第44話ヴェルナー家の苦境

 会談の余韻は、夜の空気に溶けていった。

 屋敷の広間には、もう誰の声も残っていない。残されたのは、冷めきった茶器と、揺らぐ蝋燭の影。まるでこの数時間の騒がしさが夢だったかのように、静寂だけがそこにあった。


 私は書斎の椅子に腰を下ろし、ふうと息を吐いた。

 思ったよりもスムーズに貴族が協力を申し出てくれた。けれど、それで全てが終わるほど、アルヴィン家は甘くない。会談の最中に起こった衝突のように、次の爆発がどこで起こるのか分からない。


 まずは、ヴェルナー家だ。

 あの長子――コンラートとの話が脳裏を離れない。

 ヴェルナー子爵が、アルヴィン家と会っている。しかも弱みを握られた状態で。恐らくそれは事実なのだろう。そうなると、ロゼリアたちの動きも既に読まれている可能性がある。


「ヒルダ、ヴェルナー家の動きを探って。必要なら情報屋にもお金を回して。テオドアはヴェルナー家の財務状況を洗い直して」


 静けさの中、再び火が灯る。戦いは、もう始まっているのだ。


――――――――――――


「父が何を考えているのか、正直なところ俺にも分からない。ただ……金が必要なんだ」


 他の貴族たちが去った後、屋敷に残ったコンラートは苦い表情でテーブルに肘をつき、低く呟いた。ここから先は他の貴族には聞かせられない、上辺の礼儀すら省いた密談である。


「お金?」

「ヴェルナー家は財政を担っているとはいえ、領地の収益は芳しくない。以前の政争で王都の派閥争いに巻き込まれ、大きな出費があった。そこをアルヴィン家に狙われた……いや、『手を差し伸べられた』というべきか」


 私は顎に指を添えながら、考えを巡らせる。ヴェルナー家の財政難がそこまでの苦境だとは知らなかった。


「それで、ヴェルナー子爵はどんな取引を?」

「具体的な内容までは聞かされていない。ただ、アルヴィン家が『確実な利益』を約束したとだけ……。その条件は、領主と距離を取ることだ」


 なるほど、つまりアルヴィン家は、領主と貴族を切り離すべくまずヴェルナー家を狙ったわけだ。資金援助をエサに取り込もうとしているのだろう。


「あなたはどうしたい?」


 私がそう尋ねると、コンラートは苦々しい顔のまま、ゆっくりと言った。


「俺は、あなたに理があると思っている。だが、父を無視するわけにはいかない……」

「そう……なら、ヴェルナー家の財政難を解決すれば、子爵がアルヴィン家と組む必要はなくなるわね」


 コンラートが目を見開く。


「……そんなこと、できるのか?」

「できるわ。必要なのは、ヴェルナー家がアルヴィン家と組むよりも良い選択肢があると示すことよ」


―――――――――――


 嵐のような会談と、静かな密談。それらを終えた翌日、私は集めた資料と向き合いながら頭を悩ませていた。私以上に疲れているヒルダとテオドアには、身体活性魔法で少し元気になってもらう。私にはまだ彼らの力が必要だ。


「コンラート様にはああ言ったけど、ヴェルナー家を立て直すには何が一番良いのかしら……」

「ロゼリア様、何もそこまでなさらなくても良いのでは? アルヴィン家より手厚い支援を約束すれば、彼らもこちらに傾くでしょう」


 ヒルダの言葉に私はゆっくりと首を振った。それでは駄目なのだ。アルヴィン家と同じやり方では、真の信頼は得られない。


「ヴェルナー家がここ数年で大きく資産を減らしているのは、王都での派閥争いのせいです。負けた側についたため、多額の献金と賠償金を支払うことになりました」


 テオドアが洗い直した情報を聞きながら、私は何かヒントがないか考える。アルヴィン家とは違うやり方で、ヴェルナー家に手を差し伸べるにはとうすれば良いのだろう。


「しかも、土地の収入が思ったよりも回復していない。ヴェルナー家は現在、アルヴィン家からの資金援助に依存しつつあります」


 私は腕を組んで考え込む。ヴェルナー家の財政難は 政治的な失策 によるものだった。これは逆に、こちらが新たな財源を示せば、当主の考えを変えられる可能性がある ということだ。


「ダイダリーの財務改革も課題よね。改革の中心にヴェルナー家を据えると言うのはどうかしら?」

「……過去には汚職の疑惑もあります。不利益も起こり得るかと」


 テオドアが躊躇いがちに言葉を選ぶ。けれど私は、それに頷いて話を続けた。


「それなら、再発防止のために監査機関を設けましょう。財務を任せるのではなく、改革の監督役としてヴェルナー家に関わってもらうの」

「監査、ですか?」


 ヒルダが目を細めて問い返す。彼女の表情には、賛否の天秤が見え隠れしていた。


「ええ。財務の透明性を高める。その仕組みを、かつて傷を負った家が先導する。そのことに、意味があるわ。信頼は一朝一夕では築けない。でも、誠実さを見せ続ければ、いずれ市民も他の貴族も応える」

「……アルヴィン家の『取引』ではなく、信念に基づく『任せ方』ですね」


 テオドアの声が、わずかに柔らいだ。私はそれを肯定と受け取り、机の上に積まれた資料に視線を落とす。ダイダリーの未来は、ただの力や金では変えられない。必要なのは、信じる力だ。




 翌朝、私は再びコンラートを屋敷に招いた。彼は昨日よりも幾分落ち着いた様子で、しかし目の奥には警戒の光を宿していた。


「……で、話とは?」

「ヴェルナー家に、都市財務改革の監査役を引き受けてもらいたいの」


 私の言葉に、彼はあからさまに驚いた表情を見せた。


「監査? それはつまり……俺たちが、他の貴族を見張る側に?」

「ええ。王都での政争で負けた過去は、確かに傷よ。でも、その経験があるからこそ、清廉であることの価値も知っている。私はそれを信じたい」

「……父が、納得するかどうかは分からない」

「それでも、私はあなたに託したいと思ったの。あなたは私に理があると言ってくれたわね。その言葉を信じるわ」


 私の視線を、コンラートはまっすぐに受け止めた。数秒の沈黙のあと、彼は微かに息を吐き、頷いた。


「……持ち帰って説得してみる。あなたのやり方は、父にはきっと面倒に映るだろうけど……そういうやり方こそが、本当に必要なのかもしれないと思えてきた」


 その背中が扉の向こうへと消えると、私はそっと椅子に身を預けた。


 ――本当に信じていいのか。裏切られるかもしれない。信じる怖さも裏切られる痛みも、まだ生々しく胸に残っている。けれど、それでも一歩を踏み出さなければ、何も変わらない。


 交渉は、始まったばかりだ。


 ヴェルナー家からの返答は、すぐには届かない。いや、それが当然なのだ。名誉の回復と監査という役割、アルヴィン家から受けた支援。その間で、あの家も揺れている。だから私は、ただ待たなければならなかった。


 待っている間くらいは仕事に集中しなければならないのに、ふとした瞬間にあの日の感触が胸を満たす。……ルカの軽口、笑顔、そして、思い詰めたような声。


 どうして、信じてしまったのだろう。


 どうして、疑えなかったのだろう。


 どうして、助けてくれた彼を、未だ許せずにいるのだろう。


 私は黙って立ち上がると、窓の向こうを見た。空は雲に覆われ、雨が降るかもしれなかった。


「ヒルダ、留守を頼むわ」


 羽織を手に取り、屋敷の扉を静かに開く。冷たい風が頬をなでた。


 誰かを信じること。それはいつだって、覚悟が要る。


 それでも、私は――祈るしかない。


 石畳の道を踏みしめ、私は礼拝堂へと向かった。

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