第5話領主の責務(2)

 詰所を出て屋敷へと戻る。執務室の机に広げた羊皮紙の上で、私は静かにペンを走らせていた。書き込むべき魔術式はすでに頭の中にある。長時間の作業で肩が凝るのを感じながらも、手を止めることはしなかった。


「本当にご自身で作られるのですね……」


 驚きと感心が入り混じった声が背後から聞こえる。振り向くと、ヒルダが私の手元を覗き込んでいた。


「ええ。その方が早いし、スクロールを取り扱える商人を探すより簡単だわ」


「ロゼリア様らしいです」


 彼女は微笑むと、用意した紅茶を私のそばに置いた。豊かな香りがインクの匂いを上書きする。


(今は、私にできることをするだけよ)


 私は改めてペンを握り直した。そこから何枚かスクロールを仕上げた頃、執務室の扉が叩かれる。この控えめな音はテオドアだ。主の仕事を邪魔しないが、確実に気付かせてくれるノック。


「何かしら?」

「教会よりシグベル様がいらっしゃいました。お話があるそうですが」


 シグベルが? 私に一体何の用だろう。こちらから訪ねたことはあっても、彼が屋敷に来るのは……そういえば、ルーディックの葬儀以来だったか。領主になってから少し時間の感覚が麻痺している。


「応接室にお通しして。すぐに行くわ」

「承知しました」


 ペンを置き、身なりを整えてから私はシグベルの下へ向かった。


「突然の訪問失礼いたします、ロゼリア様」

「いいえ、構いませんわ」


 応接室の椅子に腰掛けたシグベルは、いつも通りの落ち着いた表情を崩さない。その視線は私をじっと見据えながらも、どこか探るような鋭さがあった。


「お忙しいところ申し訳ございません。ですが、どうしても急ぎ確認しておきたいことがありまして」

「確認したいこと?」


 私はできる限り余裕を保ちながら紅茶に口をつけた。衛兵の詰所でのことなら知られていないはずだ。詳しい話は倉庫の中で済ませたし、ライルとオリバーが情報を漏らすとは思えない。


「スクロールの件です」


 ……甘かった。シグベルは予想以上に情報を掴んでいる。詰所に出入りする神士として、衛兵とも深い繋がりがあるのか。シグベルがそう来るなら……問題となるのは、どこまで把握されているか、ね。


「たった二日で十分な量のスクロールを用意できるはずがない。ロゼリア様、あなたはどうやって衛兵に回す分を手に入れるおつもりですか?」


 その口ぶりならまだ大丈夫そうだ。知られているのはオリバーが流した表向きの情報だけ。私は安堵しながらカップをソーサーに戻す。


「私には私なりの伝手というものがあります」


 裁神ダイダリューンの神士として罪を犯すことはないでしょうけど……信用しきるわけにはいかない。スクロールを作れることはまだ伏せておくことにした。


「それは、正しい方法ですか?」

「ええ、もちろん」


 私には資格がある。売るならともかく、自分が作った分を人に渡すだけなら問題はないはず。領主として街を守る衛兵を助けたいだけなのに、シグベルは何が不満なのだろう。


「本当に?  あなたのやり方が、神の意志に背くことはないのですか?」

「神が何と言おうと、この都市を守るために動きます。それが領主の仕事でしょう?」


 シグベルの低い声が静かな応接室に響く。彼の視線は揺るぎなく、まるで私の心の奥底まで覗き込もうとしているかのようだった。


 私は肩をすくめ淡々とした口調で答える。シグベルは一瞬目を細めたが、すぐにその表情を消し去った。


「……あなたは、そう思うのですね」


 彼の声にはどこか含みがある。まるで私の信念を試すような。あるいは、自分自身の中で何かを整理しようとするような。


「スクロールの不足は都市の混乱を招くわ。そうなれば罪を犯す者も増えかねません。あなたは……あなたの神は、それを赦すのかしら」

「罪には罰を下す、それだけです」

「それでは守れないものがあるという話よ」


 彼の言葉は揺るぎない信仰に根ざしたものだ。しかし、それだけでは足りない。現実もこの都市も、彼の理想よりずっと混沌としているのだから。


「私は裁き、導く者です。あなたと私の運命が重なるというのなら、協力はできるでしょう」


 シグベルは椅子の背に軽くもたれながらそう言った。その姿勢は変わらず冷静だが、どこか私に歩み寄ったようにも思える。


「そう。では神ではなくあなたの目で、私を見ていてくださいね」

「神は……いえ、私はいつでも、あなたを見ていますよ」


 私は微笑み、彼の眼差しを真正面から受け止めた。シグベルはほんのわずかに眉をひそめた後、ゆっくりと頷く。今日はずいぶん表情が豊かだ。いつもより感情を見せていた気もする。スクロールのことは彼にとって大きな問題なのかしら?


 少し彼の様子が気にかかりながらも、話は終わったと立ち去る彼を見送る。その歩みは乱れることがない。振り返ることのない彼の背には、信念と……わずかな迷いが、ある気がした。

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