20.全ての終わりに現れる男
「やめて、その人に訊いても何も答えられない」
その声が届いた時、惣次は耳を疑った。
だがリビングの入口には確かに姪の姿があり、それは紛うことなき現実だった。
彼女は満身創痍で床に伏す不甲斐ない叔父の解放条件として、男達に薬物の在りかを提示した。その間も自分は何もできず裏の空き地で阿呆のように突っ立ったまま、彼女があの男に触れられる様を見ているだけだった。
土の下から死体が出てきたのには驚いた。
しかしこれが起死回生の唯一の機会だった。
逃げ込んだキッチンで惣次は隣にいる相手の顔を見る。今自分がやるべきことは、何をしてでも彼女をこの場から無事脱出させることだった。
惣次は立ち上がると智にキッチンの納戸に隠れるよう指示し、自分はドア陰に潜んだ。勝手口に鍵は掛けたが、男達はすぐにでも別の場所から回り込んでくるはずだった。
程なくして足音が聞こえ、キャップが姿を現す。
惣次は部屋に踏み込んだその背後に忍び寄り、相手の首元に腕を回すと一気に絞め上げた。
キャップは腕を外そうと暴れるも、じきにだらりと弛緩する。気を失ったキャップを智と入れ替わりに納戸に放り込み、キッチンを離れる。広い家でもこういった状況下では狭すぎる。一所に居続けるのは危険だった。
「惣次」
小声で呼びかける智が示す方に目を遣れば、二階に向かうロンゲの姿がある。周囲に警戒しながらその後を追い、客室に入っていく姿を確認する。こちらに背を向けたロンゲはベッドの下やバスルームを覗き込み、逃げた相手の捜索に勤しんでいるようだった。
コンコン。
惣次の指示で、智が開きっぱなしの扉を廊下側からノックした。
「てめぇ!」
智の姿を見たロンゲが怒り心頭の表情で駆け寄ってくる。惣次はそのまま外に駆け出ようとした相手の顔面と腕を掴み取り、その勢いを利用して引き倒した。
ロンゲは後頭部と背を床に強く打ちつけ、声もなく動かなくなった。昏倒した相手を室内に引き摺り込み扉を閉めると、智と再度階下に移動した。
これでロンゲとキャップが消え、残るは曽我だけになった。相手が一人になった今なら、逃亡を図っても対処できる可能性は高まった。町まで行けばいくら曽我でも無茶はできない。一旦逃げ切ることができれば、こちらの体勢も立て直すことができるはずだった。
惣次は智と共に慎重に階段を降りると玄関に向かった。周囲には誰の姿も気配もなく、このまま見つからずに車まで辿り着ければ逃亡にも余裕ができる。
「……惣次」
玄関扉に手をかけた時だった。
振り返ればその場に立ち尽くす智の姿がある。
「ごめん、惣次……」
「結構やるな、クソ野郎」
呟く智の後ろには曽我の姿がある。智の身体を背後からきつく抱き込んでいる。
右手にはサバイバルナイフ。鈍色の凶器を握るその手には男の手下が見せたような軽率さはなかった。
「だけど少ーし足りなかったみたいだなぁ。あと少しで逃げられたものを。残念だったな、クソ野郎」
男の手には揺らぎもない暴力の意図が込められていた。惣次はその手と目前の光景から目を離さなかった。
「お前……どうするつもりだ?」
「はぁ? どうするつもりだぁ? 寝言言ってんじゃねぇ! どうするもこうするもお前の想像どおりのことしか起きねぇよ! つまんねぇこと訊いてんじゃねぇ! この野郎!」
放った言葉には唾を飛ばす勢いの怒号が飛ぶ。
「お前ら二人ともぜってぇ許さねぇからな! このオレを一から十まで謀りやがって! 嘘つき女に死に損ないのクソ野郎だ! お前らの言い分なんか欠片も聞くつもりはねぇ! ばーちゃんが言ってたよ、そんな奴らには徹底的に制裁と敗北を与えろってな!」
曽我は怒鳴りながら智の喉元にナイフを強く当てた。冷ややかなその感触に智が目を閉じる。肌に一筋の血が流れ、その赤い色には多大な焦燥と後悔が押し寄せた。
「やめろ……曽我、彼女には手を出すな、頼む、俺が彼女の代わりになる……煮るなり焼くなり好きにしろ、何をされても俺は抵抗しない。彼女を痛めつけるより数十倍手応えはあるはずだ。それで充分愉しめるだろ……?」
「はぁ? なんだそれ。この女のためにお前が身代わりになるってか。そんな古臭ぇドラマみたいなちんけな台詞、よく吐けるなぁ。そんなにこの女が大事かぁ? まぁ確かにそう思わせてくれる女ではあるな」
曽我は言うと腕の力を一層強くし、逃れようのない智の頬をべろりと舐め上げた。
「やめろ……」
「ああ? 何だって?」
嗤う男は聞く耳も持たず、こちらを見下ろしていた。惣次は未だ不利な状況下にある自らを地の底から腹立たしく思い、失望するしかなかった。
この男に挑み、倒せる確率は半々だった。だがこの男が勝つためにはどんな手段でも取り得るのはこの短い時間でも分かっていた。それを踏まえた上で相手に挑むには不確定要素が多すぎる。智をより危険に晒す可能性もあった。
「あーあ、どうした、急にしょげちまって。なんだか本当に憐れだなぁ、お前。しょーがねぇからこのオレがもうちょっとマシな対案を出してやるよ」
こちらが動けないと知った相手は愉悦感に浸っていた。しかし智を救えるならどんな要求でも呑むつもりだった。
「そうだなぁ、てめぇにはとりあえず素っ裸になって土下座でもしてもらおうか。ああ、犬の真似でもいいな。わんわん、ご主人様ってな。喩えるならお前もこの女も駄犬だよ。飼い主からも見放された使えねぇクズ犬だ。世の中からある日突然消えちまっても誰も困らねぇ、クソな負け犬だ。そんなクソなお前らをオレ様が時間を割いて教育してやろうってんだから、むしろ感謝してほしいくらいだね。ほら、早くやれよ、クソ野郎。次はお前が見てる前でこの女を〝調教して〟やるからよ」
「あー、それはやめておいた方がいいな」
それは突如響いた声だった。
この場にいた誰の声でもなかった。
「誰だ! てめぇどっから入ってきやがった!」
その姿を捉えた曽我の怒号が続く。
現れた声の主は惣次の背後からゆっくり歩み寄ると、その隣に並んだ。
「まぁ確かにこいつの犬の真似は俺も見てみたいが、そんなことはいくらなんでもできないか。一応身内だ」
男の飄々とした声が届く。
それに応えるように曽我の怒号が再度飛んだ。
「オレはてめぇがどこの誰だって訊いてるんだよ! 答えろや! クソが!」
「あー、なんか君、さっきからちょっと
「構わねぇ訳ねぇだろーが! 答えろや、クソが!」
「うーん……もしかして俺の言葉が通じてないのか? もしくはこんな簡単な言葉も分からないほどの馬鹿なのか……?」
「てっ、てめぇ!」
男の態度はいつまでも変わらなかった。それに翻弄される曽我の怒りが頂点に達し、その手がナイフを強く、智の首筋に押しつけた。
「クソ話にならねぇ! もうお前がどこの誰だろうとどうでもいい! どっちにしてもそっちの側の人間ってことだな! なら今ここでこの女の喉を切り裂いて分からせてやるよ! こいつをぶっ殺して死体だろうがなんだろうが無茶苦茶に犯りまくって、お前らを死ぬほど後悔させて……」
「だからやめておいた方がいいって言っただろうが」
その声と重なるように乾いた音が響いた。
同時に曽我が動きを止める。
その右足、スニーカーを履いた甲辺りに小さな赤い点が浮かび上がる。
それはみるみる大きなシミになり、立っていることもできなくなった曽我は大きく呻いてその場に崩れ落ちた。
「クソ、クソ、クソっ! 畜生、痛てぇ! こいつ、いきなり撃ちやがった!」
「だって警告はしたがお前、やめようとしなかったろ?」
曽我の絶叫が響く中、その男、本条寺晃一は優雅な所作で銃をホルスターに戻す。
歩み寄り、倒れた相手の傍に屈み込むとその顔に笑みを作った。
「それとな俺の娘の前であんまり品のないことを言わんでくれよ、曽我
曽我の耳に流し込まれたその言葉の続きは、向けられた当人にしか届くことはなかった。
だがそれでいいと惣次は思っていた。
粗暴な男はその直後顔を青ざめさせ、もう反抗の一端すら顕わしていない。
彼が今対峙する男は既に相手の現住所に経歴履歴、家族構成、その現状に及ぶまで全てを知り尽くしている。
先程までこの場で暴虐の限りを尽くしていた男を一瞬にして震え上がらせたその言葉の続きは、身内であっても聞くことにためらいを覚えるものに違いなかった。
「……惣次」
間近で響いたその声に惣次は目を向けた。
腕の中にある身体は男が崩れ落ちる寸前に抱き留めたものだった。
「大丈夫か……? 智」
かけた声に戸惑いを見せるように相手は腕の中で身動ぎをする。返事は戻らなかったが背中に回された指が惑うように微か動いてから強く、力を込めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます