第35話疑惑の名を告げる時

 香り高い茶の湯気が静かに揺れ、陶器の器が小さくふれ合う音が広間に響く。貴族たちはすでに椅子へと腰を下ろし、それぞれが手元のカップに視線を落としていた。波打つ透明なオレンジの液体が、場の微妙な均衡を映し出しているようだった。


 私はゆっくりと視線を巡らせる。

 エルンスト子爵は優雅な所作で茶を口に運びながら、私の出方を待っている。ヴェルナー家の代理人は慎重に指を組み、表情を崩さない。ディートリヒ男爵は椅子にもたれ、興味深げにこちらを見つめていた。


「さて、領主様」


 エルンスト子爵が口を開いた。静かながらも場を制する声音だった。


「この場で改めて伺いましょう。あなたは、我々に何を求めますか?」


 貴族たちの視線が一斉に私へと向く。その眼差しには探るような色があった。試されている。

 けれど、それは当然のことだ。


 私はカップを手に取り、熱を確かめるように指先を沿わせた後、一口含んだ。温かな液体が喉を潤し、思考を研ぎ澄ませる。


「率直に申し上げます。私はこのダイダリーを、今よりも健全な都市へと変えたいのです。そのためには、あなた方の協力が不可欠です」


 思い出すのは、この世のすべてに疲れ切ったクーゼルの顔。この都市の闇に触れてしまったがために消されたダリルの、苦しそうな表情。私には、それを見過ごすことはできない。

 彼らは、罪人として贖罪を行なうべきなのだから。ただ生を浪費するような状態は、『贖罪都市』の正しい在り方とは言えない。


 一瞬の沈黙が場を満たす。誰かが大きく息を吐く音が聞こえた。


「健全な都市、ですか」ヴェルナー家の代理人が静かに言葉を返した。


「それはつまり、どのような形を指すのでしょう?」

「少なくとも、不正が堂々と横行し、民が苦しむ現状を放置するつもりはありません」


 視線を合わせながら答える。脳裏には、寒さに震える孤児院の子どもたちの姿がよぎる。


 ヴェルナー家の代理人はわずかに眉を動かし、慎重な沈黙を選んだ。


「……具体的には?」


 私は静かにカップを置いた。

 いよいよ、本題へ入る時だ。


「最近、正規の取引の裏側で、影の市に流れる物が増えています。流通は早くなったと聞いていますが、同時に不審な取引も増加していると」


 ちらりとヴェルナー家の代理人を見やる。アルヴィン家との間で交わされた怪しい取引――彼が知っているかは分からないが、ヴェルナー家当主が関わっている可能性は高い。

 私の視線を受けると、彼はわずかに肩を震わせ、手元のカップを握り直した。その指先がほんの少し強張っているのが見える。


「ふむ、私のところでは目立った取引はありませんが……」


 エルンスト子爵は考えこむように口元へ手を当てる。


「ほぉ、領主様があの悍ましい『影の市』のことまでご存知とは」


 ディートリヒ男爵は指輪を擦りながら興味深そうに言ったが、その声音には僅かに棘があった。


「忌々しい場所です。あのような闇の巣窟がある限り、ダイダリーの健全化など夢のまた夢でしょうな」


 言葉の端々に滲む苛立ちと嫌悪。それは単なる感想ではなく、彼自身が何らかの行動を起こしていることを示していた。もしかして、影の市での襲撃は……まさか、いや、考えすぎか。今は目の前のことに集中しなければ。私は気持ちを切り替えて話を続ける。


「さらに裏ではクレイヴという闇商人が活発に動き、貴族相手の大きな取引をしているようです」


 『貴族相手の』――そう告げた瞬間、広間の空気が張り詰めた。

 一瞬、誰もが息を飲んだように静まり返る。次に起こったのは、互いの顔を探るような視線の応酬だった。誰が関わっているのか、それとも無関係を装っているのか。それはまるで静かな戦場のようだった。


「その貴族とは、一体……?」


 そんな中、ヴェルナー家の代理人が恐る恐る問いかけた。私は用意していた答えを返す。


「現時点では確定ではありませんが、不審な物流と……」

 

 一度言葉を切り、あえて数秒の沈黙を置く。

 そして、改めて彼らを見渡しながら、はっきりと告げた。


「アルヴィン伯爵家の交易ルートが、不自然に重なっています」


 ヴェルナー家の代理人が、かすかに喉を鳴らす音が聞こえた。だが、私が本当に言いたいのはこの先だ。これを伝えるために、私はエルンスト家へとやってきたのだ。


「アルヴィン伯爵家がどの程度関与しているか、それを明らかにしなければなりません。そして、そのためには――この場にいる我々が、一丸となる必要があるのです」


 私の言葉が広間に静かな波紋を広げていく。それぞれが己の立場を思案し、慎重に言葉を選ぼうとしていた。


 最初に沈黙を破ったのは、エルンスト子爵だった。


「……ふむ」


 カップを静かに置き、指先で縁をなぞる。


「確かに、正規の交易ルートが不正に利用されているのであれば、管理を預かる貴族としては看過できません。しかし、我々が介入することで、余計に問題がこじれる可能性もある……慎重に進めるべきでしょう」

「それは、アルヴィン伯爵家の怒りを買うことを懸念されているのですか?」


 私が問いかけると、エルンスト子爵はわずかに笑みを浮かべた。


「ええ、政治とは複雑なものですからね。我々が一方的に敵を作るのは賢明ではありません。しかし――」


 彼は目を伏せ、静かに続ける。


「影の市に流れる物資の中に、エルンスト家の管理する品があるとすれば、それは我が家にとっても由々しき事態。これ以上放置するのは得策ではありませんな」


 賛成と明言はしない。だが、アルヴィン家の動向次第では、こちら側につく準備はある。そんな含みを持たせた発言だった。


「ですが、領主様」


 続いてヴェルナー家の代理人が口を開いた。慎重な声音、そして冷静な視線。


「アルヴィン家を直接疑うというのは、あまりにも大胆な動きではありませんか? 交易の流れが重なっているだけでは、決定的な証拠とは言えません」

「それは承知しております。しかし、影の市に流れる物資の多くがアルヴィン家の関与する交易から発生しているのは事実です」


私の言葉に、代理人は小さく息をついた。


「……仮にそうだとしても、ヴェルナー家としては静観の立場を取りたい」

「静観?」

「領主様の改革の意志は理解しております。しかし、交易は経済の要です。アルヴィン家は幅広い流通網を持つ家柄。そこに無闇に手を突っ込めば、ダイダリーの経済も混乱しかねません」


やはり、ヴェルナー家は慎重だ。


「もちろん、不正が明らかになれば、それに応じた対応を考えましょう。しかし、今この場で積極的な関与を決めるのは……難しい」


即座に反対するわけではないが、協力もしたくない――そんな態度だった。


「まったく、慎重すぎるな」


 ディートリヒ男爵が苦笑する。


「アルヴィン家が関与しているかどうかより、今の問題は影の市そのものだろう?」

「それは、男爵が影の市を嫌っているから、という意味ですか?」


私の問いに、彼は堂々と頷いた。


「もちろんだ。あのような巣窟を放置していては、都市全体が腐る。だからこそ、私はあの場所を潰そうとしているのだよ」


 やはり――ディートリヒ男爵は影の市での襲撃に関与している可能性が高い。


「領主様、あなたが本気で改革を望むのなら、まずは影の市を徹底的に叩くことだ。それがダイダリーを『健全な都市』にする第一歩になる」

「しかし、影の市が存在することで助かっている者もいるのでは?」

「貴族としてそんな甘いことを言っていては駄目だよ、領主様。結局のところ、あそこは犯罪者の巣窟なのだ」


 ディートリヒ男爵は、影の市の存在そのものを許さない立場だ。つまり、彼は影の市を潰すためなら、アルヴィン家の関与があろうとなかろうと、構わず動くだろう。


 ここまでの議論で、各貴族の立場は明らかになった。


 エルンスト子爵は慎重だが、状況次第では協力する余地がある。

 ヴェルナー家は交易の安定を優先し、静観を望む。

 ディートリヒ男爵は積極的に影の市を潰すことを支持する。


 ならば、まずはディートリヒ男爵の意見を利用し、エルンスト家の協力を得つつ、ヴェルナー家が動かざるを得ない状況を作るべきだ。


「分かりました。皆様、それぞれのご意見を尊重いたします」


 私はゆっくりと立ち上がった。傷口が熱を持って痛みを訴えるが、顔に出さないよう耐えながら胸を張る。


「ですが、私はこの都市の領主です。今ここで決断しなければならない立場にあります」


 視線を巡らせながら告げる。


「まずは、ドレイク家へ運ばれる高級品や薬の流通を調査します。これならば、交易そのものに干渉するわけではなく、あくまで『管理の適正化』という名目で進めることができます」


 エルンスト子爵がわずかに目を細めた。


「ほう……それならば、確かに合理的ですな」


 ヴェルナー家の代理人は難しい表情を浮かべたが、明確に反対はしなかった。


「この調査がどのような結果をもたらすか……慎重に見守らせていただきます」


 つまり、「邪魔はしないが、結果次第で動く」ということだろう。


「結論が出れば、それを踏まえて再び話し合いの場を設けます」


 最後に、ディートリヒ男爵が満足げに笑った。


「ふむ、それならば結構! どうせ影の市の不正が明るみに出れば、動かざるを得なくなるさ」


 この場では、全面的な協力を取り付けることはできなかった。だが、これで十分だ。

 影の市、そしてアルヴィン家――私が切り込むべき場所は、すでに見えている。


 戦いの火蓋は、静かに切られようとしていた。

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