彼女に浮気された俺から、幼馴染が離れない
城野白
1章 私だったら絶対に
第1話 捨てられ男と幼馴染
――お前の彼女、別の男とデートしてたぞ。
そんなわけない。
なんて思った時点で、本当は確信していたのだ。
「クリスマスって、うちに来るんだよな?」
「あっごめん。実はバイト入っちゃって……」
手に持ったカップの中で、コーヒーが死んでいた。
俺たちの間には、どれくらいの沈黙があっただろうか。カフェの椅子に座って、さっきの問いを切り出すまでの間に、窓の外はオレンジから黒に変わった。
対面に座った俺の彼女――
ストレスを感じているときの癖だ。いつからか、彼女はその動きをよくするようになった。
「あのさ。もしかして、浮気してる?」
彼女は両手で包んだココアから、そっと目を上げた。
光の失われた瞳だった。硬くなったそれは、もはやなんの情も含んでいない。
――それでも。
そんわけない、と。
なにかの気のせいだ、と。
この期に及んでも、縋りたくなるのが俺だった。
デートの予定がことごとく潰れるのも、連絡が一日たっても返ってこないのも、声をかけても届かないことが多いのも。全部、なにかの勘違いだと。
だが、
そんな願いに反して、彼女は首を縦に振った。
「……うん」
「――そっか」
なにがそっかだ。
でも、ほかになんて言えばいい?
噂なら聞いていた。
佳乃は、俺と付き合う前から好きな男がいた。けれどその男には彼女がいて、だから仕方なく俺と付き合うことにした。
俺たちがつきあい始めて二週間で、その男は彼女と別れてフリーになったらしい。
佳乃の様子がおかしくなったのは、明確にその時期と一致する。
結局俺は、残念賞のつなぎ役だったらしい。
手の中の死んだコーヒーを、頭からかけてやればちょっとはましな気分になれるか。
いや。そんなことをしたって、余計みじめになるだけだ。
結局俺がしたのは、伝票を持って席を立つことだった。
「なんで別れを切り出さなかったんだ?」
去る前に、一つだけ聞いておくことにした。
彼女はうつむいたままで、なにも言わない。
だから俺が代わりに言うことにした。
「フラれたら、戻ってこようと思ってたんだろ」
「……」
つきあい始めたころには完璧に見えたはずなのに、今や俺たちはお互いに風化していた。じわじわと溜まった不信感で、彼女は汚れて見える。
支払いを済ませて、店を出た。
鼻先に雪が触れる。
体温を奪われていくつま先みたいに、心の痛みはわかりづらい。案外、覚悟はできていたみたいだ。息を吐いた。白い水蒸気が霧散する。
そうだ。年末は家に帰ろう。
◇
元々、年末に帰省の予定は入れていなかった。
両親は温泉旅行を随分前から計画していたらしく、大晦日の実家は静けさに包まれている。
朝からこたつに入って、ぼんやりテレビを眺めていた。画面の中では、おじさんが美味そうに飯を食っている。俺は卓上に載せたミカンと甘栗で、朝から飢えを凌いでいる。
チャイムが鳴った。
こんな日に宅配でも来たのだろうか。
ジャージ姿のまま玄関を開ける。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
「久しぶり、
「
「
「下の名前で呼べってことか?」
「幼馴染なのに、苗字はさみしいじゃん。昔みたいに茜って呼んで」
ベージュのコートを着て、赤い手袋をつけた少女は軽やかに笑う。
茜は一つ年下の幼馴染で、昔から家の近くに住んでいる。中学くらいまでは、家族ぐるみでの付き合いもそれなりにあった。
高校、大学になってからは接点も減っていたけれど。
「外は寒いだろ。とりあえず玄関はいんな」
「もしかして、浅葱くん一人?」
「そ。親は温泉旅行で朝からいない」
「わっ、じゃあうちと似たような感じだ」
「茜も一人なんだ」
「そ。一人で暇だから、お菓子持って顔出したの。そしたら浅葱くんいてラッキー」
「あがってけよ。大したもてなしはできないけど」
「おじゃまします」
レジ袋を鳴らして、茜が靴を脱ぐ。なんだかそれは、懐かしい光景に見えた。
「ココアかミルクティーなら、どっちがいい?」
「ミルクティー!」
嬉しそうに言って、茜は洗面所に向かう。この家の形も、彼女はよく知っている。手洗いうがいを済ませてから、リビングに戻ってきた。
「わっ! 孤高のグルメ見てるじゃん。いいよねこれ、ぼーっと観れて、めっちゃ年末って感じだよね」
歓声を上げて、茜がこたつに飛び込む。
だが、すぐに出てキッチンにやってきた。
「なにか手伝うことある?」
「ないよ。ゆっくりしてな」
「はーい。晩御飯はどうする? 私たち、どっちも親いないから一緒に食べない?」
「そうだな。料理するのも面倒だし、スーパーでオードブルでも買いに行くか」
「うん! ……売り切れてないかな」
ちらっと時計を確認する。まだ午後三時。
「ちょっとゆっくりしたら行くか」
ミルクティーを二杯淹れて、こたつに戻る。
画面の中では空腹の成人男性が、怪しい挙動で街を徘徊している。しばらく見ていなくても、一切問題がないのがいい。
「浅葱くん、ちょっと雰囲気変わったね」
「ん。そうか?」
「髪型とか、スキンケアとか、ちゃんとしてるでしょ」
「……」
それは。
気が付いてほしくはない、変化だった。
大学に入って、垢ぬけようと努力して――彼女ができて、浮かれて。その結末までを思い出してしまうから。
「これくらい普通だよ」
「そっか。大人だねぇ」
のんびりミルクティーを飲む茜の横で、複雑な気分の俺。浮気された事実は、遅効性の毒みたいに全身に回っている。
話題を俺からそらすことにした。
「茜は春からどうするんだ?」
「私は専門学校。実は浅葱くんの大学と近いんだよ」
「そうなんだ」
「遊びに行っちゃおっかな。浅葱くんち」
「なんもないぞ」
「じゃあ、うち来る?」
「大丈夫」
「大丈夫ってなにさ」
けらけら笑って、茜はこっぷを大きく傾ける。中身が空になったらしい。
CMになったテレビを眺めながら、独り言のように少女が言う。
「見る目のない人だね。浅葱くんを捨てるなんて」
「……は」
「ごめん。ちょこっとだけ聞いちゃった」
「……いや、別に、いいけど」
いきなり帰省することにしたから、親には概要だけ話している。彼女と別れて、暇になった。くらいのことを。
だが、それだけだ。向こうに浮気されたみたいなニュアンスのことは、一切口にしていない。
「聞いてない部分はね、浅葱くんは優しいから、こんな短期間で振ったりしないかなって予想」
「……そっか」
今の俺は、もうよくわからない。
もし仮にまた彼女ができたとして、それを信じられるだろうか。人を信じられないままで、優しくなんてできるだろうか。
「とにかく、見る目がないよ。その人」
「……」
「私だったら、そんなことしないのになぁ」
「お前、それってどういう――」
茜は勢いよく立ち上がって、俺の横を通り過ぎていく。
「さ、オードブル買いに行こ! あったら刺身も買っちゃう?」
年下の幼馴染は、それ以降はなにもなかったように振舞った。
冬休みが終わって、大学に戻ってからは無味乾燥な日々を送った。
茜から連絡が入ったのは、春休み。二年生に進級する二週間前のことだった。
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