第45話裏切りの傷

 教会の扉は、重く軋んだ音を立てて閉じられた。

 礼拝堂の中はひっそりと静まり返り、蝋燭の淡い光が石壁を照らしていた。ステンドグラス越しの光は、今日に限って色を持たず、曇った空の色だけを床に落としている。


 私は一人、長椅子に腰を下ろした。冷たい木の感触が背筋をまっすぐにさせる。


 口をつぐんだままでいられるほど、私は強くなかった。


(……どうして、助けたの?)


 ルカの顔が浮かぶ。裏切った時も、助けてくれた時も、どこか同じ顔だった。

 悩み、苦しむ人間の顔。そんな辛そうな顔をするなら裏切らなければ良かったのに。最初から割り切って、私のことなんて見捨ててしまえば良かったのに。

 ……信じてはいけない。それなのに、心のどこかが、まだ彼の気配を思い出す。


「どうかしてるわ、私」


 私は静かに吐き出すように呟いた。声が、石の天井に反響する。


(こんな私が、誰かを受け入れるなんて……)


 ヒルダの前では綺麗事を言った。テオドアの前でも理想を語った。

 ヴェルナー家に手を差し伸べる? 信頼を築く? その価値を信じてる?

 ――笑わせないで。


 私はまだ、ルカのことすら許せていないのに。


 目を閉じると、蝋燭の火が、まぶたの裏に揺れる。

 その微かな光すら、疑ってしまいそうになる。


 静寂の中で、私は初めて、少しだけ声を震わせて言った。


「怖いのよ……」


 誰を信じるべきか、どう歩くべきか、信じることでまた何かを失うのが。

 だから私は――祈ることしかできない。神でも、自分でもない、何か確かなものを。

 吐き出した言葉は、誰に届くでもなく、礼拝堂の空気に溶けていった。


 心臓の鼓動が、妙にうるさく感じる。

 けれどその音に、もうひとつ、微かな気配が混じる。


 足音。規則的で、邪魔にならない柔らかな音。


「迷いの言葉を、神は静かに聴いておられます」


 声がした。振り返らなくても、誰かはわかっていた。銀の髪が蝋燭の光に揺れる。白い聖衣の神官が、静かに佇んでいる。


「シグベル様……どうしてここに?」

「あなたが祈りを必要としているように見えたので」


 彼は私のすぐ隣ではなく、ひとつ離れた席に腰を下ろした。

 言葉に踏み込まず、ただ空気に同調するように、沈黙する。


「祈ってなんて、いないわ」


 そんな嘘が口をついて出た。そうだ、神に祈るほど大きなことではない。私個人の、ちっぽけな痛みだ。領主として立つなら捨ててしまった方が良いくらいの、感情。しかしシグベルはそれすら見通したように問いかける。


「……では、誰に『怖い』と語ったのですか?」


 私は答えられなかった。代わりに指を組む。教会の作法に倣っているようで、どこかぎこちない。シグベルの質問に答えを用意できないまま、私は思っていることを吐き出した。


「ルカを……許せない。助けられても、裏切りを忘れられないのです。なのに、ヴェルナー家と向き合うなんて……綺麗事に過ぎません」

「あなたは信じたいと願っている。けれど、裏切られた記憶がその願いを拒む。正しいことでさえ、心が追いつかない」


 淡々と語るその声は、責めることも、慰めることもなかった。


「信じるという行為は、報われる保証のない投資のようなものです。損をすれば傷つき、二度と手を出したくなくなる。……けれど、損を恐れて何も差し出さなければ、何も得られないのもまた事実です」

「そんな賭けみたいな話……私に、向いてると思う?」

「向いていないでしょうね。あなたは慎重ですから」


 シグベルは少しだけ目を細めた。


「けれど、それを理解した上で、なお手を伸ばすことができる人です。……そう信じて、私はここにいます」


 私は、ただ黙っていた。反論も肯定もせず、天を仰ぐ。

 ステンドグラスの向こうの空は、まだ曇りのままだった。


「私は……そんなに強くない。人を信じて、裏切られて、それでもまた信じるなんて――そんなこと、できる自信なんてないわ」


 結局はそれが本心だった。領主として、責任を果たしたいと思っている。でも、これ以上傷つきたくなくて、自分を守りたくなってしまうほどに私は弱い。


「あなたの傷はまだ癒えていない。けれど、癒えるのを待つだけでは、誰も救えない。そうでしょう?」


 シグベルの言う通りだ。今この瞬間にも苦しんでいる人達がいる。贖罪を果たすこともできず、時間を浪費するだけの罪人。寒さに震えながら日々を過ごす孤児たちと、彼らを育てる数少ない大人。私は彼らに誓ったのだ、ダイダリーを真の贖罪都市に変え、苦しむ人々を掬い上げると。

 私はゆっくりと目を閉じ、深く息を吐く。まだ苦しい。まだ信じきれない。けれど――


「そうね……。私が背を向ければ、また誰かが飲み込まれる」


 心の中で誰かの手を取るように、私は目を開いた。


「怖いままでいい。傷ついたままでも……私は進む。もうこれ以上、振り回されるわけにはいかないもの」


 蝋燭の火が揺れ、静かな決意を祝福するように光を灯した。私の中にほんの少しだけ、迷いの霧が晴れるのを感じる。


 そう、私はまだ弱い。でも、それでもいい。弱さを抱えたまま、進むことを選ぶ。誰かのために、そして、かつて信じた自分のために。


 私が立ち上がると、シグベルはただ一度、静かに頷いた。


「お気をつけて。……今日の訪問が、未来への一歩となることを願っています」


 外に出ると、曇り空の向こうに、一筋の陽光が差していた。


 ――ヴェルナー家。罪と、誇りを背負う一族。


 彼らと向き合う覚悟が、今ようやく、心に宿った気がする。


(さあ、行こう。私は、ダイダリーの領主として。ロゼリア・ケイ・ライオネルとして)


 私は少しだけ目を細め、背後を振り返ることなく歩き出す。

 迷いも痛みも、まだ胸の奥に残っている。けれど、それを抱えたままでも進まなくてはならない。私はそう決めたのだから。


「ヒルダ」


 屋敷に戻ると、私はすぐに出迎えてくれた侍女を呼んだ。


「ヴェルナー家へ先触れを。こちらから訪問を願い出るわ。急いで準備して」

「……かしこまりました」


 ヒルダは短く息を呑んだ後、頭を下げた。私の決意を察したのだろう。彼女の歩みに迷いはない。


「テオドアもお願いね」

「承知しました、ロゼリア様」


 ヴェルナー家。当主も、そしてコンラートも――彼らはきっと、この申し出を無下にはしない。そんな確信と、ほんの僅かな不安が胸を占める。


 ……けれど、もう立ち止まらない。そう決めたのだ。




◆ ◆ ◆


 


 その報せは、すぐにヴェルナー家の屋敷へと届いた。


「領主様が……当家を訪れると?」


 報告を受けた使用人たちは顔を見合わせ、沈んだ空気の中にさざ波が立った。

 古びた石造りの屋敷は、かつて活気に満ちていたその面影を今はすっかり失っている。声を潜め、気配を殺すことがこの家の常になっていた。


 そんな静寂の中、コンラート・ダ・ヴェルナーはただ一人、ふっと口元をほころばせた。


「……来るか」


 長身をゆったりと伸ばし、彼は立ち上がる。

 その瞳には、諦めの奥に沈んでいた熱がかすかに灯っていた。


「当主様には……いかがいたしましょう?」


 控えていた老執事が、恐る恐る問いかける。

 コンラートは一瞬だけ逡巡したのち、決然と告げた。


「伝えろ。――俺は拒まないと」


 その声は、屋敷の重い空気を僅かに震わせた。


「変わらぬものなど無いと、あの人が……ロゼリア様が、それを証明してくれるかもしれないからな」


 


◆ ◆ ◆


 


──そして私は、再び歩き出す。

迷いと痛みを胸に秘めたまま。

けれど、それでも。


……変わらぬものなど、無いと信じて。

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