第30話影と光の交差点
ダイダリーを変える。決意と共に紅茶を飲み干したタイミングで、執務室の扉が叩かれた。
「領主様、オリバー副長からの報告書をお持ちしました」
「分かりました」
入室を許可し、書類を受け取る。オリバーの名の下に作成された正式な公式な報告書だ。几帳面な筆跡が、街の異変を静かに語るようだった。
『ダイダリーにおける物流の変化について
——最近、交易品の移動速度が異常に速くなっている。
モンタギュー家では武具や保存食といった軍需品に類する品の取引が増加。
また、ドレイク家の領内へ向かう荷運びが急増しており、何らかの物資の備蓄が進められている可能性がある』
私は思わず息を詰め、次のページをめくった。
『——アルヴィン家関連の商隊が影の市付近で頻繁に活動。一部の荷は直接屋敷へ運ばれず、影の市を経由する形で流通。
特に夜間の荷運びが増え、その内容は不明。現地の衛兵が調査を試みたが、護衛が厳しく、接触困難』
「……アルヴィン家、ね」
交易を担当する家の動きが活発になった理由が、単なる商機の拡大でないことは明白だった。特に夜間の輸送が増えているのは気にかかる。
ペンを持ち、報告書の端に小さく書き込みを入れる。
「モンタギュー家の動きも気になるけど……ドレイク家が物資を備蓄し、アルヴィン家が影の市経由で荷を動かしている?」
何かが繋がり始めている気がしたが、まだ確証がない。私は報告書を閉じ、思考を整理するように指先で机を叩いた。
「これは……もう少し詳しい話を聞きたいものですね」
取引に関する情報を見ながらテオドアが呟く。それに応えるように、再び扉を叩く音がした。
「領主様、オリバー様がいらっしゃいました」
私は即座に「通して」と告げる。
「報告です、ロゼリア様」
開いた扉の向こうに立っていたのは、息を切らしたオリバーだった。いつも穏やかな彼が、こうして慌てた様子を見せるのは珍しい。私は思わず背筋を伸ばし、椅子から身を乗り出す。
「何かしら」
「影の市の周辺でアルヴィン家の商隊が襲撃され、多くの荷が奪われました」
アルヴィン家の商隊——彼らは領内の交易を担う重要な存在だ。その商隊が襲撃されたということは、都市の流通にも影響が及ぶ可能性がある。ロゼリアは眉をひそめ、オリバーの言葉の真意を探った。
「アルヴィン家の……?」
ロゼリアが問い返すと、オリバーは唇を引き結び、懐から小さな金属片を取り出した。それを両手で丁寧に捧げ持ち、ロゼリアの前に差し出す。
「そして、現場にこれが」
王冠をくわえた鴉の紋章。
金属片に刻まれたそれは、間違いなくクレイヴと繋がっている貴族の印だった。それがなぜ、アルヴィン家の商隊の襲撃現場に落ちていたのか。
私は金属片を指先で拾い上げ、表面をなぞった。わずかにざらついた感触。削れた傷が、地面に乱暴に落ちたことを物語っている。
「これは……アルヴィン家のもの? それとも襲撃者の……?」
もしアルヴィン家のものであれば、彼らが裏取引に関与している証拠となる。だが、もし襲撃者のものであれば、そちらがクレイヴを動かす主だ。どちらにせよ、見過ごせない事態だった。
思わず視線が鋭くなる。しかし、オリバーはゆっくりと首を振り、わずかに肩を落とした。
「正直なところ、まだ判断がつきません。現場は混乱状態で、商人たちの証言も食い違っています。今は衛兵長が場を治めていますが、影の市の動揺も大きいようです。衛兵もよく思われておらず、これ以上の調査は難航しています」
衛兵が影の市で動きづらいのは、当然のことだった。
影の市の住人たちは、衛兵を信用しない。むしろ、都市の「秩序」の側にいる者たちを敵視している者も少なくない。衛兵が深入りすればするほど、彼らの反発は強まるだろう。
私は考えを巡らせた後、オリバーに視線を向けた。
「分かりました。後はこちらで引き受けます。あなたも任務に戻ってください」
オリバーはホッとしたように息をつき、一度姿勢を正した。
「ありがとうございます、ロゼリア様。では、あとひとつ追加のご報告を」
そう言いながら、オリバーは再び表情を引き締めた。
「モンタギュー家の取引ですが、以前の衛兵の物資不足を気にされた当主の動きだったようです。こちらの確認不足で、無用な疑いを生んでしまいました。申し訳ありません」
私は短く息を吐く。モンタギュー家は、もともと衛兵との結びつきが強い貴族だった。領内の治安維持に関心を持ち、動いていたとしても不思議ではない。
「構いません。ありがとうございます、オリバー」
そう答えると、オリバーは深く一礼し、足早に部屋を後にした。
私は机の上に紋章を置き、その意味を改めて考える。
アルヴィン家が裏取引に関与しているのか、それとも何者かがアルヴィン家を嵌めようとしているのか。
答えを導き出すにはさらなる調査が必要だった。そのための情報源に、一人心当たりがある。
「ルカ・フィッツを呼んでください」
ただアルヴィン家について聞いた時ははぐらかされたが、影の市に関することならまた違う反応が返ってくるはずだ。私がルカを呼ぶよう指示した瞬間、軽く扉がノックされる。
「呼ばれる前にこちらからお伺いするのが礼儀かと思いまして――まあ、そんな殊勝な心がけがあったら、商人なんてやってませんが」
聞こえたのはルカの声だ。部屋へ招くと、彼はするりと滑り込むように入ってくる。
「…………話が早くて助かるわ」
内心呆れながらそう返すと彼は胡散臭い笑みを浮かべた。これは完全に商人の顔だ。自分の利益に敏感で、引き出せるものは引き出そうとする男の顔。きっと一筋縄ではいかない。
私は椅子へ腰掛けると、まっすぐにルカを見据えた。隣のヒルダは無言で紅茶を注ぎ、微かに香る茶葉の香りが室内に広がる。
「影の市付近での事件、聞いてるわね?」
ルカは涼しい顔で肩をすくめた。
「ええ、つい先ほど。衛兵の方が随分と忙しないようで……」
どこか他人事のような口ぶり。だが、その表情の裏にある興味を私は見逃さなかった。彼は既にある程度の情報を掴んでいるのだ。
「私はあなたから情報を買いたいの。商人ルカ・フィッツ」
「へぇ? 僕を信頼してくれる気になったんですね、嬉しいです」
そうではないと分かっているだろうに、ルカは平然と軽口を叩く。その目は笑っていたが、どこか試すような色も見え隠れしていた。
「アルヴィン家と影の市の関わりについて。教えてくれるなら、対価を払うわ」
「その情報だと少し高くなりますよ?」
ルカは湯気の立つカップに指を滑らせながら、ゆるりと微笑む。
「……出し惜しみはしません。望みは?」
私の言葉に、ルカの瞳が一瞬だけ鋭く光った。何かを測るような視線――それが商談の一環なのだと、すぐに理解した。助けになってくれた数日間が嘘のようなその冷徹さに、わかっていたはずなのに悔しさが滲む。
「そうですね……屋敷の隣に診療所があるでしょう? そこの薬の取引について、一枚噛ませてください。僕はどうにもあそこの人達に好かれていないようで」
ルカはため息交じりに言うが、その目は愉快げだった。
恐らく、レインの影響だろう。彼はルカと取引していたが、信用はしていなかった。彼がいなくなり窓口がなくなった今、その不信だけが残っている。
「口利きなら、できるわ。でも彼らの信頼を得られるかはあなた次第よ」
「領主様の後ろ盾さえいただければなんとでも。僕とて商人です、そこからは上手くやりますよ」
交渉の決着はすぐについた。私が頷くと、ルカは満足げにカップを持ち上げる。
「……では、そのように手筈を整えましょう。それで、情報は?」
「急かさないで、ロゼリア様。ちゃんとお話しますから」
そう言うと彼は、ヒルダの淹れた紅茶を口に運ぶ。その所作には、どこか芝居じみた優雅さがあった。
「話せば長くなるんですが、」
「簡潔にお願い」
「商人よりせっかちな領主様ですね。ではリクエストにお応えして短くまとめましょう」
カップを置くと、ルカは指先を組み、少し身を乗り出した。
「アルヴィン家は、影の市を一種の『拠点』にしようとしている節があります。物流の流れを掌握し、誰が何を手に入れるのかをコントロールする。そうすることで、いざという時には市場そのものを止めることができる……いくら影の市が裏の世界とは言え、そんなことをされれば表にだって影響はでますよ。実際、表の物資が裏にも流れてるようですしね」
ルカの金色の目が冷たく光る。ヒルダは紅茶を注ぐ手を一瞬止めて視線を鋭くした。私は二人の反応に、事態の深刻さを改めて感じた。一度目をつむり、静かに問いかける。
「アルヴィン家の目的は、交易の表も裏も支配すること……?」
「このまま進めば、そうなるでしょうね。邪魔をすれば領主様でもただじゃ済まないかも」
ルカは肩をすくめる。私は唇を引き結びながら、手元のカップを見つめた。
「……ありがとう、ルカ。ちなみに教える情報をこれにした意味を聞いても良いかしら?」
「買いかぶりすぎですよ、僕のような小さな商人にはこれが精一杯です」
「あまり自分を卑下するものではないわ。私の目が濁ってるとでも言うつもり?」
「なるほど? へぇ……そうですか。そうですね」
ルカは意味ありげに笑い、ゆっくりと私を見つめた。
「まぁ、僕としても貴族に首輪をつけられるのは、どうにも落ち着かなくて」
「そのために私を利用するのね」
「お互い様でしょう?」
交わされる視線の中で、私は微かに口角を上げた。ルカもまた、こちらの反応を楽しむように微笑んでいた。
「……最後に、もうひとつ確かめたいことがあるわ。いいかしら?」
「もちろん! それも良い情報になりますからね」
「影の市で出回る『病を癒す秘薬』……あなたはどう思う?」
私がそう問いかけると、意外なことに彼は眉を下げて困ったような表情をした。肩をすくめ、やれやれとでも言いたげに手を上げる。
「そんな素敵な物があるなら、一度お目にかかってみたいものですね」
「ええ、私もよ」
話はこれでおしまいだ。ルカは静かにカップを置いて立ち上がると、執務室を後にした。私は彼の背を見送りながら確信を深める。病を癒す薬は、恐らく本物ではない。薬を求める誰かに対する釣り餌だ。それがどう機能しているか調べる必要はあるだろう。
考え込んでいた私は、ふと執務室の静けさに気づく。こうして室内に閉じこもってばかりでは、見えるものも限られてしまう。
「少し外に出てくるわ。ここで考えてばかりでは進まないものね……まずはそうね、孤児院かしら。グラウベン家の活動を調べに行きます」
「私もお供いたします」
「ええ、お願いね」
その言葉と共にヒルダが外出の準備を始める。行き先は孤児院だ。元教師だった彼女なら、子どもたちの様子を観察するのにも助けになってくれるだろう。私は頷き、残る二人に向き直る。
「テオドア、ギフティオ、二人ともありがとう。それぞれの仕事に戻ってください」
「かしこまりました」
「承知しました! 夕食には期待しておいてくださいね!」
二人は一礼をして執務室を出ていく。ギフティオの言葉には少々不安が残るけれど……それについては後で考えることにしよう。
私は椅子を立ち、羽織を整えてから執務室を後にする。玄関を出ると、澄んだ空気が肌を撫でた。屋敷の中とは違う、外の世界の匂いがする。
「行きましょう、ヒルダ」
軽く息を吸い込み、私は歩みを進めた。
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