第23話 告発の刃を振るう
ゆったりと両手でフードを後ろに払って顔を晒すと、波のようにざわめきが引いてゆく。
おれは静けさで満たされた
国王陛下とウィンダム卿の値踏みするような鋭い視線を背中で受けながら、そっと息を吐き出す。落ち着け、焦るな。焦ってはいけない。
静かに息を吸い込んでから、張り詰めた空気を切り裂くように慎重に声を出す。
「私が証拠と真実をお持ちいたしました」
切り裂かれた静寂が崩れ落ちるのは、一瞬だった。どっと押し寄せるざわめきには、動揺と不穏が入り混じっている。再び荒れようとした大広間を制したのは、低く広がるハスコール侯爵の声だった。
「なんのつもりかね? ここをどこだと思っている」
「いけません、ハスコール侯爵。あなたのその焦燥こそが答えです」
おれはそう言って、貴族たちの中でひとり立ち上がっている侯爵に向かって一歩踏み出した。
「あなたがカルメン夫人を排除した。違いますか?」
ハスコール侯爵の灰青色の目を射抜くようにまっすぐ見つめる。侯爵の目は、少しも揺れていない。むしろ、この状況を愉しむかのように、弧を描いている。
まさか、失敗か。ハスコール侯爵がアラスターの爵位継承に異議を唱えるだろうと予想はしていた。だからこそ、迎え撃つつもりで仕掛けたのだけど、時期尚早だっただろうか。
「貴様、なにを言い出すのだ!」
「証拠もないのに、無実の貴族に濡れ衣を着せるつもりか!」
王党派の貴族と思しき貴族たちの罵声を浴びて、揺れそうになる心を支えるように、おれは奥歯をキツく噛み締めた。
ウィンダム卿の鋭く熱い視線が、おれの背中を焼いている。儀典官に扮して式典会場に紛れ込むよう手配してくれたウィンダム卿は、この状況を変えようと助けてくれるつもりはないらしい。
だから、深呼吸を一度だけ。不安を肺の中から吐き出して、冷静さを取り戻すために息を吸う。思い出せ。おれは、今、なんのために声を上げたのか。なんのために、ここにいるのか。すべては、おれに新しい
絶え間なく押し寄せる不安を押し退けた、証拠品として掻き集めた手紙の束と、筆跡鑑定書とを高らかに掲げて見せた。
「これは、カルメン夫人が王都に武器を密かに運び入れた証拠として、回収された証書です。ですが、筆跡鑑定の結果、夫人のサインは偽造されたものであることが証明されました」
「そんな馬鹿なことがあるか。その証書を回収したのは王国治安局の兵士だぞ。君は治安局の仕事を疑うのかね?」
「ですが、エドキンズ公爵邸にてカルメン夫人を反逆罪で連行していったのは、王党派に属する貴族の方々ですよね? ——違いますか、ファロン・グレイブス卿?」
「そ、それは……」と、貴族席の中から狼狽えたファロン卿の声が聞こえてくる。
「落ち着きたまえ。ファロン卿は自分の仕事をしただけだ。……ところで、その書簡が偽造されたことと、私がカルメン夫人を毒殺したということが、どうやって結びつくのかね?」
ハスコール侯爵は周囲の貴族たちを味方につけるように、腕を広げて穏やかに言った。言いがかりをつけられて困っている、とでもいうかのように眉を跳ね上げて、首を振る。
「カルメン夫人を排除しようと決めたのは、あの日、私が本物のブロウライト侯爵子息ではない、と確信したからではありませんか?」
「……なんだって?」
「カルメン夫人が逮捕される直前。あなたは私を呼びつけましたね」
「君と
ハスコール公爵は、心底申し訳ないと言っているような声色と素振りで、そっと眉を寄せた。まるで役者だ。おれが元役者でなければ、見抜けなかったかもしれない。
おれは気にしていないと示すように、ふるりと首を振った。
「構いません。あなたの目的は昼食ではなかったのだから。あのとき、私がブロウライト侯爵子息なのか、それとも偽物なのか。——試しましたね?」
「なんのことかね?」
「ハンカチですよ。ハンカチに染み込ませたのは香水などではなく、ブロウライト家が管理していた特別な毒を薄めたものだったのではありませんか」
「だから、それがカルメン夫人の件にどのような関係が……」
そう言ったハスコール侯爵が、僅かに苛立ちを見せたのを、おれは見逃さなかった。
「私がブロウライト侯爵子息の偽物であると確信したから、仕掛けたのでしょう? 私がブロウライト侯爵子息を騙る詐欺師なら、エドキンズ公爵家を恐ることはなにもない。すべて私に罪を押しつければいいのだから。事実、そうなるように王党派の貴族を使って誘導しましたね?」
「偶然だよ」
「偶然でしょうか?」
おれは余裕を見せつけるように笑って見せた。本当は余裕なんて全然ないのに。それでも笑えるのは、おれが何度も舞台に立ったことがある役者だから。大舞台で演技ができるのは、なにもハスコール侯爵だけじゃない。
大広間に集う貴族たちすべての耳に届くように、さらに声を張り上げた。
「では、次の証拠を提示しましょう」
おれはとぼける侯爵に冷たく言い放ち、一枚の紙を掲げて見せた。
「それは……なにかな?」
「カルメン夫人を殺害した毒と、私を試すためにハンカチに染み込ませた香水——いえ、毒を鑑定したものです」
「は、は、は! 毒だと? 毒だって? 私に向かってそう言ったのか?」
整列する貴族たちを押し退けて、前へ出ようとするハスコール侯爵に、
「下がってください、ハスコール侯爵! あなたの
と。凛々しく可憐な声が、侯爵の動きを制止した。エリゼがひとり立ち上がり、おれと侯爵の間に立ちはだかるように前へ出る。
だからおれは、すぐにエリゼの元へ駆け寄った。彼女の細い腰を支えるように腕を回して、震える手を握りしめる。
「エリゼ……」
「……続けてください。母様のためにも、ブロウライト侯爵のためにも」
エリゼが小さく囁いて、チラリとアラスターのほうへ視線を投げたから。ひとつ重く頷いて、ハスコール侯爵を告発する。
「カルメン夫人を殺害した毒と、私を試すためにハンカチに染み込ませた毒。そして、ブロウライト前侯爵の死因となった毒は、同じものでした」
再び、大広間がざわめいた。おれの言葉と、立ち上がったアラスターの姿にどよめいたから。
「……父が没落したから毒を仰いだ、などという噂が広まっていましたが、真実は違います。父は、無理矢理毒を飲まされたのです」
アラスターの声が静かに響いた。焦茶色の目には、真実を明らかにせんと決意する炎が宿っていた。
「ブロウライト家の異能は、皆様もご察しの通り、毒に関するものです。毒への耐性と識別。この異能を持って、代々王家に仕え、毒見役を担って参りました。ですが、隠されたもうひとつの異能があります」
「隠された……
「毒を生成する異能」
アラスターの静かな告白に、会場中の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。
「毒への耐性を持つブロウライト家の人間を毒で殺すことはできません。ですが、唯一の例外があります。それこそが、ブロウライト家が管理する特殊な毒……私の父と、カルメン夫人を殺害した毒です」
「そんな危険な毒を、なぜ保有している!」
声を荒げるハスコール侯爵にも、アラスターは冷静に言葉を返す。
「その毒は、我々ブロウライト家が存在した証です。歴代当主の血液から生成される毒。我らの亡骸の跡に、毒が成るのですから」
「カルメン夫人はともかく、ブロウライト前侯爵は……エリオット・ブロウライトは自殺だ! 貴様は私がエリオット卿を殺したとでもいうのか! なぜ私が殺さねばならぬ?」
ハスコール侯爵が唾を飛ばしながら叫んだ。余裕なんて、とうに失われていたらしい。腰に下げた儀仗剣の柄を握りしめ、今にも抜かんとする様は、貴族の鑑としての仮面が砕けてしまったかのよう。
「邪魔になったから」
おれの言葉に、ハスコール侯爵がカッと目を見開いた。
「証拠があると言ったでしょう。……エドキンズ前公爵の手記に詳細な記録がありました。もちろん、すべて裏は取れています」
「手記はここにある」
ウィンダム卿が、懐から茶革表紙の手帳を取り出して掲げてみせた。ナイスアシスト。おれはウィンダム卿に頷きを返して、ハスコール侯爵を追い詰める。
「あなたは、前侯爵が王党派の『駒』として動かなかったことで焦り、エドキンズ前公爵と接触したことに危機感を抱いた。だから、ブロウライト侯爵家を没落させ、前侯爵の側近であったことを利用してブロウライト侯爵家が管理していた毒を密かに持ち出した」
「違う! まるで事実と違うぞ!」
ハスコール侯爵は怒りに震えていた。離れていても歯軋りする音が聞こえてきそうなほど強く、奥歯を噛み締めている。
「私はエリオット卿を解放したかっただけだ。いくら異能があるとはいえ、危険な毒味役など……そんな些細な望みを叶えたかっただけにすぎない!」
「あなたが信じたいのは、今でもエリオット・ブロウライト卿を一途に慕い続ける自分でしょう。あなたが毒を呑ませたのに。いえ、あなたが毒を呑ませたから、そう信じたいのですか?」
侯爵からの反論はなかったから。好機とばかりに、おれは畳み掛けるように言葉を投げつける。
「あなたは自分の思い通りにならなかったブロウライト前侯爵を毒殺し、あなたの罪を知ったカルメン夫人もまた殺したのです」
「貴様……!」
それまで耐えてきたハスコール侯爵が、感情のままに儀仗剣を引き抜いた。儀式用の飾りの剣であるはずの儀仗剣が、天井から降り注ぐ光を浴びてぎらりと輝く。まずい、あの剣は刃が潰れていない。
「それ以上の無礼を言うなら、命の保証はできんぞ!」
ハスコール侯爵の獣のような振る舞いに、側にいた紳士や淑女たちが悲鳴を上げて避け出した。それは侯爵のために道を開けるかのように二つに割れて、怒りで顔を赤く染めた侯爵が、おれに向かって駆けてくる。
「ハスコール侯爵、おやめください!」
侯爵の振る舞いを咎めるアラスターの声が聞こえる。この期に及んで、まだ侯爵に未練があるのかよ。言いようのない怒りがおれの腹の底を真っ黒に焦がす。
上等だ、迎え撃ってやる。と覚悟を決めた次の瞬間。ハスコール侯爵の刃が、おれではなく、傍らで震えるエリゼに向けられた。
「させるか!」
反射的に身体を投げ出して、おれはエリゼを凶刃から庇う。襲撃されるのは、これで二度目だ。一度目はエリゼを奪われた。だからこそ、二度目は奪わせない。
「邪魔をするな、お前もエドキンズ公爵と同じか! あいつがいなければ、エリオット卿は……エリオット卿は今頃、私とともに——!」
ハスコール侯爵の魂の叫びとともに、ぎらつく刃が振り下ろされる。一秒が一分に引き伸ばされて、一分がまるで一時間のよう。
鈍色の刃には、侯爵の歪んだ顔が写っている。アラスターがこちらに駆け出そうとする姿と、腕に抱いたエリゼの瞳から大粒の涙が溢れているのが見えた。
「イアン、受け取れ!」
短い叫び声。アラスターだ。アラスターが腰に佩いた儀仗剣を鞘ごと抜いて、おれに向かって投げたのだ。ひゅ、と風を切りながら宙を舞う剣。ようやく覚悟を決めたのか。きっと、これは、アラスターの意志だ。侯爵との決別をようやく決めた、アラスターの。
アンタの思いを決して無駄にはしない。おれはひどく冷静に頭を巡らせながら手を伸ばし、アラスターが寄越した儀仗剣を受け取った。
「その傲慢さが、破滅を招く——」
かつてハスコール侯爵から投げつけられた言葉を返すのと同時に、剣を素早く引き抜く。剣戟の音が一度きり。鋭い音が響いて、侯爵の剣が、おれの、いや、アラスターの剣に弾かれた。持ち主の手から離れた儀仗剣が、乾いた音を立てて床の上を転がってゆく。
「……これで終わりです」
静かに告げると、ハスコール侯爵のギラついた目から、力が抜けてゆくのがわかった。血の気が引いた顔は、この数分で十年ほど歳を取ったかのように老けて見える。
静まり返った大広間は、誰もが呼吸を止めていた。やがて、ハスコール侯爵は呆然とした顔のまま、駆けつけた近衛兵に腕を掴まれ、王城の闇の中へと引きずられてゆく。
おれは腕の中に匿ったエリゼが無事であることを確認した途端、膝の力が抜けてその場にへたり込んだ。ああ、終わった。これで終わった。これで、アラスターとカルメン夫人の名誉を回復させることができただろうか。
「イアン……感謝する」
「いや、おれも助かった。ありがとうアラスター」
駆けつけてくれたアラスターの顔は、怒っているようにも、今にも泣き出しそうにも見える。
「ありがとう……母のことも、あなたのことも、わたし、ずっと信じていました」
エリゼの笑顔は涙で濡れていた。頬を伝う雫が胸元のドレスに小さな染みを作っている。
二人の顔と体温を久しぶりに間近で感じたおれは、どうしようもなく安堵を覚えて嗚咽が止まらなかった。
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