第14話 水族館

 私はスマホの画面を見つめたまま、少しだけ迷った。


(行くって……送るべきだよね)


 すでに自分の中では決めたことなのに、指がなかなか動かない。

 穂香以外の誰かと出かける約束をすることに、まだ少し慣れなくて。


 けれど、躊躇っていても仕方がない。

 私は小さく息を吐き、画面に文字を打ち込んだ。


『水族館、行くよ』


 送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、数秒後に返信が届く。


『よかった!楽しみ!』


 シンプルな言葉だったけれど、詩織の嬉しそうな気持ちは十分に伝わってきた。

 その明るさに、私はどこかほっとする。


 私が『いつにする?』と送ると、すぐに詩織から提案があり、数回のやり取りの末、日時が決まった。


(……水族館)


 穂香とはいろいろな場所に行ったけれど、たまたま水族館には行ったことがなかった。

 だからこそ、そこにはまだ穂香との思い出がない。

 

 ──だから、いいのかもしれない。


 穂香の影を感じずに過ごせる場所。

 詩織となら、少しは気を紛らわせることができるかもしれない。


 私は小さく息を吐き、スマホの画面を閉じた。



 ──────



 休日。


 約束の時間より少し早く、私は水族館の入り口に到着した。

 普段なら、待ち合わせのときは穂香が先に来ていることが多かった。

 でも、今日は違う。


(詩織……まだ来てないみたい)


 スマホで時間を確認する。

 約束の時刻までは、まだ十分余裕があった。


 ふと、周囲を見渡す。

 家族連れやカップルが楽しそうに談笑しながら、次々と水族館へ入っていく。

 穂香となら、こういう雰囲気の中でも当たり前のように隣にいられた。

 けれど、今日は違う。


(……変な感じ)


 慣れない状況に、心の奥がざわつく。

 だけど、そのざわつきが嫌なものかといえば、そうではなかった。


「七瀬さん、お待たせ」


 聞き慣れた声に顔を上げると、詩織が小走りでこちらへ向かってきていた。

 いつもの制服姿とは違う、シンプルなワンピース。

 その雰囲気に、少しだけ新鮮さを覚える。


「ううん、私も今来たところ」


 そう返すも、どこかぎこちなくなってしまう。

 

「じゃあ、行こっか」

「うん」


 水族館の自動ドアが開く。

 ひんやりとした空気が肌を撫で、ゆったりとした音楽が耳に届いた。


 館内に一歩足を踏み入れると、目の前に広がるのは青の世界。


 大きな水槽の向こう側を、無数の魚たちがゆったりと泳いでいる。

 水面に差し込む光が反射し、幻想的な景色を作り出していた。


「……綺麗」


 思わず呟くと、隣の詩織がくすっと笑った。


「七瀬さん、水族館好きなの?」

「……うん、まあ、嫌いじゃない」


 改めて考えると、こうして水族館に来るのは久しぶりだった。

 

「よかった。私も、こういう静かな場所、結構好きなんだ」


 詩織の声は穏やかで、なんとなく落ち着く。


「ねぇ、あの魚、ちょっと面白い顔してるよ」

「……本当だ」


 他愛のない会話を交わしながら、ゆっくりと館内を歩く。

 ペンギンの泳ぐ姿に見入ったり、クラゲの幻想的な光に目を奪われたり。

 その時間は、思ったよりも穏やかで、静かで──。


(……連絡)


 私はふと、ポケットに手を入れる。

 スマホを取り出し、画面を確認しようとして──指を止めた。


 別に、何かを期待していたわけじゃない。

 ただ、いつもの癖で無意識に確認しようとしただけ。


 けれど、そこで気づく。

 私はまだ、穂香のことを気にしている。


 スマホを握る手に、力がこもる。


(……距離を置くため、だから)


 そう自分に言い聞かせながら、スマホの電源を切る。

 画面が暗くなるのを見届けたあと、私は静かに息を吐いた。


「七瀬さん?」


 詩織の声が耳に届く。

 顔を上げると、彼女が心配そうにこちらを見つめていた。


「どうかした?」

「……ううん、大丈夫」


 私は首を振る。


「そっか。なら、よかった」


 詩織は優しく微笑み、私の隣に並ぶ。


「じゃあ、次のエリアに行こっか」


 その穏やかな声に、私は小さく頷いた。

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