境界線の彼方

風見 悠馬

時間の技術者

アレン・タイマーの指先が半透明なディスプレイに触れた瞬間、彼の周囲の時間が微かに遅くなった。それは誰も気づかないほどの変化だったが、彼自身は敏感に感じ取っていた——制御パネルの端にある飲み物の中の泡が空中で静止し、同僚の動きが水中のように緩慢になる。一瞬の出来事だった。


「また起きた」彼は内心で呟き、右手首の「タイムスタビライザー」を無意識に調整した。薄い金属バンドが彼の皮膚に触れ、青い光が一度点滅して警告を発した。周囲の時間は即座に通常の流れに戻った。


中央時間同期塔の中枢室は、冷たい青白い光と精密機器の静かな作動音に満ちていた。セクターB-17の時間流動性データが青い波のように揺らめき、標準値から0.025%の逸脱を示していた。許容範囲内だが、アレンの完璧主義的な基準には届かない数値だった。


「まだ最適ではない」


彼は指先にフィットするコントロールグローブを繊細に動かした。空中に浮かぶ数値が微かに変化し、青い波形がより滑らかな曲線を描き始めた。彼の心の中では、数百もの計算が同時に走っていた。効率値を最大化するためのアルゴリズムが、まるで彼の血液の一部であるかのように。


アレンは、このセクターに生きる約83,000人の市民への影響を考えた。B-17は教育区画だ。そこでは僅かな時間流動性の変化でさえ、数千人の子供たちの学習プロセスに影響を与える。0.025%の遅れが積み重なれば、一年間で約219時間の損失になる。効率性の観点からは、受け入れがたい数値だった。


彼は深く息を吐き、システムに最終調整を加えた。波形が完全な調和に達し、逸脱値が0.003%まで減少した。これでようやく満足できる結果だった。


「タイマー技師、あなたの効率評価は今週も最高値です」


背後から声がした。振り向くと、マーカス・エフィシエント評議員が立っていた。完璧に整えられた銀髪と70代半ばとは思えない真っすぐな背筋、そして時間技師評議会の長老としての威厳を醸し出す姿勢。左胸の金色の歯車型バッジが、上級時間技師の証として光を反射していた。


マーカスの存在は部屋の空気を変えた。他の技術者たちが微かに姿勢を正し、作業に集中する様子が見られた。効率、完璧さ、そして何よりも時間の最適利用—これらが評議員の前で示すべき価値だった。


「ただ職務を遂行しているだけです、評議員」アレンは丁寧に答えたが、その声には聞き取れないほどの緊張感があった。マーカスとの対話は常に評価の瞬間だった。「教育区画の時間流動性は、特に安定した状態が求められます。微細な偏差も放置すれば予測不能に増幅します」


マーカスは口元に微かな笑みを浮かべた。それは温かみのある表情ではなく、計算された満足の表現だった。


「その几帳面さこそが、君を特別な技師にしている」彼は言った。「だからこそ、特別な任務を任せたいのだ」


アレンは表情を変えなかったが、内心では警戒心が高まった。評議会からの「特別な任務」は、通常の職務よりも複雑な政治的意味を持つことが多かった。彼の「異常」—「タイムスタビライザー」によって常に抑制されている能力—が関係している可能性もある。


「どのような任務でしょうか」アレンは穏やかな声で尋ねたが、彼の心拍数は既に上昇していた。


マーカスは周囲を見回し、声を落とした。「境界施設の技術監督として、明日からネクサスに派遣したい」


アレンは驚きを隠せなかった。ネクサスへの派遣は稀少で、特に技術者の派遣はさらに珍しい。ネクサスは両社会の間にある緩衝地帯—ユニティアとリベラリアの分断を物理的に表現する領域だった。


その時、不意に記憶が彼の精神を刺激した。ネクサス—その向こうにはリベラリアがある。そしてリベラリアには...カレンがいる。六年間会っていない姉の顔が一瞬、彼の心に浮かんだ。そして同時に、父の厳しい声も。


「カレンの名は口にするな。彼女は時間効率の裏切り者だ」


アレンは感情の波を素早く抑え込み、職業的な関心を装った。「私には、その資格が...」


「十二分にある」マーカスは言葉を遮った。「時間技師としての技術的評価は言うに及ばず、君の...特殊な状況も考慮した」


マーカスの言葉は明確な意味を持っていた。アレンの「異常」は秘密ではなかった—少なくともマーカスにとっては。彼はタイムスタビライザーにさりげなく触れた。薄い金属バンドは彼の生活において最も重要な装置であり、彼の内なる混沌を抑制し、ユニティア社会の秩序に適合させる鎖でもあった。


彼は無意識にその日の出来事を思い出していた—六歳の誕生日。怒りと失望に満ちた感情が彼を圧倒し、突然周囲の時間が完全に停止した瞬間。家族全員が静止画のように凍りついた中、彼だけが動くことができた十分間の恐ろしい孤独。


「厄介な任務かもしれんが」マーカスは続けた。「最近、境界施設の時間安定システムに不規則な挙動が報告されている。君の能力なら、問題を特定できるだろう。それに...」


マーカスは再び周囲を確認し、さらに声を落とした。「非公式な情報も欲しい。リベラリアの統合主義者たちの動きがどれほど本気なのか、彼らの技術がどの程度発展しているのか」


アレンは黙って頷いた。これは技術的任務であると同時に、情報収集任務でもあるということだ。彼はこの二重の役割に慣れていた。時間技師という公式の立場と、評議会の道具としての非公式の機能。


「準備はできています」彼は答えた。正直な返答だった。時間技師として、彼はいつでも移動の準備はできていた。個人的な所有物も少なく、社会的な繋がりも限られていた。効率の追求が、彼の人生から多くの要素を削ぎ落としていた。


しかし、内心では別の考えが芽生えていた。ネクサスへの任務—それはカレンに近づくことを意味する。「裏切り者」である姉に。アレンは彼女への感情が複雑に混ざり合うのを感じた。恋しさ、怒り、そして理解できない選択への困惑。これらの感情は非効率的だと学んできたが、それでも彼の中に存在していた。


マーカスは満足げに頷き、公式の派遣文書が入ったデータパッドをアレンに手渡した。


「明日の第一輸送で出発する。ユニティアを誇りに思うような仕事をしてくれると信じている」


マーカスが去った後、アレンは一人で立ち尽くした。彼の周囲では、技術者たちが時間同期システムの維持に集中し、効率的に作業を続けていた。全てが秩序だち、全てが予測可能だった。


彼はB-17セクターの時間流動性表示を最後にチェックし、完璧に調整されたシステムを満足げに見つめた。これが彼の世界だった—制御され、測定され、最適化された世界。


しかし明日からは、彼はこの安全な境界を越え、未知の領域に足を踏み入れることになる。時間技師としての使命を果たしながらも、彼の内なる「異常」と、遥か彼方に存在する姉との繋がりに、どう向き合うべきか。


----


翌朝、アレンは指定された時間の15分前にマグレブ・トランジットの乗り場に立っていた。彼の持ち物は小さなキャリーケース一つだけ。中には必要最低限の衣類と個人的なメンテナンス用具、そして特殊な技術者用端末が収められていた。無駄を省いた効率的な荷造り—それが彼の生き方を象徴していた。


ネクサス行きのプラットフォームは他の乗り場と比べて静かだった。定期的に働く市民より、特別な許可を持つ政府関係者や交易業者が主な利用者だった。アレンは周囲の乗客を分析的に観察した。時間技師としての訓練が、人々の効率性を自動的に評価させる。不必要な動きをする人、時間を無駄にする行動パターンを示す人—彼の目はそれらを即座に検出した。


「技師タイマー、準備は完了しております」


無人ステーションのAIアナウンスが響き、シルバーグレーのポッドが滑るように停車した。アレンは淡々とそれに乗り込み、指定された座席に着いた。彼の生体リズムを認識したシートが、微妙に形状を調整し、最適な座り心地を提供した。


「ネクサス国境施設まで、正確に47分間の旅となります」AIの声が続いた。「目的地までの時間流動性は標準値で安定しています」


標準値—それはこの旅路には危険要素がないことを意味した。アレンは少し緊張を緩め、窓の外を見た。


ユニティアの風景が流れていく。幾何学的に整然と区画された都市。効率を追求した建築物は装飾を排し、純粋な機能美を持っていた。各セクターには時間同期塔が立ち、青白い光を放ちながら時間場を安定させていた。アレンはこの光景に安心感を覚えた。予測可能で、整然とした世界。


彼はコンソールに触れ、現地データを呼び出した。境界施設の時間場安定性グラフが表示され、過去三週間の異常値が明確に視覚化されていた。確かに不規則なパターンがあり、それは単なるシステム劣化とは思えなかった。彼の分析的な思考が活性化し、仮説を構築し始めた。


列車が郊外に入ると、風景は徐々に変化していった。住居区域の整然とした配置が薄れ、より不規則な区画が目立ち始める。効率的に管理された生態系から、より自然に近い植生へ。そして最後に、列車は巨大な壁に向かって進んでいった。


境界の壁——分裂以来200年近く、ユニティアとリベラリアを物理的に隔てる障壁。表向きは「異なる時間場の安定的分離」のための技術的必要性から築かれたものだったが、実質的には両社会の価値観の相違を物理的に象徴するものだった。


壁を見つめながら、アレンの思考は幼少期の授業に戻った。「大崩壊」と呼ばれる時間場実験の事故—それが最初の分裂を引き起こした出来事だった。二つの価値観を持つ社会が、その後独自の道を歩んでいったという歴史。


列車が壁に近づくにつれ、アレンの腕時計型デバイスが軽く振動した。時間流動性の微妙な変化を知らせる警告だ。彼は無意識に姿勢を正し、呼吸を整えた。同時に、「タイムスタビライザー」のエネルギー出力を8%上げた—境界近くではより強い抑制が必要だった。


「境界トンネルに入ります。時間調整室に移動してください」AIの声が告げた。


アレンは立ち上がり、ポッドの後方にある小さな部屋に入った。壁一面が鏡のようになっており、その表面が微かに脈動している。時間調整室——異なる時間流動性の環境に入る前に、身体を段階的に適応させるための装置だ。


部屋に入るとドアが閉まり、内部の照明が青みがかった光に変わった。彼はこの瞬間が好きではなかった。ここは彼の「異常」が最も刺激される場所の一つだった。


「時間調整を開始します。深呼吸を続けてください」


アレンは命令通りに深呼吸を繰り返した。周囲の空気が微かに重くなったように感じる。時間調整室内の時間流動性が、ゆっくりとリベラリア側の値に近づいていくのを感じた。彼の「タイムスタビライザー」がわずかに熱を持ち、調整に反応している。そして彼の内側から、何かが押し寄せてくるような感覚があった—抑制された能力が、変化する時間場に反応しているのだ。


アレンは記憶の中に潜む不安を押し殺した。これは彼にとって初めての越境ではなかった。研修の一環として、全ての時間技師は少なくとも一度はネクサスを訪れることになっていた。それでも、身体のあらゆる細胞が異なる時間の流れに適応しようとする感覚は、慣れることはなかった。それは彼の本質的な存在への挑戦のようだった。


10分後、調整が完了した。「時間調整完了。ネクサス中立地帯に到着します」


ドアが開き、アレンは再び座席に戻った。窓の外には境界の壁が近づいており、その先にあるのはネクサス——両社会の間の狭い中立地帯だった。


トンネルに入ると、一瞬の暗闇の後、列車は別世界に飛び出したかのように感じられた。外の光の質が変わり、時間の流れる感覚も微妙に異なっていた。それはユニティアの時間流動性でもリベラリアのそれでもなく、両者の中間的な値に調整されたネクサス特有のものだった。


アレンはその変化を全身で感じた。自分の思考のリズムが微妙に変わり、心拍数が調整され、そして何より「タイムスタビライザー」の抵抗が強くなったことを。彼の能力は、この中間的な時間場により敏感に反応していた。


ネクサス中央駅に到着すると、アレンは淡々と降車し、国境管理エリアに向かった。彼の身分証と派遣命令書は事前に送信されていたはずだが、標準的な手続きは必要だった。


「アレン・タイマー、ユニティア時間技師評議会から派遣」


彼は証明書を国境管理官に差し出した。管理官は無表情でそれをスキャンし、画面に表示された情報を確認した。彼女もユニティア出身のようだったが、わずかにリベラリア的な表情の動きがあった—ネクサスでの生活の影響だろう。


「目的は?」彼女は標準的な質問をした。


「境界施設の時間安定システムの技術評価と調整です」アレンは簡潔に答えた。


管理官は再び情報を確認し、「許可します。セクターCの技術者宿舎に案内します」と言った。アレンには、彼女の口調に微かな敬意が含まれていることが感じられた。時間技師の地位は、ネクサスでも尊重されているようだった。


別の職員が彼を宿舎へと案内した。ネクサスの街並みを歩きながら、アレンは新たな環境を分析的に観察した。


この中間地帯はユニティアとリベラリアの折衷的な様相を呈していた。ユニティアの幾何学的な秩序と、リベラリアの有機的な造形が混在し、独特の雰囲気を作り出していた。建物は基本的に機能的だったが、無駄な装飾も見られた。人々の歩き方や話し方も、ユニティアの効率とリベラリアの表現力の間のどこかに位置していた。


その混合状態に、アレンは微かな不安と好奇心の入り混じった感情を抱いた。彼は自分がここにいることの目的を思い出した—技術的問題の調査、そして情報収集。しかし彼の心の片隅には、別の思いもあった。


カレンはネクサスに来ることがあるのだろうか?彼女に会える可能性はあるのだろうか?


技術者宿舎は機能的でありながらも、必要以上の装飾を排した建物だった。部屋に案内されたアレンは、荷物を置くとすぐに端末を取り出し、現地の時間同期データを確認した。数値は確かに不安定だった——表面上は許容範囲内だが、専門家の目から見れば明らかに異常なパターンを示していた。


彼が前例のない波形パターンを分析していると、部屋のコミュニケーターが鳴った。


「タイマー技師、ドクター・クレイグです。到着されたと聞きました。」声は落ち着いていたが、その下に隠された緊張感をアレンは感じ取った。「すぐに境界施設でお会いしたいのですが」


アレンはデータから目を離し、通信に応答した。「了解しました。すぐに向かいます」


端末をケースに戻し、アレンは再び外に出る準備をした。彼はミラーに映る自分の姿を確認した—整然としたユニティアの制服、表情に感情を表さない顔、そして何よりも「タイムスタビライザー」がしっかりと機能しているかを確認した。すべては完璧だった。


窓から見えるネクサスの景色を最後に眺め、アレンは深く息を吸った。時間の感覚が異なる世界。二つの社会の狭間。そして、彼の中に眠る「異常」が最も活性化する場所。


彼は内なる能力の高まりを感じながらも、それを抑え込んだ。今は任務に集中すべき時だ。個人的な感情や能力の暴走は、効率的な職務遂行の妨げにしかならない。


アレンはドアを開け、境界施設に向かった。彼の時間技師としてのキャリアにおいて、最も挑戦的な任務が始まろうとしていた。


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境界施設は壁に沿って建てられた、長大で複雑な建造物だった。その中心部分が時間同期装置であり、両社会の時間流動性の境界を安定させる重要な設備だった。施設全体がユニティアの幾何学的な設計とリベラリアの流動的なデザインの要素を併せ持ち、その表面は常に微かに変化していた。


入口で身分確認を済ませると、アレンはすぐに中央管理室へと案内された。そこにはドクター・クレイグが待っていた。彼は画面に向かって立ち、複雑な時間場データを分析していた。


「ドクター・クレイグですね」アレンは挨拶した。


クレイグは振り返った。50代半ばの男性で、右目が明らかに義眼だった。それは通常の義眼とは異なり、青と緑の光が交互に脈動していた。アレンはすぐにそれが両社会の現実を同時に観察するための特殊装置だと理解した—非常に稀少で高価な技術だった。


「タイマー技師、お会いできて光栄です」クレイグは握手を求めた。その手は驚くほど冷たかった。「あなたの評判は聞いています。我々の...問題に対処できる適任者だと」


アレンはその言葉の含意を感じ取ったが、表面上は淡々と応じた。「問題の詳細を教えてください」


クレイグは複雑なコントロールパネルを操作し、大型ディスプレイに時間同期データを表示させた。


「ご覧の通り、過去3週間で同期ずれが加速しています。特に、この赤い領域」彼は画面上の点滅するエリアを指した。「ここでの時間乱流が最も顕著です」


アレンはデータに目を凝らした。確かに、通常の変動パターンとは明らかに異なる不規則な波形が見て取れた。しかし、それは単なるシステム故障ではなかった。波形には一定のリズムがあり、そのパターンは...


「これは内部的な技術的不具合ではない」アレンは断言した。「外部からの干渉の可能性が高い」


クレイグの義眼が一瞬、より強く発光した。「鋭い観察眼ですね。私たちも同じ結論に達しています。問題は...」彼は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。「干渉源が特定できないことです」


アレンは腕の「タイムスタビライザー」を無意識に調整した。この種の時間乱流は、彼の「異常」を刺激する可能性があった。彼の能力は安定した時間場では抑制しやすいが、乱れた場では制御が難しくなる。


「設備へのアクセス記録、最近の技術変更、周辺地域の活動報告——全てのデータが必要です」彼は実務的に言った。


クレイグは頷き、端末を渡した。「全て入っています。明日から実地調査も始められます。今夜はゆっくり休んでください」


アレンが立ち去ろうとすると、クレイグが一言付け加えた。「タイマー技師、もう一つ。明日、リベラリアからの代表団が到着します。文化交流プログラムの一環として」


アレンは足を止めた。「それが私の任務と何か関係があるのでしょうか」


「直接的には、いいえ」クレイグの口元に微かな笑みが浮かんだ。「しかし、彼らの代表者の一人、ミラ・クリエイターは特に...興味深い人物です。統合運動の中心人物の一人でもあり」


アレンは無表情を保ったまま頷いた。マーカスが言及していた「リベラリアの統合主義者たち」の一人に違いない。任務の情報収集部分に関連する情報だった。


「理解しました」


彼は宿舎に戻り、渡された端末のデータを詳細に分析し始めた。数時間後、彼は一つの奇妙なパターンに気づいた。時間乱流は規則的な間隔で強まっており、そのピークはリベラリア側からの特定の「文化交流イベント」の直後に一致していた。


アレンは眉を寄せた。これは単なる偶然だろうか、それとも意図的な干渉なのか。リベラリアの「現実操作技術」が時間場に干渉している可能性はあるのだろうか?


彼の思考が続くにつれ、右手首の「タイムスタビライザー」が微かに熱を持ち始めた。周囲の時間場の変化に反応しているのだ。アレンは深呼吸をし、装置の出力を調整しようとしたが、反応が遅かった。


突然、部屋の空気が重くなり、窓から見える街灯の光が引き伸ばされたように見えた。一瞬の間、時間が遅延したのだ。彼の能力が微かに発現していた。


「制御する」アレンは自分に言い聞かせ、集中力を高めた。徐々に時間は通常の流れに戻り、「タイムスタビライザー」の熱も引いていった。


この出来事は彼を不安にさせた。なぜ今、能力が活性化したのか?境界の近くにいるからか、それとも時間乱流の影響か。あるいは...別の理由か。


部屋の窓から、アレンは再び壁の向こう側を見つめた。リベラリアの夜景が、不規則な光の集合体として見えた。幾何学的秩序を重んじるユニティアの照明パターンとは対照的な、有機的で予測不能な明かりの広がり。その光の中のどこかに、カレンがいるのかもしれない。


「規則と混沌」彼は小さく呟いた。「効率と創造性」


どちらが正しいのか。アレンは自問した。彼が教育された価値観では答えは明らかだったが、境界に立つ今、その確信に微かなヒビが入りかけていた。


「タイムスタビライザー」が再び振動し、彼の内なる能力の存在を思い出させた。アレンはそれを意識的に抑え込もうとし、深く息を吸った。疲れを感じていた。ネクサスの環境に対応するために、彼の身体と精神は常に調整を強いられていた。


端末を閉じ、明日の準備をするために立ち上がった時、彼は一瞬のめまいを感じた。部屋が揺れているように見え、彼の視界の端に青い閃光が走った。それは一秒も続かなかったが、確かに何かがあった。


「休息が必要だ」アレンは自分に言い聞かせた。しかし彼の科学者としての思考は、この現象が単なる疲労ではないことを示唆していた。ネクサスでの最初の夜は、予想以上に不安定になりそうだった。


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翌朝、アレンは早めに起床し、体調を確認した。昨夜の不安定さは消え、彼の意識は明晰になっていた。「タイムスタビライザー」の診断も通常の範囲内の数値を示していた。彼は精密な時間効率のスケジュールに従って準備を整え、朝食を取った。


予定よりも30分早く境界施設に到着すると、既にいくつかの部署が活動を始めていた。アレンは中央管理室に向かった。そこには夜勤の技術者だけがいて、システムの維持に当たっていた。


「タイマー技師」若い技術者が敬意を込めて挨拶した。「ドクター・クレイグはまだ到着していません」


「問題ない」アレンは応じた。「時間同期システムのログにアクセスさせてほしい。昨日のデータを詳細に分析したい」


技術者は承認し、アレンに必要なアクセス権を与えた。彼は直近の48時間の時間乱流パターンを視覚化し、その特徴を分析し始めた。プロジェクションディスプレイに青と赤の波形が浮かび上がった。


アレンは完全に集中し、波形の中にパターンを見つけようとしていた。そのとき、彼の背後でドアが開いた。


「早い到着ですね、タイマー技師」クレイグの声がした。「熱心さが伝わってきます」


アレンは振り返った。「効率的な時間の使用は私の習慣です。これらのデータには興味深いパターンがあります」


彼はディスプレイ上のいくつかの変動ポイントを指し示した。「これらの乱流ピークは規則的な間隔で発生しています。そして、各ピークの前には微小な時間場の振動があります。まるで...何かが時間場を押してから、引いているかのようです」


クレイグは興味深そうに観察した。「鋭い洞察です。何か理論はありますか?」


「まだ確定的なものではありません。しかし、人為的な干渉である可能性が高いです」アレンは慎重に言った。「自然発生的な時間場変動ならば、このような規則的なパターンは示さないでしょう」


クレイグは頷いた。「同意します。問題は、誰がそのような干渉を行っているのか、そしてその目的は何なのかです」


アレンは次の言葉を選びながら、クレイグの反応を注意深く観察した。「リベラリアの文化交流イベントと時間乱流のタイミングの一致は、単なる偶然とは思えません」


クレイグの義眼が一瞬明るく光った。「興味深い仮説です。その場合、リベラリアの現実操作技術が時間場に干渉している可能性がありますね」


「意図的かどうかはまだ分かりません」アレンは客観的に続けた。「彼らの技術の副作用かもしれません。あるいは、意図せずに生じている現象かもしれません」


クレイグはしばらく考え込んだ後、「今日の文化交流プログラムが、その仮説を検証する機会になるかもしれません」と言った。「リベラリアの代表団は数時間後に到着します。あなたにも観察者として参加してほしい」


アレンは頷いた。これは任務の情報収集部分に直接関連する機会だった。彼はクレイグが彼とリベラリアの代表団を接触させようとしていることを感じた。その意図は不明だが、有用な情報源になる可能性があった。


「了解しました」


クレイグは満足げに頷いた。「素晴らしい。それまでの間、施設内の各同期ポイントを検査しましょう。時間乱流の源を特定するために」


次の数時間、彼らは境界施設内の各時間同期装置を点検した。アレンは各ポイントでの時間場の状態を詳細に測定し、異常値を記録した。彼の専門知識が発揮される瞬間だった。


最後の同期ポイントでの測定が終わったとき、クレイグのコミュニケーターが鳴った。「リベラリアの代表団が到着しました」彼は知らせた。「文化交流センターに向かいましょう」


アレンはデータ収集を完了し、端末に最後の分析結果を保存した。彼は自分の「タイムスタビライザー」を確認し、最適な状態に調整した。リベラリアの代表団、特に統合運動のリーダーとの接触は、彼の能力に影響を与える可能性があった。


彼らが文化交流センターに向かう途中、アレンは境界施設の複雑な構造をより詳しく観察した。表面上はユニティアの効率とリベラリアの創造性の調和を目指したデザインだったが、彼の鋭い目は施設の下に秘められた緊張を感じ取った。この建物は二つの異なる現実の衝突点に立っており、その存在自体が両者の違いを強調していた。


「ミラ・クリエイターについて」アレンはクレイグに尋ねた。「彼女はどのような人物なのですか?」


クレイグは一瞬考え、「非常に才能ある若手の環境芸術家です」と答えた。「リベラリアの芸術評議会の若手代表として高く評価されています。しかし、彼女の真の影響力は統合運動の中でのものです」


「統合運動」アレンはマーカスから提供された情報を思い出した。「それはどれほど大きな影響力を持つのですか?」


「過小評価すべきではありません」クレイグは真剣に言った。「特に若い世代の間では、境界の解消と両社会の融合を望む声が高まっています。ミラはその運動の顔であり、声です」


アレンはその情報を分析的に処理していた。統合運動—それは時間技師評議会が最も警戒する政治的動きの一つだった。二つの社会の技術的融合は、予測不能な結果をもたらす可能性があるとされていた。しかし、彼の任務は客観的な観察と情報収集であり、先入観を持つべきではなかった。

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