第4話


 夜の十一時を過ぎると、当たり前だが円神明神社から帰るバスはもうなくなっていて、徒歩で帰路につくしかなかった。

 偃月にあれやこれや資料を見せられたが、大昔の日記なんて読むことすらできなかった。解説されてもまったく分からず、頭に残っているのは死にかけたのにも関わらず、偃月の話に熱心に耳を傾ける清吉の姿くらいなものだった。

 見るからに不機嫌になった偃月と黙ったまま歩いて、空腹を感じながら田んぼ沿いの道から住宅街に入った辺りで「ちょっといいかな」と自転車に乗っていた男に声をかけられた。


「その制服、高校生だよね」


 制服姿の男。頭がぼーっとしていて一瞬、理解できなかったが、警察だった。


「あ」


 確かにこんな時間まで外を制服でうろうろしていれば声をかけられても当たり前だ。


「おうちの方に連絡するからちょっと交番まで一緒に来てくれるかな」


 威圧的ではない。若い、柔和な雰囲気の警察で、考えるのも面倒になり、付いていくかと偃月を見た。だが、偃月はじっと警察の顔を覗き込んでいる。


「おい、偃月……」


 どうせ補導されても構わない。母親が迎えに来るだけだ。平謝りすれば許してもらえるだろう。問題は美織だ。中身は偃月なので叱られても罵られても響かないだろうが、経歴に傷ができてしまう。

 偃月だけをとりあえず逃がすか。それとも妹とか嘘をついて母親にも強要して……。

 そうこうしている間に警察が踵を返した。


「……は?」

「簡単な催眠だ」

「は?」

「役人など真面目な輩はかかりやすい」


 偃月は先に歩き出す。


「……お前、美織の家に帰る気か?」


 背中に問いかけるが当たり前のように無視される。

 腹を立てても仕方がないことはもう身に染みて分かっていた。

 その後ろをついていくが、美織や、迅の家とは反対側に路地を曲がった。


「おい、そっちじゃないだろ」


 偃月は無視してずんずん進んでいく。

 そして曲がり角にポツンとあるコンビニにたどり着いた。


「は?」


 偃月は迷いのない足取りでコンビニに入って行く。

 らっしゃいませーという店員の声。偃月は買い物カゴを持つと、すぐに「持て」と命令してきた。


「何だよ」

「善蓮は甘いものが好きだった」

「……俺はそんなでもないんだけど」

「うるさい」


 偃月はプリンやらフルーツサンドやらを買い物カゴにどんどん入れる。


「おい、払うの俺だろ」

「厳密にはお前の父親の遺産だ」

「それはそう」


 ぼこぼこに殴られながら育った身としてはこれくらいはもらって当然だと思っていた。

 偃月が甘いものを買う傍ら、迅もカゴにカレーと缶の緑茶を入れる。カゴの中は偃月がいれたスイーツ類で埋まっている。何に使うのか分からないが歯ブラシまで入っていた。


「俺、甘いもの食わないぞ」


 そう声をかけても無視している。

 それならと勝手にレジにカゴを持って行くと、グミやスナック菓子やらを後からどさどさ追加してきた。それを咎める意味で睨むと「あと、アメリカンドッグ一本」と店員に注文する。

 抗議は止めることにした。学生服で揉めて、また警察を呼ばれたら面倒だ。催眠がどうのこうのという問題ではない。疲れた。


「……アメリカンドッグ、二本にしてください。あと、カレーだけ温めで。袋お願いします」


 大学生くらいの男の店員が無表情でカレーをレンジに入れ、アメリカンドッグを二本用意してくれる。

 電子決済で支払いを済ませた。コンビニでの買い物にしてはかなりの出費だ。


「まったく……」


 甘いものとスナック菓子の袋と、カレーとアメリカンドッグの袋。

 店の外に出ると、偃月は店の外にあるベンチにどっかり座った。


「足閉じて座れよ」


 小言をいいながら隣に座る。


「うるさい。アメリカンドッグよこせ」


 紙の袋のままケチャップとマスタードを添えてアメリカンドッグを手渡すと、偃月はすぐに袋を剥いて、適当にケチャップとマスタードをかけて食べ始める。

 迅も空腹だったのでカレーを膝に置いてふたを開けた。アメリカンドッグを袋から出してライスとルーの間に置く。


「……何だその食い方」

「なんでもいいだろ」


 アメリカンドッグにカレーをつけて食べる。


「偃月にもカレーよこせ」

「美織の体でなにいって……あ」


 勝手に食いかけのアメリカンドッグを迅のカレーにつけてバクっと食べる。


「……偃月はケチャップとマスタードでいい」


 口の周りは汚いし、勝手に食っておいて文句をいうなと思ったがもう何でもいいか、と。諦めて迅はアメリカンドッグを齧りながらカレーを食べた。とにかく何だか疲れていた。

 黙って食べていると、偃月は勝手に袋からフルーツサンドを出してむしゃむしゃと食べている。

 考えなければならないことばかりなのに頭が働かなかった。

 カレーを半分ほど食べてぼーっとしていると「美織の親は今、家にいない」と偃月が袋に入っていた使い捨てのウェットティッシュで口を拭った。


「だからとりあえず、お前の家に今日は泊まって、明日登校前に必要なものを取りに戻る。美織の家の方が遠いし、面倒だ」

「あ……あ? は?」


 偃月が立ち上がる。


「泊まるって……」

「歯ブラシも下着も買ったぞ。あと、化粧品の類。服は貸せ」

「は?」


 袋の中を確認すると確かに外泊用に小分けになった化粧品や、下着などが入っている。菓子に紛れて分からなかった。


「いや、だめだろ……さすがに」

「善蓮はモテにモテたが婦女子に手を出すようなことはしなかった」

「俺だって同意なしに何かしたりしないっつの……」


 二人になった時も、雰囲気でそういうものを感じても一応はきちんと確認は取っていた。


「それなら構わないだろうが。ほら、家に連れて行け」


 偃月は店の前のごみ箱に食べ終えたアメリカンドッグの棒やフルーツサンドの袋を丸めて捨てた。


「……これ食い終わったらな」


 早くしろと急かされながら、ぬるくなったカレーを口に運んだ。










 昨日の夜は、とにかく、細かいことを考える暇もなく、風呂に入って気づいたら寝ていた。ぼさぼさの頭で朝起きて髪を乾かさずに寝た報いを受け、なんだか寝違えたように首が痛い。よく辺りを見たら、ベッドは偃月に占拠され、自分は床で寝ていた。

 美織の寝顔……と思うには寝相があまりにも豪快過ぎてため息をつく。

 昨日のことを夢だとさえ思わせてくれない。

 髪を撫でつけながら部屋を出た。母親の寝室からは何か気配がする。昨日の夜は迅の帰宅を確認すると、親なりに何かいいたげにもじもじしていたが、一緒に帰ってきた美織を見て慌てて自室に引っ込んでしまった。

 部屋の前で「母さん」と声をかける。


「飯、作ったら冷蔵庫入れておくから」


 いつも通りそれだけいって、階段を下りた。

 洗面所で顔を洗い、髭を剃って、簡単に保湿した。髪を濡らして直し、キッチンに行く。

 コンビニスイーツだらけの冷凍庫から食材を出して、朝食と、弁当の用意をした。

 三人分の食事を作りながら、少し死んだ父親の顔が浮かんだが「飯か」という美織の声で粗忽な物言いの偃月にかき消される。

 迅の部屋着を着た美織……と思うにはやはり仕草が荒い。ため息をつきながら肩を回したり、首を回したり。まるでおっさんではないか。


「……お前、今日どうするんだよ」

「どうって。美織らしく学校に行くが」

「無理だろ」


「迅くん、ご飯作れるの?」


 ぞわっと鳥肌が立った。


「さすがですねえ」


 語尾に笑みを含んだ言い方……。

 つい、偃月を見る。


「似てるだろう?」


 似ていた。いや、そもそも声も体も本人なのだから似ているも何もないのだが。

 ふんぞり返って「偃月は鮭ならムニエルが食べたい」と難題をぶつけてくる。


「時間かかるから無理」

「偃月の弁当もほしい」

「はあ」


 美織を助けるためには、善蓮とかいう男の記憶を取り戻さなければならない。

 昨日、資料を見て空回りした。

 あとは何とかという名前の、侍らしい男。

 いや、やくざだったか。

 その男に会ってみるしかない。


「なあ、昨日いってたやつ……どこにいるんだ」

「どこにいるも何も。考えてみたら、宇田之孝が多分景真だな」

「宇田……? 宇田って、宇田?」


 英語教師の名前だった。

 三十手前で、溌溂としていて、美織でさえ「宇田先生ってきれいな顔だよね」と褒める整った顔の持ち主だ。女子生徒と付き合っているという噂も一時期あったほどの人気教師だが、迅は選択授業で英語を取っていないので会うことがない。通常授業の英語の教師は担任で、顧問で、剣道を通じて父とも親しかった四角い顔の増田だった。

 美織は宇田の授業を取っているので、偃月の頭の中にも情報として彼がいたのだろう。


「何で分かるんだよ。宇田だって」

「アイツの授業はなかなかに面白くてな。少なくとも美織はそう思っている。世界中の色々な歴史が頭の中にあって、その知識量は歴史の教師を簡単に上回る。それをまるで直接見聞きしてきたように話すから人気がある……みたいだな」

「だから?」

「景真は善蓮がいなくなってから海を渡った」

「……随喜みたいな話か? それとも、何だ、不老不死とか」


「不老不死は馬鹿しかやらん。景真も確か、あんな顔だったし、自分の皮と頭の中身を別物に移し替えたんだろう」

「そりゃ……ずいぶん、悪趣味な……てか、それは、不老不死じゃないのか」

「他人の死肉に宿るんだ。不老不死はほぼ禁呪だ」

「……死肉云々ははよくて、不老不死はだめなのか」

「不老不死は永遠に生き続けるが、皮を使う場合も、随喜の場合も、休眠期がある。その休眠期中に魂のおりが流れて行く。そうしないと余程、不老不死に整合性がない限り頭がおかしくなるからな」


 迅は倫理観の話をしているのだが、偃月には伝わらなかったらしい。

 だがつまり、倫理観というより、そういう仕組みだからダメという単純な話らしい。どう考えても自分の体で生き続ける方が他人の死体を使うより健全だろうに……。


「術としては随喜の方が高度だ」

「朝からキモい話ありがと」

「遠慮するな、もっとえぐい呪いの話もあるぞ」

 無視して出来上がった朝食を人数分に取り分けた。

「……そういえば、善蓮は、不老不死だったのか?」


 かなり長寿だと聞いた気がする。

 偃月は鼻で笑った。


「馬鹿か。不老でも不死でもなかったぞ」


 偃月からの罵倒も、もはや耳に馴染み、神経を逆撫ですることもなくなっていた。

 罵倒は聞き流せたが、では何百年も生きているという話は何だったのか。善蓮も死体を使ったり、誰かに生み直してもらったりしていたのだろうか。


「善蓮は単純に、老いを緩やかにしただけだ」

「……どうやって?」

「さあ。善蓮は天才だった。だから、まあ、プライドが高かった道満の力を上回って殺されそうになったほどだ。偃月らが頭を悩ませたところでそのやり方のとっかかりすら掴めないだろうよ」


 盲目的にすごいすごいと偃月がほめたたえる男。

 老いを緩やかに。偃月は一言でそう片付けるが、科学的に進歩してきた現代でさえシワ一本消すのに時間と金がかかると聞く。ましてや、寿命を何百年も引き延ばすような方法があったなんて信じられない。


「実際、不老不死になった人とかいたのか」

「いた。まあ、例に漏れず皆病んで、岩になるか、面倒な悪鬼になって善蓮がスバっと退治してきた」

「岩……悪鬼……」


 リビングのテーブルに二人分の朝食をセットする。

 母親の分は冷蔵庫に入れた。客用の食器はないので深めの皿に偃月の分の白飯を盛り、同じ器にみそ汁もよそった。

 盆に載せて運び、すでにおかずの前で食べる準備を整えている偃月に山盛りの白飯と具が多めのみそ汁を渡した。昨日の食事を思い出すと、並みに盛りつけるだけではおかわりおかわりとうるさそうだった。

 とはいえ、美織の体で大量に食べて、太ったらさすがに体が治った時に不憫だ。


「お前、美織の体なんだからな。毎食毎食山のように食うなよ」

「食ってるのは偃月だ」

「は?」

「偃月が食って、この体は休眠中というか説明が面倒だ……とにかく木偶の棒が気にする必要はない」

「太ったりとか……後は、ほら……その」

「ごちゃごちゃうるさいぞ、思春期か。好きな女と朝飯を食えるんだから黙って食え」

「……中身バケモンだろ……」


 その後は特に会話もなく朝食を終えて登校の準備を始めたのだが、準備が進むにつれて本当にこの化け物を学校に連れていくのかという漠然とした不安のような、絶望のようなものが押し寄せてきて玄関で立ち止まる。


「おい、遅刻するぞ」


 本当にこんな状態の美織を連れて学校へ行くのか。

 よく見れば布でくるんだ偃月の本体を背負っている。

 それを見た瞬間、背中に何かずっしり重たいものが乗ったように感じた。


「無理だ」

「は?」

「学校なんか行ってる場合かよ」


 英語教師の宇田が本当に探し人だったとして、美織を何とかできる可能性はあるのだろうか。迅が善蓮の記憶とやらを思い出せる方法を知っているのだろうか。もしも空振りだったらどうすればいいのだろう。

 急にぐるぐるいやな考えが頭の中を占拠し始める。

 血だらけでぐったりしていた美織。

 偃月が体を動かしているだけで、本来の彼女は今、傷だらけで死にかけている。


 どうしてあんな化け物が道場にいたのか。

 サボった罰だろうか。

 なんの目標もなく、ただぶたれることが恐ろしくて、父が憎くて剣を振ってきた。

 怒鳴り、殴ってくる父親が怖かった。憎かった。手を傷だらけにしながら歯を食い縛って剣を握ってきた。

 武士道がなんだ、志なんてものはない。ただ、怒鳴られることが苦痛で、殴られることが嫌で、命令を聞いてきた。重いだけの道着や防具、剣になんの意味もない。

 サボって、道場へ行った。


 父親が生きていたらそれこそ、烈火のごとく怒り狂ったに違いない。

 それこそ迅を殺す勢いで……。


「美織がこんなことになったのは俺が親父を怒らせたせいじゃ」


 途中までいいかけて偃月がずいっと顔を近づけてきた。

 ぎょっとして口を閉じると、次の瞬間に思い切り足を踏まれた。


「いっ!」


 びっくりして足を引くと「馬鹿か」とあきれられた。


「運が悪かっただけだ。どこかに術者がいた可能性もなくはないが、死人に呪われるなんて話は滅多にない。だが、全くない話でもない。たいてい、心臓が悪いだの、事故だの……そうやって忘れられるのが呪いだ。あのまま二人そろって血だらけで死んでたら語り草になる。そんなのは呪いなものか、そもそも、お前の親父が呪ったんだとして、なんで女の化け物なんだ。あり得ないだろ。誰かが呼び出したって可能性もなくはないが、呪いなわけあるか。おおかたお前らが明るいってのにイチャイチャしてるところに嫌気がさしたんだろ」


「い、イチャイチャって……ふざけるな、そんなことで……」

「ふざけてない。術者がいようが、漂っていた悪霊をひっかけただけだろうが、とにかく運が悪かった、それだけだ。まあ、偃月がいたのは幸運のうちだが」


 偃月がやや血のシミの残る制服をしわを伸ばすように叩き、胸を張った。


「どう考えても偃月がいて幸運だろう?」


 確かにと素直にうなずくことは難しいが、違うと否定することもできない。少なくとも美織が生きているのは、偃月がいてくれたからだ。こんなわけのわからないことになっても、偃月がいたからある程度、解決のめどがついているともいえる。

 口も態度も悪い。それでも、そう、確かに美織のことだけを考えれば幸運だ。


「わかったならいい。さっさと学校に行くぞ」


 不安しかない、という気持ちに変わりはないが、さっきよりはつっかえのようなものが取れていた。






 すっかり失念していたことがある。

 無断で部活をサボったことだ。

 登校して早々に呼び出しを食らい、生徒指導室で増田にねちねちと叱られた。

 増田は迅の父親と旧知の仲らしく、何かにつけて父親の話で迅を鼓舞しようとするが、全くの逆効果だと気づかないあたり、自分の説教に酔っているとしか思えない。部活中も、今も、迅は時間が過ぎるのをただ待っていた。さすがに朝礼までには解放されるだろうが、増田に呼び出しを食らったために偃月と早速離れ離れだった。

 勝手に宇田に接触して変な事態に陥ってなければいいが。

 迅はあまり宇田を知らない。もしも、景真ではなかった場合、こんな変な話をして授業を取っている美織の評価が下がっては困る。せめて美織のふりをしてくれたらいいが、偃月があの調子で話しかけてスカを引いたらかなり痛い。


「失礼しまーす」


 ノックもなく指導室の扉が開いて反射的にびっくりして肩が跳ねる。

 三年生だろうか、背が高く、長い茶髪の女子生徒が堂々と入ってくる。

 びっくりするくらいはっきりした茶髪だ。吊り上がった目元と相まって狐を連想させる。


「増田センセ。職員室で仕事しなくていいんです? えっと、課題のプリント見たりとか? とか、ね」


 後ろで手を組んで、にこにことしながら、唐突にそんなことを提案する。

 何なんだ、この人。そもそも、こんな明るい茶髪、一発で指導ものだろう。

 だが、増田はがらりと立ち上がるとそのまま黙ってふらふらと生徒指導室を出て行った。


「え」


 その増田の姿が昨日の夜の警察の様子と重なる。

 まさかと思ってその女子生徒を見ると、彼女は「はーい。勿来です」と顔の横で両手を広げて笑顔で挨拶してきた。

 勿来。

 昨日、そういえば聞いた。


「よう、い……いや、鬼……? だっけ……」

「元々は邪鬼ってやつ。狐の鬼だよ。怖いでしょ? でも、景真様がかっこよくて改心したから安心してね!」

「狐の……お、鬼?」

「うん」

「妖怪、とかじゃなく?」

「妖怪はお話だよ」


 勿来がすねたように口をとがらせる。


「本当に覚えてないんだ。あたし、善蓮様も好きだったのに」


 あからさまに肩を落とす。

 ここまでがっかりされると記憶がないことが申し訳なくなってくるが、迅に落ち度はない。


「……その記憶、取り戻したいんだけど」

「偃月から聞いたよ」


 勿来は「うーん」と後ろで手を組み、もったいぶる。


「そんなことよりさ、勿来がこんなかわいい格好してることとか気にならない? 鬼なのに女子高生みたいな」

「さっきの催眠術みたいなやつ使えるんだから、どんな格好でも平気じゃないのか」

「うわ。絶対、善蓮様じゃないね。善蓮様だったら『わあ、すごいね』『勿来君、すごく似合うよ』とかあまあまに褒めてくれるもん」

「……悪かったな……」


 善蓮のひととなりというのも、思えば全く教えられていない。すごい陰陽師だったということ以外、情報らしい情報はなかった。


「で、お前が本当にいたってことは、やっぱり宇田が」

「あ」


 勿来が振り向いた。指導室の扉がガラリと開く。

 そこから顔を覗かせたのは美織……ではなく、偃月と、その後からぬっとスーツの男が顔を出した。

 七三に分けられた真面目そうな髪型。垢抜けた顔の教師、宇田だった。

 偃月が勿来をちらっと見て、嫌そうに目を細め、指導室に入ってきて迅の隣に立った。

 宇田も黙って入ってくると後ろ手に扉を閉めて鍵をかけた。そして勿来に向かって手を振った。

 その瞬間「ええ」と嫌そうな声を残して勿来の姿が消え、影が揺らぐようにして宇田の手首に巻き付いて、黒い輪に変わった。


「勿来は話の腰を折るので」


 宇田はため息をついて、迅を見つめた。

 それから偃月を見て、突然眉間に深いしわを刻む。


「偃月。まず俺を景真と呼ぶんじゃねえ」


 偃月を指さしてそうがらがらと低い声を出す。

 偃月は肩をすくめる。


「悪いか?」

「いらん勘繰りを受けるだろうが。そもそも、浅野の顔で『おい景真』なんて口を利くな」

「知るか。それより無頼のくせに教師とはな。からかい甲斐があって面白いぞ」


 宇田の、顔に似合わない粗野な話し方に面食らっていると、眉間のしわを更に深くして眉と目の距離を近くした険しい顔をこっちに向けてくる。


「あんたからも何か言ってくれ」

「え」

「――と思ったが、こりゃ、本気で記憶がねえな」


 宇田は「はあ」とため息をついて指導室の椅子にドカッと座った。

 それを見て偃月が「はは」と馬鹿にしたように笑った。


「お前、その『素』をよくもまあ隠してきたな。この娘の記憶の中のお前はもっと好青年だったぞ」


 そうだ。迅も思った。

 宇田はどちらかといえば、爽やかで、どちらかといえば生徒が何かやらかしても困った顔でにこにこしている、いわゆる「怖くないタイプ」だった。

 だが、目の前の宇田はどう見ても一昔前の不良風で、不機嫌が顔に出ている。


「人畜無害な優男の方が女にモテるだろ」

「それが人の師のいう台詞か、全く下卑た男だ。生徒も食ったのか」

「馬鹿いえ。この顔だぞ、選び放題だってのに乳臭いガキなんか食うもんか」


 下品な話で偃月と宇田がケラケラ笑っているが、内容は最低だ。

 黙っていることしかできずにじっとしていると「で?」と睨まれた。


「浅野は何で死にかけてる?」

「……昨日、道場で襲われて……その、化け物というか……」

「邪鬼だ、邪鬼。実体まで持ったな」


 偃月が腰に手を当て、あらましを宇田に説明する。

 宇田は頬杖をついて聞きながら、途中で「いや、無理だわ」といった。


「え、無理って」

「善蓮サマなら奇跡を起こせたかもな。でも、一介の陰陽師には無理。お手上げ。そんなん、ほぼ蘇生だし」

「じゃあ、その……善蓮の記憶が俺にあればいいんだよな」

「てめえ、教師に向かって『よな』じゃねえだろ」

「……いや……」

「は?」

「……すみません」


 謝ったタイミングで予鈴が鳴った。


「はあ。もういいわ。教室行け」

「でも」

「何か考えておいてやる。散れ散れ」


 しっしと手で払う仕草で指導室から追い払われた。


「あ」


 扉を開けると「浅野さん」と宇田がそわっと肌が粟立つような少し高めの声を出す。


「何ですか、先生」


 浅野と呼ばれた偃月がにこにこと美織のふりをする。


「ちゃんとそう呼ぶように」


 偃月は目をぐるりと回して「はい」と声だけは美織のようにして返事をした。そして指導室を出て扉を閉めてすぐ「くその茶番だな」と吐き捨てた。


「おい、話し方……」

「後のことはとりあえず景真に任せておくしかないだろ」

「それは分かったけど」

「偃月はこれから美織をやってやるから、お前も不用意に偃月に近づくなよ」

「……分かったけど」

「けどけどうるさい。偃月はもう行く」


 偃月が肩を回し、それから迅に背中を向けて歩き出した。

 その後ろ姿と歩き方は紛れもなく美織で。

 こんな得体の知れない事態に彼女を巻き込んでしまったことを心の底から申し訳なく思った。

 教室へ向かう足が重い。

 昨日、どうして道場へ行ったのだろう。昨日どうしてサボろうなどと考えたのだろう。こんな大変なことになるなんて思いもしなかった。

 父は知っていたのだろうか。あの大刀に、偃月なんてものが憑りついていることを。

 何のために息子に剣術を叩き込もうとしたのだろうか。


「馬鹿馬鹿しい……」


 この悪夢のような状況に、何でもいいから理由がほしかった。





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