第九話 触れられない と 触れられる

 二月のある日のことだった。


 この日もいつもと同じようにアラームで目が覚めた。アラームを止めようと目覚まし時計に手を伸ばすも、手が触れることはなく、目覚まし時計をすり抜ける。私はまだ夢を見ているのかと、止まらない違う止められないアラームを放っておいてリビングへつながるドアノブに手を掛けたはずだったが、これも触れることなくドアを貫通した。


 はっきり言って、というかどのように言おうが意味がわからない。どうしてこのようなことが起こっているのか。


 考えながらカーテンに触れようとしてみたり、スマホを手に取ろうとしてみたりしても、物に触れられなくなっていた。このときの心情を表すなら“不安”の二文字に尽きる。


 同時に私が助けを求めたのはシオンではなかった。今日まで一度も思い出すことなかった初めて遅刻した日の夜に見つけたカフェで出会ったお姉さんだった。


 あのお姉さんなら何か知っているんじゃないかと、何かわかっていたんじゃないかと思ったからだった。


 初めてカフェを訪れた、見ず知らずの私にあんなの言葉を残して消えていった扉の向こうには何もなかった。ただただ真っ黒な空間が広がっているようにしか見えなかった。それでも、その扉の先に進むお姉さんからは不安の色は見えず、むしろ喜んでいたように感じた。


 さらに記憶を掘り返していく。


 ある言葉をマスターに伝えた後、鍵を受け取る前にマスターと何か話していた気もするが、あいにく私には聞き取ることができなかったのだろう。どんな言葉をマスターから聞き、どんな言葉を返していたのか思い出せない。


 ただ、お姉さんは言ったんだ。『闇は開けました』だけでは、鍵は貰えず、扉は開かない、他の条件を満たす必要があると。その条件について、私は聞いていないからわからない。


 もっと記憶を探ると、思い出したことがあった。


 お姉さんは『いつもの』とマスターに言ったが、いただいたカフェモカには一口も飲むことがないままだった。そして鍵をもらい扉に消えていった。


「もしかしたら、あのカフェに行けば……」


 何かしら手掛かりが入る可能性に懸けて、カフェへ向かうことにした。家の玄関ドア、触れることできず通り抜け、人を避けながらカフェまでの道を急ぐ。人とぶつかりそうになっても通り抜けてしまうが、相手には違和感も与えないらしい。さらに言えば、アパレル店舗のショウウィンドウに私は映らないことも新たな発見だったが、とにかくこの違和感の正体を何とかしたくて、ひたすらにカフェを目指す。


 十時過ぎにカフェの入り口に到着した。


「こんにちは」


 ドアを開けて中に入ると、マスターが気づいて、前と同じカウンター席に案内してくれた。


「何になさいますか?」


「デミグラスハンバーグシチューセットとコーヒーお願いします」


 マスターの落ち着いた雰囲気に何故ここへ来たのかも忘れ、初めて来たときと同じものを頼んだ。


 私の注文を受けたマスターはカウンターの後ろにあるドリップコーヒーをカップに注ぎ、カウンターの上に置く。


「ご注文のコーヒーです。ハンバーグはもう少しお待ちください。それで、今日は何か慌てた様子でしたがどうかなされましたか?」


 マスターからの問いかけで、本来の目的を思い出し、このカフェに来るまでの物に触れられない事件(アキ命名)の話をした。


 私が余すことなく起きた出来事をすべて話し終えたとき、マスターは笑い出した。

 「マスター、私の話に笑うところありました?」


「はは、すまないね。君、物に触れられないなんて話したけど、ここの入り口のドアを開けて入ってきたでしょう。だから可笑しくてね」


 私は一瞬、マスターは何を言っているのかわからなかった。私が、ドアを開けて入った? 通り抜けてきたではなく? 不思議で仕方ないというのが顔に出ていたのだろうか。


「そんなに不思議に思うなら、ドアを触ってごらん」


 マスターに言われるままカフェの出入り口のドアの前に立ち、ドアノブに手を掛けた。すると、マスターの言う通り、私の手はすり抜けることなくドアノブに触れることができた。今まで見ていたのは夢だったのだろうか。


 カウンターに戻るとデミグラスハンバーグシチューが置いてあり、夢から覚めたのなら食べられるとナイフとフォークを持とうして持てなかった。


「持てない……、なんで……」


 ここまでくると違和感で済まされなくなっていた。自分の身に何が起きているのか、何故触れられないのか、何故カフェのドアだけが触れられたのか。わからないことばかりで怖くなった。不安が、恐怖が渦巻いて、目の前が真っ暗になる。自分が立っているのか、座っているのか。今いる場所は、本当にカフェなのか。感覚がなくなっているように感じる中で、お姉さんの声が聞こえた。そんな気がした。

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