予兆
赤米の稲は、白米と違い、ほとんど世話をしなくていい。植えれば、勝手に育っていく。
タモロ沼に植えた稲は、それから見る間に茂っていった。どんどん丈が高くなり、見晴らしのいい静かな広い風景は、あっという間に稲の群生で埋まった。赤米の稲は丈が高いのだ。人間がかかわり出してから、微妙に姿を変えているが、野生のものに近い。
広い沼があきれるほど豊かな稲の林になるのに、さほど間はかからなかった。赤米の稲はすごい。まるで神を見るような目で、村人は毎日のようにタモロ沼に向かい、稲が茂っていくのを見た。
「今年の収穫は多くなるな。いいぞ」
「でもこれ、どうやって収穫するんだ。タモロは浅くて舟が出せない」
「足で入ればいいんだよ。そんなことくらい何とかなるんだ」
「そうとも、難しいことはない」
新しい沼を見ながら、みんなは口々に言った。やってみるさ、というアシメックの言葉が、響いていた。オラブが引き起こしたこの苦しい難を、アシメックはこんなことで乗り超えようとしている。それが村のみんなの心にかける影響は大きかった。
楽師たちが新しい歌をいくつもこしらえた。母親たちが子供に話す話も増えた。神話ができようとしていた。神カシワナカの神話に、雄々しい族長の話がつながり始めている。
だがアシメック自身は、そういう村人たちの心の変化には、あまり気付いていなかった。少し自分に変調を感じ始めていたからだ。
稲植えを終えたころから、足元が少し揺れるようになった。歩く時つまずくことが多くなったのだ。朝目を覚ました時も、しばらくしびれたように体が動かなくなる時がある。
いつまでも若いと思っていたが、そうはいかないらしい。
しかし族長たるもの、そんな衰えをみなに見せるわけにはいかない。アシメックは人前では極力変調を見せないようにしていた。だから一緒に住んでいるソミナさえ、アシメックが時々じっと天井を見ながら立ち尽くしていることのわけに、気付かなかった。
そうやって目眩をやりすごしていたのだ。
ソミナは相変わらず、コルの世話に忙しかった。ここに来たばかりのころはおとなしかったコルも、最近はかなりやんちゃになり、時々ソミナを困らすようになった。子供はそういうものだ。コルがソミナに心を開いてきた証拠だった。いい感じだ。おれが死んでも、コルがいれば、ソミナはなんとかなる。
夜に床につくたびに、また夢でアルカラを思い出しそうになるのではないかと、不安になった。まだ死にたくはないのだ。皆が稲を刈り、どれだけ収穫が増えるか見たい。みなの喜ぶ顔が見たい。
季節は過ぎていく。ネオはもうすでにモラの家の一員となっていた。モラのお腹には、テコラの次の子が宿っていた。もちろんネオの子だ。ネオは一生、モラと暮らしていきたいという。そういうネオの心を、モラは断らなかった。まだ深いことはわからないが、男がそういうのならそうしたほうがいいと思っているのだ。毎年歌垣に参加するのも面倒だと思う方だった。
ネオもだんだんとたくましくなっていた。年の割には体が大きい。大人になりたいと強く思う子供は、早く成長するのだ。十七になったら狩人組に入りたいと言っていたが、最近は違うことを考えていた。
「タモロ沼で、稲の仕事をしたいな」
「ふうん、タモロで?」
「うん。ヤテクはオロソ沼でいっぱいだろう。おれ、タモロの稲を見ていたら、あそこで稲の世話をしたくなった。魚釣るのもおもしろいけど」
「うん、ネオがそうしたいんなら、そうしたらいいわ」
モラはいつも、静かな声で、ネオに賛成してくれた。それがいいのだ。そこが好きなのだ。モラのほかの女は、こんな声で、こんなことを言ってくれない。
ひとりの女にこだわることを、今もサリクにからかわれることがある。ほかにもいい女はたくさんいるのに、もったいないぞと。だけどネオは、本当に、モラのほかの女と交渉するのは嫌だった。
「ネオがそうしたいのなら、そうすればいいわ」
ずっと一緒にいたいというと、モラはそう言ってくれる。そういうモラがいい。ほかの女なんて嫌だ。
ネオは、もう自分はこれでいいと思っていた。少しくらいほかと変わっていても、かまわないんだ。オラブみたいにみんなに迷惑かけるわけじゃない。みんながそうしてるからって、おれはやっぱり、モラのほかの女のところにいくことなんて、できない。
こんな自分を、みんなは時々変な目で見るけど、アシメックだけは暖かな目で見てくれる。
「変わった奴だな。だがいいやつだ。おもしろい」
ネオは、アシメックのその声が、心底好きだった。あんな男になりたい。すっごくいいことをして、あんないい男になりたい。
季節は夏を越え、秋になった。サリクはまた、コクリが咲いたことを、アシメックに知らせに来た。一度言われてから、必ずそれを守るようになったのだ。アシメックは、コクリの花を持って、嬉しそうに自分の家を訪れてきたサリクを、今年ばかりは抱きしめたいほどだった。稲刈りだ。新しい稲刈りが始まる。
オロソ沼には稲舟を出し、いつもと同じやり方で稲を刈らせた。それがあらかた終わったあと、アシメックはみんなをタモロの方に導いた。
タモロはオロソよりずっと浅い。舟は使えない。みんなは沼の中に足をつけ、稲を刈っていった。腰に茅袋をつけ、刈った稲の穂先をそれに入れていくのだ。それを考えたのはセムドだった。
舟の上に稲を置くことができないからには、新しい工夫が必要だ。そしてそういうことを考え付くものは必ずいる。
やってみれば、必ず何かが見つかるのだ。
楽師たちの労働歌に合わせながら、みんなはリズムよく稲を刈っていった。その様子を、アシメックは岸に立ちながら満足そうに見ていた。涙がにじんでくるのは、年をとったからなのか。
これでいい。これでいいんだ。おれがいなくても、かならずみんなはなんとかなる。
その年とれた米の収穫量は、去年の倍だった。壺の数が間に合わないほどだ。エルヅは数えながら、半狂乱になるほど喜んでいた。
「これだけあれば、ヤルスベもなんとかなるよ!」
その様子を見ながら、シュコックは稲蔵を増築しなければならない、と嬉しそうに言った。隣にいたアシメックもそれに同意した。
明日は収穫祭だ。みなの前で踊らなければならない。アシメックはそれに、少し不安を感じていた。目眩を感じることが、最近頻繁になってきているのだ。無事にやれればいいが。
稲蔵にいっぱいに並んだ米の壺を見渡しながら、アシメックは隣のシュコックにぼそりと言った。
「シュコック」
「なんだ?」
「おれが死んだら、次の族長をたのむ」
シュコックははっとして、アシメックの顔を見た。
髪に差したフウロ鳥の羽が少し傾いていた。頬の化粧も少し剥げている。気づかなかった。アシメックは疲れている。
シュコックは、しばし答えられなかった。だが、何かを言わなければならないと思った。アシメックの目が真剣だったからだ。
「……わかった」
シュコックは静かに言った。
収穫祭はいつもよりずっと盛大に行われた。酒造りの女が喜んで、いつもよりずっと多い酒の壺をだしてくれたのだ。みなが自分が蓄えていた栗や干しグミなどを出しあい、みなで大いに喜んだ。
かつてないほどのたくさんの米がとれたことに、みなは有頂天になっていた。あんな喜びはない。これで、どんなにヤルスベが無茶な要求をしてきても、対応できる。みんなの食べる分も増える。
アシメックはすごい。みんなのためにやってくれたのだ。
楽師は新しい歌を何度も歌った。それに合わせて、自分も歌い出し、踊り出すものもいた。酒に酔って、隣の村人と抱き合って泣きだすものもいた。
アシメックはその様子を見ながら、踊りの準備をした。化粧を塗りなおしてくれるソミナの手を少し煩わしく感じるのは、腕の先が少ししびれているからだ。だが、そんな様子は微塵も出してはならない。
「ようし、いくぞ!」
いつもより大きな声を張り上げ、アシメックはみんなの前に躍り出た。一瞬ふらついたが、片足をすぐに前に出してごまかした。
フウロ鳥の羽をふんだんにつけ、美しく装った男が、広場の真ん中に出て、神のように飛び上がり、舞った。それが一瞬みんなの目に、本当に彼が鳥のように飛んでいくかに見えた。
アシメック!
誰かが叫んだ。サリクの声だ。それはわかった。あいつはいつも、あんな声でおれを呼ぶ。まぶしそうな目でおれを見る。信じているのだ。おれを。裏切るわけにはいかない。
アシメックは腕の先のしびれを感じながら、いつもより派手に手足を動かし、舞った。途中で、一瞬意識が飛ぶことがあった。空が見え、はるかに遠いところに鷲を見たような気がしたが、それは幻影であったかもしれない。
楽が終わり、最後の所作を終えると、アシメックは岩のように広場の真ん中にうずくまり、しばらく動けなかった。足がいうことを聞かない。神よ、と彼は心の中で叫んだ。するとその次の瞬間、体が動いた。
まるで誰かが自分を動かしているかのように、アシメックは飛び上がるように立ち上がった。そしてはやし立てているみんなに手を振って挨拶しながら、下がった。
人の輪の外に出ると、目眩が落ちてきた。だが倒れてはならない。走り寄ってきたソミナを見ながら、彼は自分を律した。一瞬腰が下がった。だが再び立てた。
そんな彼の様子を、シュコックが離れたところから凍りつくような目でみていた。
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