一度きりの全てを

幸まる

人と竜

それは一瞬の油断だった。


捕らえた魔獣に従属契約を課すための期間中、ただ一度、一瞬の油断。


二ヶ月間飲まず食わずで、弱りきったその魔獣に、最後の決断を促そうとした矢先のこと。

かつえる魔獣を前に、油断するべきではなかった。

しかし、生気を失いつつある魔獣の細めた眼の奥に、恐ろしくも美しい深紅の輝きが揺れるのを見て、ほんの僅か、意識を持っていかれたのだ。


水の入った器を持っていた魔獣使いディオンの腕を、その魔獣は突然グワと開いた口で齧り付いた。

大きく開けば、人間の頭くらいは余裕で食い千切ることの出来るあぎとだ。

その一瞬で、ディオンの腕は失くなるはずであった。


しかし魔獣の先鋭な牙は、ディオンの腕の皮一枚、ギリギリに喰い込んで止まった。



「人間。この腕を食われたくなくば、今すぐ私を放せ。そして金輪際、私に近寄るな」


ディオンは、間近で放たれた人間の言葉に驚いた。

魔獣の会話は、基本念話であるとされるが、人には聞くことが出来ない。

しかし今、目の前の魔獣は確かに、人の言葉を発して訴え掛けた。


目の前の魔獣。

黒竜。

灼けるような夕日に照らされた、巨躯。


その硬質な鱗肌は、漆黒の夜空に塵のような光弾く星を流し、何者をも引き裂く爪は、冷たく冴える月光のよう。

鎖状魔術によって黒い土に縫い付けられても尚、黒竜は、その身体に纏う硬質に尖った気配を失くしていなかった。



……欲しい。

この黒竜が、どうしても。



五年前、一目見た時から心奪われた。

従魔として我がものとする為、挑み続けて何度死にかけたことだろう。

ようやく鎖状魔術に抑え込み、契約の瞬間はすぐ目の前にあるというのに、どうして今更手放すことができようか!



次の瞬間、ディオンは咥えられた右腕を、力一杯牙に押し込んだ。


「がぁぁっ!!」

「!? 何をっ……!」

牙が突き立った筋肉質な腕から、鮮血が溢れ出す。

血は牙を伝い、その匂いは竜の喉の奥へ流れ込む。

「この腕をくれてやる! 食い千切れ!」

ディオンが張り上げた声に、黒竜は血の色の目を大きく開く。

「食え! この腕が契約の贄だ!」

ディオンが更に力を込めて腕を押し付ける。

こめかみに筋が浮き、脂汗が流れた。


“契約の贄”

それは魔獣が従魔契約をする際、あるじから与えられる最初の餌だ。

それを飲み込んだ時、契約は成される。


黒竜は鎖状魔術に縫い付けられて二ヶ月、餌を拒否し続けてきた。

しかし、ディオンの血が舌に流れ着き、その匂いが喉の奥へ濃く流れ込むと、極限の空腹に食の本能が一気に膨れ上がった。


「喰らえぇっ!」


ディオンの叫びに黒竜の理性は焼き切れ、顎はディオンの右腕を咥えたまま、勢いよく閉じられた。



夕日に赤く灼かれた崖上に、ディオンの叫びがこだまする。

決して下せないと言われ続けてきた竜を、初めて魔獣使いが下した瞬間だった―――。




◇ ◇




山からの下り道、茂る緑の間から故郷である魔獣使いのさとを見下ろし、ディオンは安堵の息を吐く。

大木の幹についた右手は、型落ちの魔術義手だ。


「ようやく帰ってきたな。お前を連れ帰ったら、皆驚くだろうな」


ディオンが黒竜に執着し続けていたことを、郷の仲間は皆知っている。


「美味そうな人間が多そうだ」


太い枝を撓らせて止まった黒竜は、クワと大きく口を開けて鋭い牙を見せたが、どうも欠伸をしただけだったようで、すぐにその口を閉じた。

ディオンは下から軽くめる。


「食うなよ」

「お前が人間の味を私に教えたのだよ」

「だからだ。お前が食っていいのは、俺だけだ」


黒竜の喉が、低く鳴る。

従属契約が成された以上、主人の命令は絶対だ。



食われた方の義手でなく、生身の左手を無造作に伸ばすディオンを、黒竜は僅かに目を細めて見つめる。

あの日飲み込んだディオンの右腕は、一年近く経った今、既に血肉となって身体の隅々に深く馴染んだ。

熱く脈打つ、この胸の中心にも。


あの煮えるほど甘く熱い血肉を、いつか、全て摂り込む。


それが抗い難い魅力であるからだろうか。

従属という屈辱的な契約は、黒竜の中で既にその意味を変えていた。



黒竜は枝をギシリと鳴らして首を下げ、こちらへと伸ばすディオンの左手の指先を、不意に咥えた。

ディオンが不敵に笑う。

皮膚をギリギリ突き破らない程度に喰い込んだ牙。

その先、ほんの僅か向こうに感じる血潮。


人と竜。

主従の関係になった、ふたりにしか成し得ない特別な距離感。



「いつか、喰らってやる」


低く言った黒竜の声は、人間のそれとは似て非なる響きだったが、そこには確かな愛着が滲む。


「ああ、いつか必ず、お前に俺の全てをやる」


ディオンは指に当たっていた黒竜の牙を握り、自分の頭よりも大きな黒竜の顔を引き寄せた。

間近に感じる、刹那の息遣い。



強く打つ鼓動は、きっといつか交わる。

例えそれが、ディオンの死と共に在っても。


それこそが、ただ一度きりのふたりの契りだ。




《 終 》

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