トリガーエフェクト

奏 舞音

トリガーエフェクト

麗奈れなの彼氏、本当にイケメンだよね~!」

「美男美女カップルで羨ましい~!」


 女子会でいつも話題の中心にいるのが、私――篠崎しのざき麗奈だ。

 入学したばかりで大学のミスコンに選ばれ、絶世の美女だと騒がれたのは記憶に新しい。

 付き合って半年になる彼氏――倉田くらた俊介しゅんすけとのツーショットを見せ終わり、スマホをしまう。


「やっぱり、美人にはイケメン彼氏ができるのか~」

「え~、そうかなぁ」


 とぼけてみせるが、内心では当たり前だと吐き捨てる。

 私の友人たちの顔面偏差値レベルは低い。

 そんなことを思っているなんて、誰も気づいていないだろう。

 この女子会メンバーは親友だと公言しているのだから。


(友達が一人もいないなんて、世間体が悪すぎるし……)


 私はいわゆる八方美人で、誰にでも好かれるように振舞っている。

 そんな私の彼氏の俊介はといえば、イケメンなだけでなく、勉強もできて、友達も多く、みんなに好かれている。

 まるで男版の私のようだと思った。

 似た者同士で恋人になったものの、私には物足りない。

 羨ましいと言われれば言われるほど、誰も私の気持ちなど理解していないのだと思う。

 だが、それも仕方のないことだ。

 本当の気持ちを他人に見せるほど愚かではないし、そもそも私は何にも心を動かしたことがないのだから。

 感情というものが欠落している、と言った方がいいのかもしれない。


 自分の心が硝子ガラスのように固く冷たいものだと気づいたのは、小学校四年生の頃だった。ウサギの飼育係などという面倒な仕事を押し付けられ、臭いウサギ小屋の掃除をしたり餌をやったりした。

 小動物と触れ合うことで、命の大切さを学んでほしい。そんな大人が理想とする子どもであるためにか、クラスメイトはみんなウサギを可愛がっていた。

 しかしある日、一匹のウサギが死んだ。

 クラスメイトも、先生も、私以外の人間はみな、目から涙を流していた。


「飼育係をしていたあなたが一番辛いでしょうね」


 そう先生に言われた時、私は自分の心が何の反応も示していないことに気づいたのだ。

 平然としている私を見て、誰かが心の冷たい人だと言った。その通りだと思う。

 だが、このままでは自分が最低な人間だと認識され、クラスの中で浮くかもしれない。それに、社会生活の中で人との関わりが必要不可欠なものだと理解していた私は、表情を作る練習をした。

 みんなと同じように笑い、怒り、泣く。

 その甲斐あってか、今の私は表情豊かで、感じやすい繊細な心の持ち主だと思われている。

 表情に感情が伴っていると誰もが思い込んでいるのだ。

 作り物の表情を信じ、私のことを分かった気でいる人間たちを見るうち、益々私の心は冷たく凍っていった。

 両親でさえ、私の演技に気づかない。一人娘の私が可愛くて仕方ないのだろう。

 私は両親に怒られたことも、注意をされたこともない。


「麗奈は可愛くて、とっても良い子なのよね」


 自慢の娘だと母はママ友に言っていた。父も、同様に。

 そういう時、私はディスプレイされているマネキンのような気持ちになる。

 私の中身は空っぽで、冷え切っているのに、みんな表面だけを見て判断していく。

 けれど、それを不満に思っているわけではない。

 本当の姿なんて、誰にも見せられるわけがないから――。


 高校に上がれば、元々肌が綺麗で目も大きく、フランス人形のようだと言われていた私は、当然のようにモテた。

 その整った顔で柔らかく微笑んでみせれば、馬鹿な男たちは私に心を奪われる。

 それが面白くもあり、つまらないことでもあった。

 何人もの男と付き合ったが、どの男も私の心を動かすことはできなかった。

 大学に入学しても、馬鹿みたいに尻尾を振る犬のように私に付きまとう男ばかり。

 ミスコンで当然のように優勝したから、言い寄ってくる男はさらに増えた。どの男もピンとくるものはなく、適当に相手をしていた。

 女友達にひがまれないよう、自分がモテていることに気づかない鈍感な天然女を演じるのにも限界がきていた頃だった。

 俊介しゅんすけに出会ったのは。


麗奈れなちゃんって、性格悪そうだよね」


 学生交流会と称した学年も関係なく集まった大規模な飲み会だった。

 会ったその日に、こんな挑戦的な言葉を吐かれたのは、初めてだった。

 万人受けする笑顔で対応していた私の目を見て、はっきりと俊介は告げたのだ。

 性格が悪そうだと。


(誰も、私の本質を見抜くことなんてできなかったのに……もしかして、この男は他の男たちとは違うの?)


 その瞬間に、私はこの男を何としてでも手に入れたいと思った。これもまた、初めての感覚だった。

 もしかしたら私の冷たい心を動かしてくれる人かもしれない、そうどこかで期待してしまったのだ。

 私はすぐに俊介が所属するサッカー部に入部し、マネージャーとなった。

 サッカー部の男子たちは私がマネージャーになったことで浮き足立っていたが、俊介は変わらなかった。


「何が目的なんだか……」

「俊介先輩のこと、もっと知りたくなったんです! サッカーのことも勉強したんですよ」


 俊介目当てで入部したのはバレバレだったけれど、真面目な面も見せておこうと興味のないサッカーのことも調べた。

 マネージャーとしての働きぶりをだんだんと俊介も認めてくれて、彼との距離は少しずつ縮まっていった。


「麗奈、俺と付き合おうか」

「嬉しい! そう言ってくれるのをずっと待ってたんですよ」


 何度目かのデートでやっと俊介から告白され、晴れて私たちは付き合うこととなった。

 完璧な女子力と庇護欲をそそる女の仮面をつけて、俊介の隣で微笑む。

 だが、乙女心というものは当然私には存在せず、付き合えてドキドキワクワクなんて感情は一切なかった。

 ただ、簡単に私を好きになる今までの馬鹿な男とは違う俊介と過ごす時間は、一体どんなものになるのだろうかという期待はあった。


◇◆◇◆


「ねぇ俊介〜、もうやめなよ」


 会話すら埋れてしまうような騒音の中、私は俊介に耳打ちする。


「は? もうすぐ勝てそうなんだから黙ってろよ、ブスが」


 俊介は、目の前を跳ねる小さな銀色の玉に夢中になっている。

 眩しいくらいに照らされた店内には、ジャラジャラと玉が落ちる音が絶えず響く。

 そろそろ目と耳がおかしくなりそうだ。


(ったく……すぐ終わるって言ったくせに)


 この男は、かなりのギャンブラーだった。

 暇があれば、パチンコに行く。

 勝つよりも負ける頻度の方が多いのに。

 顔が良く、運動もできて、頭もいい。

 完璧な男だと思われがちだが、その実ギャンブルにはまるどうしようもない男だった。

 足の怪我がきっかけでサッカーのスタメンから外されると、療養中に始めたパチンコにドはまりしたのだ。

 復帰を待つ部員は多いのに、彼はもう健全にサッカーをできる状態ではないだろう。

 アルバイト代のほとんどはパチンコ代に消えていく。


(どうせなくなるなら私にお金をくれてもいいのに……)


 俊介に出かけようと言われたら、それはデートではなくパチンコだ。可愛い彼女を隣に座らせて、パチンコを楽しむ。

 イライラしたら私にぶつけて、時々キスを迫ってくる。

 人前では嫌だと伝えると、「パチンコに夢中なオッサン共は気づかねぇよ」と無理矢理唇を奪われた。

 近くに座っていた男たちからはいやらしい目を向けられて、ため息を吐く。

 サッカーをやめて俊介は、彼女に暴言を吐く立派なDV彼氏だし、ギャンブル依存症気味だし、良いところなんて顔だけだ。

 落ちぶれた俊介を支えたい、なんて糞みたいな考え、私は持ち合わせていない。

 それでも別れないのは、彼の言動が好きだったからである。

 俊介は、罵倒の言葉で私の心に刺激を与えてくれる。

 私に甘くて優しいだけの愛なんていらないのだ。


「麗奈が可愛くて仕方ないから、ずっとそばにいてほしいんだ」


 私のことをブスだと言いながら、私の顔が可愛くて好きだと言う。

 矛盾しているが、そのバランスが気に入っている。とはいえ、好きだと言われて私の心が動くことはない。

 私は、誰から見てもブスではない自信がある。性格ブスと言われてしまえば、それまでだという自覚はあるが。

 しかし、私の本心を理解している他人など存在しないため、性格がどうのという話は表面上だけのものとなる。友達はみな私のことを悪口を言わない優しい子だと思って疑っていない。


「でももう五万も使っちゃってるよ? 今月そんなに余裕ないって言ってたじゃない」

「うるせぇなー。邪魔だからどっか行ってろよ」


 俊介は、人が変わったように怒鳴り、私を突き飛ばした。

 暴言はあっても手を出してきたのは初めてのことで、私は少し驚き、目をぱちくりさせる。


「じゃあ、外で待ってるよ」


 その後、私は八時間外で待った。

 もちろん、俊介が愛しくて待っていた訳ではない。俊介の車がないと家まで帰れないのだから、仕方がない。喫煙者用にと設けられたベンチで俊介を待っている時、私に声をかけてきた男たちに送ってもらおうかとも考えたが、どの男にもいやらしい感情が見て取れて、やめた。

 まだ、俊介の方がましだ。

 結局、俊介は負けて出てきた。

 来た時は明るかった空も、もう星が出て、完璧な夜空となっていた。

 負けた苛々をそのまま私にぶつけ、俊介は乱暴に車を走らせた。


「おぃ、こっち来いよ」


 家に着くと、私の肩を引き寄せ、唇を重ねる。むさぼるようなキスに、私は俊介を拒絶した。


「もっと優しくして……」

「は? お前ドMのくせに何言ってんだよ」

「その言い方、やめてよ」

「俺が嫌なら、他の優しい男のところにでも行けばいいだろ? ま、麗奈は俺じゃないとダメだろうけどな」


 力づくで、俊介は私を押し倒す。

 女は力で男に勝てないっていうのは、こういう時本当にやっかいだ。拒絶したって拒否できない。

 もう、好きなようにすればいい。そう思い、私は抵抗するのをやめた。それを肯定と受け取った俊介は、私の身体を楽しんだ。

 俊介の自信は一体どこから来るのだろうか。まぁ、男は自分が上に立ちたいからそう思いたいだけなのだろう。

 自信過剰なことを言うわりに、行為の最中は「愛してる」とか「お前だけだ」と言って、保険をかけてくるのだ。


 もう付き合ってもうすぐ一年が経つが、特に心動かされることはない。何か、俊介が取り乱すような面白いことはないだろうか。

 そんなことを考えながら、私は俊介に抱かれていた。


 ◇◆◇◆


「じゃあ、自己紹介からっ!!」


 能天気に明るい声から始まった合コンの場に、私は微笑んで参加していた。

 集まった男たちの顔は、悪くはない。いや、イケメンと言ってもいいだろう。

 合コン相手は、大手企業に就職が決まった大学四年生たち。


「なんか、最近の俊介先輩ちょっとやばそうだし、麗奈にはもっといい人がいると思うの!」


 と友人に誘われて、私は二つ返事で参加を決めた。

 きっと面白いものが見られると思ったから。


「早速だけど、みんなの好きなタイプ聞かせてほしいなー!」


 幹事であろう男が中心となり、女たちとの会話を弾ませている。しかしそのうち男女各々で話し始め、全体での会話は少なくなっていった。


「麗奈ちゃん、こういうの慣れてないの?」


 大人しく微笑み、座っていれば誰かが必ず声をかけてくれる。見た目だけの可愛さで寄ってきたカモを見て、私は満足する。

 今日の合コンに来ている中で、一番イケメンで就職先も有名企業の男だ。

 たしか、名前は鈴木すずき智和ともかず。少し茶色がかった短髪、色素の薄い瞳、180センチはあろうかという身長。容姿はメンズモデル並にすべてが完璧に整っている。

 声も落ち着いた低音で、耳に心地良い。

 かなりモテそうなのに、何故合コンなどに来ているのだろう。


「私、合コンに参加するの初めてなんです。だから、何を話していいか分からなくて……」


 清楚系の薄いピンク色のワンピースを着て、ナチュラルメイクを施した私に上目遣いで見つめられれば、大抵の男は落ちる。

 少しの間私に見惚れた後、智和は話し始めた。


「そっかー。俺も今日は人数合わせで来てるだけなんだ。実はさ、ずっと運動ばっかしてて女の子と関わるのって苦手なんだよね」


 と言いながらも、かなり女慣れしてそうだ。自分は誠実な男なのだとアピールしているのだろうか。


「運動、ってことは何かスポーツされてるんですか?」

「あぁ、サッカーをね。でも就活が忙しくて4年になってからはしてないかなぁ」

「そうなんですか? 私、サッカー部のマネージャーしてるんですよ」

「ホントに?!」


 俊介のために入ったサッカー部だが、こういう時に会話を広げるのにも役に立つ。

 サッカーや野球が好きな男は多い。サッカー関連の話で智和と盛り上がり、合コンがお開きになる時には、かなり智和の人となりが分かった気がする。

 智和は女慣れしているように見えて、責任感があり、しっかりとした真面目な面も持っている。

 好きな女にとことん愛情を注ぎ、その愛情が重荷となり、最終的には捨てられる男の典型的な例だろうと思った。


「麗奈ちゃん、今度二人で出かけない?」


 帰り際、智和は私にだけ聞こえるように耳元で囁いた。

 確実に、智和は私に好意を持っている。

 これを利用しない手はない。

 私は、智和に向かってにっこりと笑った。


 ◆◇◆◇


 合コンの後、何度か智和とデートに行った。

 その間、俊介との連絡は絶っていた。はじめのうちは、パチンコに夢中で気づかないだろうが、だんだんと気づき始めるはずだ。

 私と一切連絡が取れないことに。


 もうすぐ、俊介と連絡を絶って一週間が経つ。

 そんなある日の夕方、私は初めて智和を家に招いた。

 大学入学を機に始めた一人暮らしは、麗奈にとって気楽なものだった。

 両親の顔色を窺わずにすむし、男を連れ込んでも文句を言われないから。


「うわぁ、麗奈ちゃんらしい可愛い部屋だね」

「そんなことないですよー。今日、智和さんを呼ぶから慌てて片付けたんです」


 智和を呼ぶ前にしたことといえば、俊介の私物の片付けだ。 

 そんなこととは知らず、智和は嬉しそうに笑みを浮かべる。


「別にそのままでも大丈夫なのに……俺のために頑張ってくれたんだ?」

「だって、智和さんには良いところしか見せたくないから……」

「あー本当に麗奈ちゃんは可愛いな」


 そう言って、智和は私の頭を撫で、額にちゅっとキスを落とす。

 まだ言葉にはしていないが、智和は私と付き合っている気になっている。

 ――それでいい。

 これからどうなるのか、考えるだけで笑みがこぼれそうだ。


「麗奈ちゃんの手料理が食べられるなんて、嬉しいなぁ」

「いつもご馳走になってばかりだったので……少しでも喜んでもらえるように頑張りますね!」


 智和を呼んだのは、手料理を振る舞うためだ。

 普段のデート代はすべて智和が負担してくれていたから、そのお礼というていだ。

 かわいらしいフリルのエプロンを付けて、さっそく料理を始める。

 メイン料理は唐揚げだ。昨日から漬け込んでいる鶏肉を冷蔵庫から取り出して、揚げていく。

 その間に味噌汁とサラダを用意する。

 手際よく料理をする私の姿を見つめながら、智和は「やばい、今すぐ結婚したい」と呟いていた。


「緊張するからあんまり見ないでくださいよ〜」

「ごめんごめん、でも麗奈ちゃんが料理してるところずっと見ていられる」

「失敗しても知りませんからね?」

「大丈夫。どんな料理でも美味しく食べられる自信があるよ」


 バカップルのような会話をしながら、皿へ盛り付けていく。

 揚げたての唐揚げはおいしそうな香りを漂わせる。


「麗奈特製唐揚げ定食、完成しましたっ!」


 じゃーん!とメインの唐揚げとごはん、みそ汁などをテーブルに並べてみせると、「かわいすぎる」と智和はスマホのカメラをこちらに向けてきた。

 本気で私に惚れている姿を見て、思わずにやけてしまう。


「では、召し上がれ」

「いただきます」


 小さなテーブルに二人で並んで座り、食べる。


「うっわ、めちゃくちゃ美味しいよ!」


 私の手料理を食べて、智和は目を輝かせる。俺はいい彼女を持った、そんな風に思っているのだろう。嬉しそうに唐揚げを頬張る。


「ありがとう」


 照れたように笑いながら、私もご飯を口に入れる。

 夜ご飯を食べ終わり、智和に風呂をすすめる。

 そして、彼の後に私も風呂に入った。


「映画でも見ますか?」

「お、いいね」


 おうちデートの定番である映画。

 私は、感動ものの恋愛映画を選ぶ。きっと、こういうべたな恋愛ものが智和は好きだろうと思ったから。

 ぴたりとくっついて座り、智和の肩に頭を寄せる。

 私と同じシャンプーの香りがする。きっと、智和も嗅いでいるだろう。

 

(愛している、なんて私には一生理解できない感情だろうな)


 恋に恋している登場人物たちを冷めた瞳で見つめる。

 しかし、熱いキスを交わすシーンで、私は智和に仕掛けることにした。


「!」


 きゅっと智和の袖を引く。

 どうしたのかとこちらを見た智和を上目遣いで見つめて、ゆっくりと目を閉じる。

 こちらの意図は正しく伝わったようだ。

 智和はそっと私の唇にキスをした。

 物足りない。私は智和の手をぎゅっと握る。


「……麗奈ちゃんの唇、甘いね」

「そ、そんなこと」


 恥じらいも忘れてはならない。

 智和の中の私のイメージを壊さないよう、手を出してもらわなければ。


「でも、智和さんに、もっと触れたい……かも」

「本当に、いいの?」


 真剣な付き合いを考えている智和は、私にキスをしながら聞いてくる。


「智和さんなら……」


 そう言って私から抱きつけば、彼の理性は崩壊した。

 唇を重ね、身体を重ねれば、心までも重ねたような気になる。

 少なくとも男は……。




 ガンガンガン!!

 と、うるさい音に目を覚ます。


「……ん、なんだ?」


 隣で寝ていた智和も、玄関から聞こえてくる音に目を覚ましたようだ。

 明け方近くまで体をつなげていたから、二人ともまだ裸だった。

 色白の肌には智和がつけたキスマークが咲いている。

 その姿を見て、再び智和の雄が主張をはじめたが、今からのお楽しみは別にある。


「ちょっと見てくるね」


 私は脱衣所にあったタオルを裸体に巻きつけ、玄関に向かった。じんわりと笑みを浮かべながら。


「麗奈っ!! いるのか?!」


 扉の向こうにいたのは、予想通り俊介だった。物音がしたことで、俊介は私の名を呼び続ける。


「一週間も連絡をよこさないなんでどういうつもりだ!」


 私は黙って鍵を開けた。


 ――バンッ!

 勢いよく開かれた扉に少し驚いたことで、巻きつけていたタオルが落ちてしまう。


「……お前、なんで裸なんだ?」


 俊介は怪訝そうに私を見つめ、その奥にある何かを探そうと目をこらす。そして、靴を脱ぎ、部屋に入ろうとする。そこには、裸でベッドに寝ている智和がいる。


「ちょ、ちょっと待ってよ」


 私は慌てて俊介を引き止める……フリをした。

 弱い私の制止を振り切って、俊介は奥の部屋へと踏み込む。


「は……智さん?」


 先ほどまでの勢いをなくした、俊介の呟き。

 そして、名を呼ばれた智和も俊介を見る。


「俊介?」

「な、んで麗奈の部屋に智さんがいるんだよ!」


 そう叫んだ後、俊介は玄関でまだ座りこんでいる私を乱暴に立たせ、部屋へと引きずる。


「さっさと服着ろ」


 俊介に吐き捨てるように言われ、私は服を着た。

 いつの間にか、智和は服を着ていた。

 二人して、苛立ちを隠せない俊介の前に正座させられる。


「で、これはどういうことだ?」

 

 私が黙って下を向いていると、隣にいる智和が二人が出会った経緯いきさつを話し始めた。


「飲み会で出会って、麗奈ちゃんとは仲良くなった」

「飲み会? 麗奈、お前俺がいるのに合コン行ったのか?」

「……」


 ギロリと睨んでくる俊介から、私は目を逸らす。


「……とにかく、俺は麗奈ちゃんに彼氏がいたなんて知らなかったんだ。それも、相手が俊介だなんて」


 俊介と智和は、サッカー部の先輩後輩の仲だった。

 大学三年の俊介は、約二年間様々な面で智和に世話になったという。

 彼女ができたということは伝えていたが、俊介は麗奈のことは何も話していなかった。


「で、お楽しみの最中に俺が来たってことっスか?」

「……すまない」


 智和が頭を下げる。

 尊敬する先輩が、自分の彼女と寝ていた。

 その事実は俊介に大きな衝撃を与えた。


「最悪だ……お前、俺が好きなんじゃねぇのかよ!」


 その言葉を聞いて、だんまりを決め込んでいた私は口を開いた。


「俊介が、他の男のところへ行けばいいって言ったのに、そうやって怒るの?」


 俊介は何をしても何を言っても私が離れていく可能性なんてこれっぽっちも考えていなかったのだ。

 私が一途な女を演じていたから。

 私の物言いに俊介は怒りが抑えきれなくなったのか握りこぶしを振り上げた。


「本当に浮気する奴がいるかよ。許さねぇぞ」

「俊介やめろ!」


 力任せに振り下ろされた拳は、私をかばった智和の頬に思いきり当たった。殴られた智和は鼻血を流し、口元も少し切ったようだった。


「智和さんっ! 大丈夫ですか?」


 私が智和の側に行こうとすると、俊介に髪を引っ張られる。数本の髪がぶちっと抜けた。今の俊介は容赦がない。


「お前はこっちだろ」


 俊介は低い声で私を脅す。

 普段の俊介とは全く違う様子に、想像以上に面白いことになりそうだと私は内心ほくそ笑む。


「智さんは帰ってください」


 静かに言葉を紡ぎながらも、俊介は鋭い殺気を纏っていた。


「暴力的なお前と麗奈ちゃんを二人きりにする訳にはいかない」


 智和は本当にどこまでも優しい人だった。


「お前がそんなだから、麗奈ちゃんは俺に救いを求めようとしたんじゃないのか」


 智和は俊介から私を守ろうとしている。

 私が俊介の暴力や暴言に日々怯えていたのではないか。

 そんな勝手な想像で、私への庇護欲が湧いてきたのだろう。

 自己陶酔と自意識過剰。

 優しすぎる男は、普通に付き合ってもつまらない。

 私を理解した気になっているのは面白いけれど。


「麗奈は俺の彼女です。俺の好きにさせてもらう」

「麗奈ちゃんは物じゃないんだぞ?」

「そんなことは分かってる。でも、少しお仕置きが必要だとは思わないですか?」

「お前が大事にしなかったからだろ!」


 二人の男のやり取りをしばらく見つめ、だんだんと飽きてきた私は次の行動に出ることにする。

 俊介の怒りを十分に引き出すために。


「すみません智和さん、帰ってください。私は大丈夫ですから……」


 私が涙目でそう言うと、智和は心配そうな顔で首を横に振る。私の肩に優しく手を置いて。


「このまま置いてはいけないよ」


 バリ――――ン!

 突然、何かが割れる音がした。

 音のした方を見ると、右手を窓ガラスに突っ込み、血を流す俊介の姿があった。


「俊介っ!」

「俺の前でいちゃつくんじゃねぇよ」


 ガラスが拳に刺さり、どんどん血が溢れているのに、痛がる素振りを全く見せずに俊介はただ私たちを睨んでいる。私は、その血まみれの姿にゾクゾクした。


「……ふ、ふふ。すごい、すごいわ……!」


 笑いが堪えきれない。私の部屋の床には、俊介の血が広がっていた。赤い血で染まった、赤い床。なんて美しいんだろう。私の中で、何かが弾ける音がした。もう、止められない。

 私は俊介の血まみれの右手に触れた。べちゃり、と赤い血が私の白い手につたう。


「ねぇ俊介、痛い?」


 これまでの作ってきた笑顔とは違う、心からの満面の笑みを浮かべて私は俊介にすり寄る。


「きゅ、救急車、呼ぼう!」


 後ろから、智和の焦った声が聞こえてくる。勝手にすればいい。そう思いながら、私は俊介の右手に顔を近づけ、傷口を舐めた。う゛、という俊介の声を聞いて、ますます私は楽しい気持ちになる。


「麗奈、何を……」


 少し落ち着き、痛みを取り戻した俊介は苦しそうに顔を歪め、私のことを危険人物を見るような目で見つめていた。


「何って、俊介の血を舐めてるの」

「お前、正気か?」

「もちろん」


 にこっと笑った私の口元は、俊介の赤い血によって潤っていることだろう。そして、私は近くに落ちていたガラスの破片を手に取り、自分の首元にあてた。


「……何するつもりだ」

「ふふ、こうするの」


 鋭いガラスの破片を首元に強く押し付け、縦に引けば私の細い首筋から赤い滴が流れ落ちる。自分の首から流れる赤い血に触れると、少し温かかった。

 硝子のように冷たく、固い心を持っている私にも、温かい赤い血が流れている。

 今、私は心から楽しんでいる。血を見て、興奮している。


「ねぇ、俊介も。ほら」


 私は俊介の顔に自分の首を近づける。私の血を飲め、と。

 血を流しすぎて意識が朦朧としている俊介は、私の言葉に従順になった。

 素直に顔を首に近づけ、私の首から流れる血を吸う。


「な、何をしているんだ!」


 血の匂いが充満した部屋に、救急車を呼びに行っていたであろう智和が戻ってきた。

 この男だけが、この異常な空間でまともだった。

 それが、私にはおもしろくない。

 みんな、私の快楽のために存在していればいいのに。


「智和さん、来て」


 私は俊介に血を吸われながら、智和に極上の笑顔を向けた。

 恐る恐る、智和は私に近づいてくる。

 そして、私の血を求める。そうだ、それでいい。

 物理的な力で人間を支配するなんて、つまらない。

 精神的に支配してこそ、面白いと私は思う。

 人間の身体に流れる赤い血は、きっと人の精神を狂わせる。

 私自身が狂っているように――。

 

 甘い餌を与えてあげる、極上に甘い餌を。

 だから、私にすべてを委ねればいい。


「ふふ、私の可愛い下僕たち」


 私には、冷たい心なんてもう存在しない。

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