4-5
◯
歯形だらけの死体を、思い出す。
小さな歯形だった。
まるで——少女が齧り取った後のように、小さな。
それは、それは——
「私の口が」
求めるんだ、と。
彼女は言った。
「人を食べたい、って」
堪らなくなるんだよ——と、彼女は俯いた。
「十五歳を迎えたその日、私は——火車として、目覚めた」
初めは、びっくりしたよ、なんて彼女は語る。
「体から、なんか火が出てくるし。お気に入りの服が燃えちゃって、ショックだったな」
でも、そんなの序の口だった。
彼女は語る。
「お腹が空くんだよ」
食べても、食べても——
どれだけ食べても、満たされない。
「飢えて、乾いて」
何がそれを埋めてくれるのか——だんだんと、わかってくる。
「ねぇ、伊江郎くん」
君はさ。
「自分の母親を、美味しそうと思ったことはある?」
私は、あるよ。
それは、想像を絶するような告白で。
ぼくは何も——言えなかった。
「お腹が空いて、苦しくて、辛くて——そんな時に、ふとね」
気が付けば——母親に噛み付いていた、と。
彼女はそう語った。
「無意識なんだ。本当に、当たり前に、目の前にあるおやつに手を伸ばすみたいに簡単に——お母さんを、食べようとした」
そして、思い知った。
「私は、人間じゃないんだ、って」
眦から、煙が立つ。こぼれ落ちた涙が、頬に灯る炎に炙られて、蒸発していた。
「伊江郎くんは、良いよね」
同じ、妖怪のハーフなのに——
「きっと、人を食べたくなんて、ならないんでしょう?」
言ってたもんね——
人を殺す人間の気持ちなんて、わからないって。
「私はね、わかるよ」
お腹が空くんだ。
お腹が空いて、空いて、空いて空いて空いて空いて空いて——
目の前に。
人間が現れる。
「みんな、普通に生きてるんだよ」
当たり前に。
自分が生きていることを肯定しながら、生きている。
自分が、生まれてくるべきじゃ無かったなんて、そんなこと、一度も思ったことのないような奴らが、平然と生きてる。
「それが、許せなくて」
ただ生きてることが。
幸福に、生きていることが。
当たり前に、生きていることが。
どうしようもなく憎らしくて、そして——
「殺すんだ」
そして、その死体を貪る。
当たり前を。
幸福を。
生きてることを。
穢して。
喰らう。
化け物として。
人間を——喰らう。
「人間なんて、大っ嫌い」
だから——食べてしまいたい。
彼女は歪んだ顔で、笑った。
「どうして、違うのかな」
普通の人と、異常な私は。
「同じだと思っていたのにね」
同じ人間だと思っていたのに。
どうしようもなく、違った。
「どうして、同じじゃないんだろう」
伊江郎くんと、私は。
「同じように、混じり物なのにね」
人間と妖怪のハーフで。
人間から外れた、化け物で。
仲間なんじゃないかと、思ったのに。
「私と君は、全然違う」
彼女は言った。
「伊江郎くんは、良いよね」
ずっと、見てたよ。
だから、わかる。
「君は恵まれている」
私と違って。
恵まれている。
「頼もしいお父さんがいて、良いよね」
私の父親みたいに人喰いじゃない。
それどころか——妖怪たちから人間の世界を守る、鴨川の守護者だ。
「格好よくて、羨ましいや」
彼女は笑う。
「優しいお母さんがいて、良いよね」
私のお母さんみたいに——化け物の子供を、罵らない。
「良いよね、伊江郎くんは」
家族がいて。
友達がいて。
師匠がいて。
人を食べたくなんて、ならなくて。
「自分は人間だって、胸を張って言える」
羨ましい。
彼女は、ぼくを睨みつける。
「君が羨ましいよ、伊江郎くん」
彼女は——心の底から妬ましそうに、ぼくを見た。
「図書館でさ、話、聞いてたよ」
思い返すように、遠くを見ながら、言う。
「『お前が河童になっても、ずっと友達だから』なんてさ——そんなことを言ってくれる友達がいるなんて、信じられない」
受け入れてくれる人がいて、羨ましい。
「その上で、河童になるくらいなら、死んだほうがマシだ、なんて、言えてしまって」
その強さが、妬ましい。
「私はね」
彼女は、己の胸に手を当てる。
「私のことが大っ嫌い」
人喰いの化け物の血を引く自分が、心の底から大嫌いで、それでも——
「死にたくは、ないよ」
死ぬのは怖い。
自分なんて大っ嫌いで。
消えてしまえば良いと思って。
それでも、死にたくはない。
死にたくはないから——
「私は、
君みたいに。
妖怪に成り果てるくらいなら死んだほうがマシだなんて。
そんなことを思える強さは、どこにもなくて。
だから——
「君のお父さんに退治されそうになった時も、それを返り討ちにしたんだよ」
君のお父さんを痛めつけたのは。
「私なんだよ、伊江郎くん」
彼女は全てを、告白する。
「君のお父さんは、立派な人でさ。私が人を殺してるって、すぐに気付いて」
そして私が、もう引き返せないところにいるって、わかって。
「私に引導を渡そうとした」
正直ね。
「死んじゃっても良いかなって、思ったんだ」
死んじゃっても。
殺されても。
退治されても、いい。
いいや、そうされるべきだ。
だって、自分は化け物なんだから。
そう思って、だけど。
「死にたくないんだ」
死にたくなくて。
必死になって、命乞いをして。
そして、それに情けをかけられた隙を突いて、返り討ちにした。
「優しい、良いお父さんだよね」
人喰いの化け物にさえ——息子の友達であるからと、情けをかけられる。
「私がなんとかする、なんてさ」
できるわけもないのに言っちゃって。
「格好よくって、羨ましいよ」
許せないくらい。
殺したくなるくらい、羨ましい。
「もうすぐ、目覚めるんだってね」
伊江郎くんの、お父さん。
目覚めたらきっと、今度こそ。
「私を退治するんだろうね」
鴨川の守護者として。
秩序を守るために。
人を守るために。
家族を守るために。
「ヒーローみたいに」
人喰いの化け物を、退治する。
「そんな格好良いお父さんがいて、幸せだね」
伊江郎くんは、幸せだね。
私と違って、幸せだね。
「どうして私だけが、こんななのかな」
誰も彼も。
当たり前に幸福に、生きている中。
私が。
私だけが——
どうしようもなく、不幸で。
「苦しいよ、伊江郎くん」
私は。
私は君みたいになりたかった。
「君みたいに、ちゃんとしたお父さんとお母さんがいる家に生まれたかった」
彼女は一歩、こちらに近付く。
「君みたいに、妖怪になっても受け入れてくれる友達にいて欲しかった」
彼女はもう一歩、こちらに近づく。
「君みたいに、行くべき道を指し示してくれる師匠が欲しかった」
彼女はまた一歩、こちらに近付く。
「君みたいに、妖怪になるくらいなら死んだほうがマシだって言える強さが——欲しかった」
それが、無かったから——私は。
一歩、踏み出す。
「私は、化け物になっちゃったよ」
助けてよ、伊江郎くん。
「君を食べたくて、たまらないんだ」
にゃおん。
それは、酷く愛らしい悲鳴のようで。
それがどうしようもなく痛ましかったから——ぼくは。
「うるせぇな」
と。
彼女を——突き放した。
「ふん、なんだ。ぼくが羨ましいだと? ふざけるなよ、瀬来目潤果」
ぼくはな。
「ぼくはお前が羨ましいよ」
「は——? それ、どう言う——」
「良いよな、お前は」
人を食べたくなるだなんて——
「そんな格好良い悩みで悩めて」
ぼくは心底——彼女が羨ましかった。
「ぼくもどうせ悩むなら、そんな悩みで悩みたかった」
人と化け物の間で、思い悩むなら。
どうせなら、そんなシリアスな苦悩を覚えたかった。
「お前の知らないことを教えてやろう、瀬来目潤果」
ぼくは胸を張って——言う。
「十五歳を迎えたその日から、ぼくはだんだんと河童に近付いている」
確かに——ぼくは人を食いたくなんてなったことがない。
せいぜい、きゅうりが猛烈に食べたくなるくらいのものだ。
だが、その代わりに。
「河童に近付く、そのリスクはなぁ——!」
ば——と。
頭を掻き分けて。
それを、見せる。
円形の。
ツルツルとした——ハゲを。
「髪の毛が抜けていくんだよ!」
河童に近付けば、近付くほど。
ぼくの髪は抜けていき、そして。
「ハゲるんだ」
頭に。
ツルッツルの。
真っ白い。
綺麗な皿が——出来てしまう。
「その辛さが、お前にわかるか」
わからないだろう、瀬来目潤果よ。
人を食べたくなるなんて。
そんな格好良い悩みで苦しめるお前には。
ぼくのように、髪の毛がハゲるかハゲないかなんて、そんなダサい悩みで苦しんでいるぼくの気持ちなど——わかるはずもない。
「な——何それ」
彼女は衝撃を受けたように、目を丸くする。
「ハゲるぐらいが、何!? 良いじゃん、そんなの! 何が気に入らないの!? 私は、私なんて、私、人を、人を殺して、食べなきゃいけないのに——!」
「人を殺してハゲが収まるならぼくだって人を殺したいわ」
「な、何言ってんの!?」
ハゲたくないんだ。
何があっても、ハゲたくないんだ。
ハゲるくらいなら、もう死んだほうがマシなんだ。むしろ、殺すほうがマシなんだ。
心の底から嫌なんだ。
「良いよなお前は。誰にだって伝わるよな、その辛さは。人を食べたくなるなんて、苦しいよな、辛いよな。この世の誰もが、お前の辛さを認めるだろう。その苦しさを認めるだろう。許すかどうかは知らん。だが、苦しみに同情はするだろう」
翻って、ぼくは。
ぼくの、ハゲは。
「誰にも相手にされないんだよ」
髪の毛が、ハゲる。
ぼくに取っては、魂が引き裂かれるように辛いことなのに。
それを言えば、返ってくるのは「え、それだけ?」なんて反応だ。
もしくは、失笑。
ふざけるな。
笑うんじゃない。
人のハゲを笑うな。
こっちはな、真剣に悩んでるんだぞ。
「まだ十代なんだぞ、ぼくは」
花の高校生だ。
それがどうして、ハゲの恐怖に怯えなくてはいけないのだ。
「ハゲたくないんだ」
ハゲたくない。
ハゲないためだったら、ぼくは人だって殺して良いと思っている。
それくらい、ぼくはハゲたくない。
「そ、そんなのおかしいでしょ!」
そうだ。
誰もが、そういう。
「ハゲるくらい、良いじゃん! 別に、死ぬわけでもないのに——」
ハゲるくらい、良いだろうと。
何が気に食わんのだと、誰もがいう。
ハゲたくないというその気持ちを、わかってもらえない。
その苦しみを、真剣な苦しみとして受け止めてくれない。
なんなら、ちょっと面白い話みたいにさえ扱われることもある。
ふざけるな。
「ハゲることが、どれだけ苦しいことなのかもしらない癖に——!」
ぼくが、羨ましいだと?
舐めたことを言うのも大概にしろ。
ぼくがどれだけ苦しんでいると思っている。
ハゲないために。
好物のきゅうりも我慢して。
目指していた水泳選手だって諦めて。
ぼくは、ぼくは、ぼくは——
「河童の息子になんて、生まれたく無かったわ!」
ぼくは叫ぶ。
生まれながらにハゲの宿命を背負わされることの苦しみを。
糺の森に、ぼくの汚い声がこだました。
潤果は、理解できないものを見るような瞳でぼくを見る。
そうだ。
そんなものだ。
当たり前の話なのだ。
他人の苦しみなんて、わからない。
理解できない。
ぼくだって。
潤果の苦しみは、これっぽっちも理解できない。
だからこそ——
「……なんなの、それ」
ふざけないでよ。
潤果は——怒りを燃やす。
その肌に這う、青い炎が。
極限まで、燃え盛る。
揺らめくような陽炎が、彼女の姿をぼやかした。
「私の苦しみを、ハゲなんかと一緒にしないでよ」
彼女の手に——鉤爪が生まれる。
じゃらりと。
まるで大型のナイフのようなそれが、ずらりと十指に並ぶ。
「私は、辛いんだ」
苦しんでいるんだ。
耐えられないんだ。
「それを、馬鹿にして——」
許せない。
彼女は言って、ぼくに。
殺意を込めた、瞳を向ける。
だから、ぼくは。
「それはこっちのセリフだ」
それを、真正面から受け止める。
苦しみを比べることなんて、不可能だ。人間がアメーバのように連なる群体ではなく、独立した個として生きる生命体である以上、真の意味で、他人の気持ちを理解することなんてできない。
どこまでいっても人間は主観で生きるしかなくて、どこまでいっても、自分一人の価値観で物事を図る以外にない。
人間はどうしようもなく、孤独な生き物だ。
だからこそ。
「終わりにしよう、潤果」
ぼくは言って——シャツを脱ぎ捨て。
上半身裸になった。
さらに。
「今日で、全てを終わりにするんだ」
ズボンも脱いだ。
ベルトを外して、ずるっと。
ズボンを脱ぎ捨て、靴も脱ぎ。
靴下すらも脱ぎ捨てて。
ぼくはパンイチになった。
パンツ一丁。ほぼ全裸。
外気に触れて、乳首が立った。
ちょっと恥ずかしかった。
「……ふざけてるでしょ」
「ふざけてなどいるものか」
これが、ぼくの正装なのだ。
ぼくが本気で戦うための、正装なのだ。
「潤果——お前が全てを正直に話してくれた、その覚悟を見込んで、ぼくもまた、お前に全てを見せてやる」
十五歳の誕生日を迎えた日から、ぼくの体は河童に近付いている。
河童としての血が、目覚めたのだ。
河童の血が目覚めるとは、どういうことか。
「ぼくは、河童に変身できる」
ハゲるリスクと、引き換えに。
「行くぞ、潤果」
そしてぼくは——ポーズをとる。
足を肩幅に開き。
片手を腰の横に落とし、握り拳を作り。
もう片方の腕を、胸の前へ交差するように突き抜けさせて、斜め四十五度上へ、高く掲げ。
かつて憧れた、ヒーローのように。
「変身」
ぼくは、高らかと——始まりを告げた。
いざ、ここからは。
水のように、優しく。
花のように、激しい。
カッパドキア・ハゲリスクタイム。
「うぉおおおおおおおおおっ」
喉の奥から、叫び声が上がる。
変化は指先から巻き起こった。
爪が硬く伸び上がり、鋭い鉤爪に。
指の間に膜が張り、水棲を表す、水掻きが形作られ。
肌にはエメラルドグリーンの鱗が生え、腕を手甲のように覆う。
「あああああああっ!」
筋肉が膨れ上がり、体が一回り大きく変わる。甲殻じみた鱗が鎧のように体を覆い、また要所要所を棘が飾る。肘や膝には、刃のような鋭い鰭が、肩口からは蝙蝠の翼のような鰭が、それぞれ生え揃い。
背中には、硬い——盾のような甲羅が生まれ、その下部には、激流を制する為のジェット噴射器官が生成される。
「があああああああっ」
顎には髑髏の嘴。ジャキジャキと生え揃った牙がガチリと火花を散らし、隙間なく閉じる。
顔の周りも、くまなく鱗が覆い、そして——
「これが——河童の姿だ、潤果」
それは奇しくも、幼少の頃に憧れた変身ヒーローのような姿で、けれど決定的に醜悪なのは、それが間違いなく生身の肉体であるということだ。
何より、まだ。
この姿は、まだ完成ではなく。
頭から。
凄まじい勢いで——髪の毛が抜けている、真っ最中だった。
はらりはらりと、髪の毛が落ちていく。
タイムリミットは、三分。
三分を、過ぎれば。
ぼくの髪は全て抜けきり——頭に。
ツルッツルの。
真っ白い。
めっちゃ綺麗な——皿が。
形作られて、しまう。
ゆえにこそ——この姿になることを、ぼくはハゲリスクタイムと呼んでいる。
「お前がなりたいと言った河童はな——こんなにも醜く、悍ましいんだ」
「……何が? 普通にかっこいいじゃん。ずるい」
「お前とは分かり合えないことがわかった」
初めから知っていたことだが。
ぼくはため息を吐いて、深く腰を落とす。
「悪いが、時間がないんでな」
初めから、トップギアで行かせてもらう。
ぼくは言って、膝に手を添えたまま、片足を高く、高く高く——振り上げた。
「八景妖異」
のこった。
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