師に捧げるための讃歌

青雨

プロローグ

絶望に明け暮れ、漂流の末、男は死の地を海辺にしようと決め、浜にやってきていた。 冷たい冬の海の波が、足元を洗う。ふらふらと歩いていると、めまいがしてきた。いよいよ私は死ぬのだ、妻子の元へ行けるのだと思うと、鉛のように重くなった気持ちが急に軽くなるような気がした。

 季節外れの鳥の声に顔を上げると、どうにもそこには似つかわしくないものがそこに落ちている。男はそちらへゆらゆらと歩み寄った。

 それは、一人の幼子だった。

 服とも言えないほどの粗末な布切れに身を包み、一人で座り込んでいる。近くに寄ると、幼子は顔を上げた。薄汚れた顔で男か女かよくわからぬが、おおきなおおきな緑の目だけが見て取れる。

 その瞳に見つめられると、今から死のうとしていることが咎められているようで、どきりとした。

 仕方なく、どうしたのかね、と尋ねると、幼子はか細い声でこうこたえた。

 母さんを待ってるの。

 母親? 母親の影など、見えなかった。

 そんなもの、見なかったぞ。 男は辺りを見渡す。やはり、人影などない。人影どころか、鳥の影すら、今はない。

 やめよう。

 死のうとしているときに、一体なにをしているのだ。こんなこどもに構っているいとまはない。慌ててそこから離れようとした。

 歩き出すと、幼子が自分を見ているのがわかった。じっとこちらを見ている。

 やめろ。私を見るな。

 男は早足で歩いた。一刻も早く、そこから離れたかった。少しでも早く、幼子から離れたかった。

 しかし、背中に視線が突き刺さる。あの緑の瞳が、瞼に焼きついていた。

 男は立ち止まった。そして振り向いて、幼子の元まで戻っていった。


 死のうとしていたことなど、もう忘れてしまっていた。

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