第7話 一年AB組
人の思考というのはつくづく不思議なものだと思う。
だれかにやれと言われると途端にやる気が失せるが、やるなと言われたら沸々とやる気が湧いてくる。
まさかこの俺が、学校で真面目に勉強しているなんて!
自分でも驚いている。あらためて今までの学校生活を振り返ってみると、勉強よりも遊んでいた記憶の方が多かった。本当に、なにをやっていたんだ……。
勉強はどちらかと言わずとも嫌いな部類だが、月曜から金曜まですべて自習にされると、いや、自由時間と言っていい、どちらにせよ学校に通っているにもかかわらず学校側から一切学ばせない態度をとられると、焦燥に駆られておのずと勉強をしている自分がいた。
いやはや不思議なものだ。
幸い、授業は行われないものの教科書は全教科きちんと配られたので俺はオリジナルの時間割表を作り、それを見ながら教科書と筆記用具を鞄に入れて学校に通う日々を送っている。
そうだ! 俺は今、自分の意思で勉強しているのだ! すばらしい!
そう吐露したくなるほどの心境の変化に我ながら驚き、こんな環境でも人並みの充実感を得ることができていた。ただ……。
「こっちがコロッケ。で、こっちがコロッケ」
「ここを、こうして……これで……よし」
「zzz……殺す……zzz……殺zz……」
「ハァッ! ヤァッ、セイッ! セリャァッ!」
ほかのクラスメイトは、自習という名の自由にどっぷりと浸かっている。
新茶はよくわからないコロッケ品評会を机上で開催し、エマは道徳の教科書の隅でパラパラ漫画を制作し、鬼ヶ島は殺害予告を口走りながら寝息を立て、アリスにいたっては席にも着かず教室のうしろで持参したサンドバッグをひたすら殴っていた。
一応、これでも現世での授業風景だ。それも一時間目の。
担任の梶原もいるにはいるが、教室の日の当たる窓際でパイプ椅子に腰をおろして黙々と競馬新聞を読んでいた。
シュールどころか、はっちゃけすぎている。
気にしてなるものかと机にむかって現代文の教科書(オリジナル時間割表では今日の一時間目は現代文となっている)を睨みつづけているが雰囲気がやかましくて集中できるわけもなく、俺は教科書を閉じた。
「なあ。おまえらは勉強しなくていいのか?」
周囲に聞こえるように問うと、隣のエマの肩がビクッとはねた。そのほかはたいして反応しない。手を止めたエマが弱々しく言う。
「そ、そうだよね……自習だからって好きなことをしていいわけじゃないよね……」
「あっ!? べつに説教しているわけじゃないんだよ? なんとなく気になっちゃっただけだからね? それに悪いのは全部梶原だから! エマは何にも悪くないからね?」
教室の隅から「普通、本人がいる前で言うかね……」と聞こえてきたが、知ったことか。
シュンとするエマに思わず罪悪感が湧いてしまう。するとサンドバッグの音がやんだ。
「勉強なんて家でやればいいのよ」
アリスのほうへ振りむく。
「いやいや家って……じゃあ聞くけど学校はなにをする場所なんだ?」
「勉強よ」
「意見をまとめてから発言してくれる?」
「本当に愚かね。まるで本質が見えていないわ」
「本質だ?」
アリスは俺たちの席を横切ると教壇にあがり、まるで教師にでもなったかのように教卓に両手をついた。
「テル。今から私の質問に答えなさい。あなたの言う『学校は勉強するところ』という意見には私も同意するけれど、生徒はたったの五人、担任は職務放棄、時間割表はすべて道徳、まるで隔離されているかのように学内の隅に配置されたクラス……これらの要素を含むこの場所をはたしてあなたは“学校”と呼べるのかしら?」
「…………」
ぐうの音も出なかった。
そのとおりとしか言えなかった。この空間はもはや学校として機能していない。
まるで俺の思考を読み切ったかのようにドヤ顔で勝ち誇るアリス。
「これでわかったようね。それに今のあなたはただ不安に駆られて勉強をやっているだけ。なんのためにやっているのかもわからない勉強なんて身になるわけがないわ」
……ことごとく痛いところを突かれた俺の心はもう持論を構える余裕はなかった。
たしかに不安はあった。
ここの教室棟にいる一般的な生徒たちと同じ行動をしていることで不安を拭おうとしていた。今までろくに勉強してこなかったくせに。
でも、くやしい。なにか言い返したい。
「……いや! それでも俺はここで勉強してやるね!」
「あらそう。そこまで言うのなら止めはしないわ」
意外とあっさり引いたな。
そう思っているとアリスは、競馬新聞を読んでいる梶原に声をかける。
「質問です。いつまで学校で勉強されていましたか」
「おー、俺かー。俺は大学院までガッツリと勉強していたぞー」
それを聞いた俺はうなだれた。
「…………俺、やっぱり勉強やめるよ」
「理解してくれたのね」
「え? どゆこと?」
勉強だけですべて上手くいくわけではないことを、競馬新聞を広げた彼から勉強した。俺は力なく椅子に体をあずける。
「じゃあここでなにをすればいいんだよ……」
「なにを言っているのよ。やりたいことをすればいいじゃない」
そうアリスは告げ、つづける。
「このAB組は学び舎としては機能していないけれど、ここまで自由な時間と空間を高校生に提供できるクラスはほかを探してもそうはないわよ。だったら普通の高校生活を送ろうとはせずに、普通では決して送れない高校生活を送ればいいじゃない!」
普通では決して送れない高校生活、か。
「あのう。俺、普通の高校生活を送りたいんだけど?」
「それはもう詰んでいるわね。諦めなさい」
「そんなバッサリと」
「ほかにやりたいことはないのかしら」
「……うーん」
俺は頭を悩ませながら考え込む。
「青春を謳歌する、とか?」
「青春ねえ……具体性に欠けるわね。あなたのいう青春とはどういうものなの」
「そう言われると、たとえば……恋愛とか?」
「諦めなさい」
「返し早くね?」
「マッチングアプリに登録するといいわ」
「扱い酷くね?」
「はい。次」
「テンポ早くね?」
あまりのテンポのよさに脳内でひと笑いが起きていた。
でも青春を感じるときか……そういうときってだいたい一人じゃないような。
「みんなで……」
――みんなで、なにかをする。
そう言おうとしたけれど途中で言葉を飲み込んだ。
彼らとなにかするのはまずいんじゃないか? だってそうだろ、こんな面子で集まってなにかしたら十中八九、トラブルが起きる。そんなことに巻き込まれたくない。
だが、時すでに遅し。
「なるほどね。『AB組のみんながやりたいことをAB組のみんなでやって、AB組のみんなが思ったことをAB組のみんなで考える。共に行動し、共に思考する。それらがきっといつしかかけがえのない青春の思い出になるはずだから』と、テルは言いたいのね」
「『みんなで』の四文字からよくそこまで脚色できたな……」
それを聞いていたエマが嬉しそうに言った。
「ぼ、僕もテルくんの意見に賛成だよっ!」
俺の意見じゃないんだけどね。
「俺もテルに賛成だ……」
いつの間にか起きていた鬼ヶ島も同じく。俺の意見じゃないけどね。
「マジか!? これ、コロッケじゃなかった! メンチカツだ! うん、うまい!」
おまえだけなにを言っている?
アリスが深々と頷く。
「流石ね、テル。行き先も見えないAB組の進路をたった一つの意見でいともたやすく導くなんて。私が見込んだだけのことはあるわ」
ほぼおまえの意見だけどな。
そしてアリスは、意気揚々と教壇からクラスメイトに発表する。
「みんなそういうことだから。今日の自習時間から『みんなでやって、みんなで考える』という方針が組み込まれます。以後、AB組でなにかやりたいことがあれば、みんなの前で提案してください。その提案の可否は多数決または協議で決めることとします。では今から多数決を取りたいと思います。この方針に賛成の方、挙手をお願いします」
エマ、鬼ヶ島、新茶は挙手をした。
もちろんアリスも。
「挙げてないのはテルだけよ。べつに挙げなくても結果は同じだけれど、どうするの?」
はじめてAB組のみんなでやることよ、と言われているような気がした。
「……仕方ねえな」
俺は諦めて、AB組全員の手が挙がった。
「決まりね」
教室の隅で競馬新聞をめくりながら梶原が「青春だねえ」と呟いているのが聞こえた。
「じゃあさっそく俺からやりたいことがある」
「あらテル、積極的じゃない。さあ言ってごらんなさい」
「勉強したい人は手を挙げてくれ」
――そのあと五分は粘ってみたが、プルプルと俺の手が震えるだけだった。
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