カプチーノ
葵 春香
カプチーノ
エスプレッソの濃い色が、好きだ。
私はコップを置いて、マシンのボタンを押した。注ぎ口から
こんなの、ちょっと前だったらありえなかった。
怜さんはバイト歴が一番長くて、口数は少ないけれど厳しい人だ。私が入ったばかりの頃、カプチーノのハート形が作れなくて助けを求めても、絶対に代わってくれなかった。言葉少なにアドバイスをして、表情を変えずに私の手元を見るだけ。マシンの周りを囲んだ失敗作を洗いながら、「この人、どエスだ」って確信したことを今でも覚えている。
だけど、今は。
怜さんが左手でコップを傾けながら、右手でミルクを注いでいく。熱い
今は、いつだってこのアートを見ることができる。
正面のドアが開き、ピンクのコートを着た
顔を上げて確認しなくたって分かる。怜さんの手が一瞬止まったから。私は怜さんの作品をソーサーに乗せると、カウンター越しに男性客に渡した。客は閉じられた休憩室をぼんやりと眺め、カプチーノを受け取ると、カウンターが良く見える席に腰を下ろした。
私はそっと海斗の顔を盗み見た。予想通り、
いつものこと。陽菜は一瞬で場を支配する。大体、ピンクのコートなんて容姿に自信がなきゃ着られない。そして、その場から消え去っても、男達の心に余韻を残し、居座り続ける。私なんてまるでいないかのように。
そう、別れた後も。
怜さんは私に背を向けて、ドリンク作りに使ったマドラーや食器を洗い始めた。自分の痛みに怜さんの痛みが流れ込み、私の中で渦を巻き、底へと沈んでいく。
「休憩いただきます」
こちらを見ずに頷く男二人に心の中でため息をつくと、私は休憩室に向かった。
「
制服に着替えた陽菜が、髪を梳かしながら微笑んだ。
「別に、陽菜の為にしたわけじゃないよ」
陽菜の横に座ると、甘い香りが
「あ、香水強いかな? 桜の匂いがいいなって想って買っちゃった。もうすぐ春だし」
「大丈夫だけど、また変えたの?」
「うん。これ、良くない?」
私は曖昧に頷くと、前の方が良かったけどと心の中で呟いた。
前のはサンダルウッド系の香りで、陽菜の横を通る度に森林の中にいるような気分がして、心が落ち着いたのだ。子供の頃、おばあちゃんの家で嗅いだ線香の香りを洗練させたような優しくて上品な匂いだった。
「前のやつ、あげよっか?」
陽菜は私の顔を覗き込みながらそう言って、あ……と気まずそうに呟いた。
続きは聞かなくたって分かる。私も同じことを想ったから。
怜さんが陽菜を抱きしめながら、あの香りに包まれていたことを。
「ねぇ、和奏。まさか、私のために怜さんに告ったってことないよね? あの時、怜さん、すごく痩せちゃったし、目が怖くて何するか分からない感じだったでしょ? 和奏って誰にでも優しいから」
私は陽菜の瞳を見つめ返した。潤んでいるような大きな瞳に吸い込まれそうで、堪らず目を
「そんなわけないでしょ。そんなの、怜さんに失礼過ぎるし。ね、その香り、海斗が好きそう」
陽菜はほっとしたように顔を
「分かる? すげぇいいって言ってた」
一年中咲き続ける花のようだな、と私は想う。周囲は美しさに目を奪われて、その無邪気さに心安らぎ、時にかき乱される。きっとこの子は知らないんだろな、
「ねぇ、もうすぐ怜さん上がりだから、そろそろ行ったら? さすがにここで三人集合するのは気まずいでしょ」
私の言葉にはっとしたように時計を見ると、陽菜は慌てて立ち上がって、休憩室を後にした。部屋には桜の残り香がまるで
怜さんはもうすぐ大学を卒業するから、陽菜と別れた後もここを続けていると言っていた。でも、分かってる。怜さんの心に誰がいるかなんて。だってずっと好きだったから。陽菜がここに入るずっと前から。だから、分かってる。今だから、怜さんが私を受け入れてくれたことも。
それでもいい。泥水だっていい。泥水が濃いほど、
カプチーノ 葵 春香 @haruka_p
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