忘れちゃった」


「こんなに荷物持ってきたのに?」


 テーブルも椅子も、ランプも、気の利いた飲み物も持ってるのに?


 茜は頭に手を当てて、へにゃっと笑う。


「てへっ」


「……はぁ」


「呆れ!? おっちょこちょいな茜ちゃん、チョーかわいい! ってなる場面じゃないの?」


「いいからほら、俺の貸すから」


 着たばかりのジャージを脱いで、上だけ貸すことにした。


 茜はそれを受け取ると、両手で持ってまじまじと見つめる。


「……浅葱くんの匂いがするね」


くさいか?」


「着たい」


「寒いからだよな?」


 茜はなにも言わずにジャージに袖を通すと、満足そうな顔でこっちを見てくる。


 あの、寒いからですよね。そうですよね。そう思うことにした。


「歯磨きもしてきたか?」


「うん。もうね、寝る準備万端ですよ」


「じゃあ、俺は前で寝るから。いい感じにして寝な」


「えっ、だめだよ」


「なにが?」


「浅葱くん、明日も運転なんだから。ちゃんと横にならないと疲れ取れないよ」


「俺は運転席でいいって」


「だめ」


 力強い口調で言って、茜はシートを手でたたく。


「一緒に寝よ?」

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