愛憎のプロパガンダ

 ベランダにみような物音を聞いた気がして、どりかなめは目をました。

 チカンかしら?

 彼女はまくらもとましけいに手を伸ばした。三年近くあいようしてきた、英国製のペンギン時計だ。

 もう七時過ぎだ。朝日がまぶしい。こんな朝っぱらにチカンはないだろう。

「う~~……」

 かなめはむくりと起き上がり、れぼったいまぶたをごしごしとこすりながら、パジャマ姿すがたのままマンションのベランダに出た。

 エアコンのしつがいの上に、近所のしろねこが乗っていた。

「にゃあ」

「あ。おはよー……」

 猫はしばらく彼女をながめ、となりの部屋のベランダへと立ち去った。

 かなめはのろのろとシャワーをびた。ぬるま湯を浴びているうちに、しきがもうろうとしてきて、あやうくよくしつの中でねむってしまうところだった。

 なんとかだつじよまでい出して、はだかのまま、こしまでとどくくろかみいているうちに、だんだんと目が覚めてくる。せんがんませ、下着をえらび、せいふくを着る。

 三分間、かがみをのぞく。

 ほっそりした、線の薄い顔。だまっていると、どこか冷たく、大人おとなびて見えた。

「ふっ。はっはっはっ……」

 わざわざ笑ってみると、なんとかあいきようが出てきた。まあ、こんなところだろう。

 朝食をとってからみがき、かばんの中身をそうてんけんした。

 ちようせい手帳、PHS、リップスティック、コンパクト、コットン・パフ、ティッシュ、ハンカチ、バンドエイド、ベビー・オイル、つめみがき、あめだまつうやく……。

 すべて問題なし。

 引き出しから金色のうで時計を取り出し、左手首にける。高校生にはいささかいな、アダルトなしようだった。

「……うっし、かんぺき

 彼女はつくえの上の写真立てに目を向けた。写真の中で、三〇過ぎの女性が微笑ほほえんでいた。しっとりとしたいんしようの美女で、はなだちがかなめによくている。場所はどこかのかいがんで、九歳ほどの少女をいていた。

「じゃ、行ってくるね、母さん」

 かなめは写真に向かって微笑むと、いつもと変わらぬつうがくへと出ていった。

 さあ、急ごう。一時限目はぶんの小テストだ!

 

 ベランダにしんな物音を聞いた気がして、相良さがらそうすけは目を覚ました。

 てきか?

 彼は枕元の九ミリけんじゆうに手を伸ばした。三年近く愛用してきた、オーストリア製のグロック19だ。

 時計を見ると、朝の七時二分だった。

「…………」

 相良宗介は音もなくから這い出し、聞き耳を立ててから、思い切ってベランダにみ出した。

 向けたじゆうこうの先、エアコンの室外機の上に、黒い猫がちんしていた。

「にゃあ」

「…………」

 猫はしばらく彼を眺め、隣の部屋のベランダへと立ち去った。

 そろそろ出かける時間だ。

 彼は朝食をとった。ハム一切れとトマト一個、ミネラル・ウォーター、塩ととうが一つまみ。なかなかごうな朝食だった。中央アジアのせんじようで、一週間近く飲まず食わずだったけいけんを思い出せば、なおさらのことだ。

 続いて、宗介はみじかに洗面と歯磨きを済ませた。

 三秒間、鏡をのぞく。

 きびしくまったむっつり顔。適当にり込んだ黒髪。するどい目付きで、けんにしわを寄せ、口はへの字に引き結んでいる。

「…………」

 顔色・はだに問題はない。ないぞうかんけんこうだ。

 彼はそうの点検を始めた。

 自動拳銃、リボルバー、コンバット・ナイフ、アーミー・ナイフ、げナイフ、しゆりゆうだん、スタン・グレネード、プラスチックばくやくばんのうデジタルつうしんあんスコープ、とくしゆたいじんらい、サバイバル・キット、だんやくかくしゆやくぶつ……。

「……よし。完璧」

 いまや、出発のじゆんととのった。

 彼はかべりつけた写真に目を向けた。

 色あせた写真の中で、めいさいふくの男たちがならんでいた。傷だらけの強襲機兵アーム・スレイブの腕にこしかけ、自動しようじゆうかかげている。

 彼はその場ですじを伸ばした。

「では、行ってくる」

 相良宗介はえりの学生服にそでを通し、教科書とノートを鞄に詰め、朝の通学路へと出ていった。

 さあ、いを入れよう。一時限目は古文の小テストだ!


    ●


 かなめは東京こうがいけいおうせんせんがわ駅で電車をりた。

 女子大や短大、高校などが多いいきのため、ホームは若い女の子が多く、つうきんまえのサラリーマンと半々、といったところだった。

「千鳥さん!」

「ん?」

 駅のホームで彼女をび止めたのは、ハンサム顔の少年だった。かなめと同じじんだい高校の生徒だ。

「あ。しらくんだったっけ? おはよ」

 かなめはそっけないあいさつをして、相手に背中を向けた。

「待ってよ。きのうの話、考えてくれたんだろ? へんを聞かせてよ」

「なんのこと?」

「俺とさ、付き合ってしいって言ったじゃないか」

「おー、そのけんね。ダメ。ボツ。きやつ。あしからず」

 すたすたとその場を立ち去ろうとする。

「ちょ……待てよ!」

 白井なにがしは、彼女のかたを後ろからつかんだ。かなめはこつかいそうな顔を見せて、

「しつこいわね。ヤだって言ってるでしょ?」

「なんでだよ!? いまの彼女とも別れるからさぁ……」

「ンなの知ったこっちゃないわよ」

 かなめは相手の手をはらいのけた。それでも相手は食い下がり、

「待てって言ってるだろ!」

 今度は彼女の手首をらんぼうにつかんだ。

「いたっ……!」

「この俺がこれだけたのんでんだぞ!? すこしはマジメに考えろよ。俺は本気で……お?」

 くびすじにひんやりとしたかんしよくをおぼえて、白井はだまり込んだ。

「…………な?」

 いつのまにか、彼は何者かに後ろからはがいじめにされて、首にえいなコンバット・ナイフをきつけられていた。

「そこまでだ、あやしいやつめ」

 それ以上に怪しいナイフのあるじは、おごそかにげた。かなめはそれを見て、

「あ、ソースケ。おはよ」

 と、あいさつした。

 白井の肩の向こうに、れた顔が見えかくれしている。

 むっつり顔にへの字口。陣代高校の学生服。彼女のクラスメートの相良宗介だった。

「千鳥。この男は?」

「きのうね、ほうに声をかけられた二組の白井くんって人。それだけだよ」

ちがいないか?」

 宗介は耳元でささやいた。相手は小さく何度もうなずいて、

「……そ、そうだよ」

「なぜ彼女に近付いた。せいもくてきか? ゆうかいか? つつみ隠さず、すべて話せ」

「は……はあ? ひっ……!」

 氷のようなさきが数ミリ、はだに食い込んだ。

「俺はすべてを話せと言ったのだ」

 かなめは青ざめた白井のようを見るに見かねて、宗介をなだめにかかった。

「いいの、ソースケ。その人はフツーのみんかんじんよ。はなしてあげて」

 宗介は彼女にわくのまなざしを向けた。

「本当か?」

「本当だってば」

「だれかがひとじちになっていて、にそう言わされているのではないか?」

「ンなわけないでしょっ!!」

「ふむ……」

 彼はナイフを持つ力をゆるめて、ふるえる相手にゆっくりと語りかけた。

「聞け。おまえが手を出した彼女は、が校のせいかいふくかいちようだ。つまり、学校で二番目に地位の高いようじんなのだ」

「は、はあ……」

「今回はのがしてやる。だが、もう一度同じようなをしてみろ。さましんるいえんじやさえもではまさんぞ。いいな?」

「そ、そんなぁ……」

なまづめぐなどじよくちだ。およそこの世で考えうる限りのつうを、貴様のつまや子供にあたえてやる」

「いねーってば、おい」

 かなめがツッコむのも気にせず、宗介は相手を放し、

「わかったな。では行け」

 白井はうようにその場から逃れ、うまひとがきをかきわけて走り去っていった。

「まったく……。もうすこしおだやかな止め方できないのかしらね、このせんそうボケ男は」

「別に本気ではなかった」

 なにがどこまで本気なのやら、かなめにはさっぱりわからなかった。

 おさなころから海外──それもひどくぶつそうふんそうたいで育ち、最近になっててんこうしてきた宗介は、いまだに平和な日本でのじようしきを身につけていない。

 かなめはため息をついてから、

「はいはい。一応、ありがと。さ、はやく学校いこ。一時限目は古文だよ」

「む……」

 かなめは宗介のそでをひっぱり、すたすたとホームを後にした。

 

 その日の昼休み──

「どーも今日きようは、みようせんを感じるのよね」

 ぼそりとかなめはつぶやいた。

 青空を背にして、まどぎわの席にふんぞり返り、あじないメロンパンをかじる。その彼女の前には、同じクラスの女子が数人ほどすわり、べんとうばこをつついていた。

「ミョーな視線? 男の子の?」

 バナナ・オレをストローですすりつつ、かなめの友達の一人がたずねた。

「さあ? ただ……なんというのか、こう、肩のあたりがこるような……」

 そう言って、かなめは首をぐるぐると回して見せた。

「ふーん……。きのうの帰りに声かけて来た人とか? 白井とかいう……」

 友人の言葉に、かなめははっとした。

「おー、そうそう! そいつがね、今朝けさ、泉川駅のホームでせしてたのよ。ね、ソースケ!?」

 離れた席で食事をとっていた宗介に、声をかける。宗介はたいのしれない肉のくんせいをコンバット・ナイフでけずり取って、直接口に運んでいるところだった。

「聞いていなかった。なんの話だ」

「だからぁ、今朝の……」

 そのおり、教室の入口に一人の男子生徒が姿すがたを見せ、

「千鳥くんはいるかね?」

 おだやかだがよく通る声で言った。

「あ、はやしみずセンパイ」

 その男子はちようしんそうの三年生で、静かなげんただよわせたふうぼうの持ち主だった。しんちゆうがねをかけ、髪はオールバックにでつけている。学生服よりも、英国製のこうきゆうスーツがいそうなわかものだ。

 彼──林水あつのぶは、この高校の生徒会長だった。

「なんです? わざわざ教室まで」

 こつうとましげな顔で、かなめはたずねた。林水は、宗介のしやくに軽くこたえてから、

「ふむ。めいわくだったかね?」

「別にぃ……」

「だが君の顔は、『けいあいするじようにしてだいなるどうしや・林水生徒会長かつが、足を運んで下さった。私は東洋一の幸せ者だ』などと思っている風には見えんが……」

「あんたは北●鮮の映画オタクですか」

の者と私をいつしよにしないで欲しいな。私は自由をそんちようしている。ポルノ・コミックのきよくびようしやにさえさんせいなほどだ」

「そーいうことを、こーいう場所で言うから迷惑なんです!」

 かなめはクラスメートの視線にあせり、顔を赤くしてった。

「落ち着きたまえ、千鳥くん。私は君へのちゆうこくたずさえて来たのだ」

「忠告……?」

「うむ。そのようだと、やはりまだ知らないようだな。まず、これを見たまえ」

 林水は持っていたふうとうを彼女に手渡した。しんがおの彼女が中をあらためると、封筒にはポラロイド写真のたばが入っていた。そこにうつっていたのは──

「トイレのかべばっかり……なにこれ」

 はいいろのタイルの壁と、しついたばかりを写したものが、全部で二二枚。写真のうらにはさつえいしよしるしたメモが、マジックで書き込んである。

 いずれの壁も、にもつかない内容のらくきだらけだった。やれ『ぶつけんじようとう』だの、『恋人しゆうちゆう! れんらくは三組のゴンへ』だの……。

「これがなにか?」

「壁の赤文字にちゆうもくしたまえ。ひときわ新しい落書きだ」

 かなめのくちもとがわずかにこわばった。

 どの写真の壁にも、赤いマジックで落書きがしてあった。その内容は──

 

『副会長のK・Tは、せんきよいんひようみずしをしてもらってとうせんしたらしい。そのしやれいとしてぎたてパンツをていきようしたそうだ』

『四組の千鳥かなめは、こうはいの女子をたくに連れ込んでテゴメにしてるらしいぞ』

『千鳥かなめ(2─4)がけてるカルチェのうでけいは、えんじよこうさいちゆうの会社社長から買ってもらったものらしい』

『K・Tは一人ひとりらしがさびしいので、たのめばだれでもまらせてくれる』

『二年四組の千鳥かなめはちようばいにんからSを買ってるらしいぞ』

 

 どれもたりよったりだった。

 まわりの友人たちはその写真を回し読みして、

「うわ、えげつな……」

「ひどいよ、これ……」

 などと口々に言い合った。

「おもにみなみこうしやの西側と北校舎の男子用・女子用トイレのものだ。昼前につうほうを受けて、部下にさつえいさせた」

 林水はたんたんせつめいした。

「あのー。ってきただけですか……?」

「心配ない。落書きそのものは、り紙でかくしておいた」

「それはどうも」

「うむ。言うまでもなく、これらは根も葉もないぼうちゆうしようだ。りようしきある者はにもかけんだろう。だがざんねんながら、すべての生徒がそうだとは言えない」

「こんな大ボラ、信じる子がいるわけないじゃないですか」

『そーよ、そーよ』と言わんばかりに、周りの女子はうなずいた。

「こんなのデタラメに決まってます!」

「カナちゃんはそんな人じゃありません!」

 黄色いこうを林水はすずしげに聞き流して、

「美しいゆうじようだが、青いな。信じるしやが一人でもいれば話は違う。そして多くの場合、あつは良貨をちくするのだ」

 バカはおこうさんよりも強し。そういうことを言いたいらしい。しかしいくらなんでも、援助交際だのかくせいざいだの……そんな話をに受ける者がいるわけない。

 ふと気付くと、離れて昼食をとっていたはずの宗介が、ポラロイド写真を手に取って、その内容に読みふけっていた。

「……どしたの、ソースケ?」

 彼は落書きの内容にしようげきを受けたようで、おどろきとわくに満ちた目でかなめを見た。

「千鳥。まさか……まさか君は……」

「真っ先に信じるなっ!!」

 かなめは宗介を力いっぱいばした。彼は教室のつくえを八席ぶんほどたおして、食事中の男子を突き飛ばし、べんとうを頭からかぶってこんとうした。

「はぁっ……はぁっ……」

 肩で息をするかなめが落ち着くのを、林水は気長に待ってから、

「それで、千鳥くん。はんにんに心当たりはあるかね?」

「さあ……。ここまではげしいコトされると、ぎやくに思い浮かびませんね、マジで」

「どんな小さなのうせいでもかまわん。言ってみたまえ」

「だって……知りたくもないですよ」

「悪いようにはせんよ」

 こう見えても、林水会長は切れ者で通っていた。校内の不良生徒や、きようたちさえいちもく置いている。しかし、彼になにかをしてもらったところで、自分がなつとくいくとは思えなかった。それで相手の悪意が、消えるわけではないのだし……。

「ホントにいいんです。犯人なんてさがさないで下さい」

 かなめは立ち上がった。

「あ、カナちゃん。ねえ……」

「ごめん。ちょっと気分悪いの」

 話をごういんに打ち切り、彼女は教室を出ていった。倒れた机の山にもれたままの宗介には、いちべつもくれなかった。

 

 かなめがいなくなると、林水会長は彼女のクラスメートの一人、常盤ときわきように五〇〇〇円さつ二枚を押し付け、いつぽうてきげた。

ほうになったら、彼女といつぱいって帰りなさい。りようしゆうしよを忘れないように」

 おさげ髪にトンボメガネの恭子はこんわくして、

「あのー。お気持ちはありがたいんですが、私たち、かりにも高校生なんですけど……」

「気にするな。では、しつけい

「ちょっと、センパイ……!」

 恭子が止めるのも聞かずに、林水は教室を出ていってしまった。ほうにくれた一同の横では、宗介が倒れた机を直し終わったところだった。

「相良くん、生きてたの?」

「なかなか痛かったがな……」

 彼はゆかに落ちた写真をひろい集めると、かつに自分のポケットへねじこんだ。それから、すこし考え込むりを見せて、

では、ニセのめいれいやデマを流すことはじゆうざいだった。けいとうこんらんさせたり、社会不安をぞうだいさせたりした人間は、じゆうさつけいに処されるのがじようしきだ」

「いや、そこまで大げさな話じゃないと思うけど……」

 ここにも一人、林水会長をえる変人がいたのを忘れてたわ……と恭子は頭をかかえた。

「にもかかわらず、彼女は犯人探しにしようきよくてきだ。これにはなにか、うらがあるように思えてならないのだが……」

「……ウラってなに?」

「千鳥は、犯人によわにぎられているのだ」

 彼はだんていした。

 かなめが『犯人を探さなくていい』と言ったのは、犯人が見つかるとごうが悪いからでは? この落書きはほとんどがデマだが、ごく一部にしんじつふくまれていると考えたら? そしてこの落書きは、『次はすべてを全生徒にバラす』というけいこくなのではないか?

「……つまり千鳥は犯人を知っていて、ひそかにきようはくを受けているのだ。だれにも知られたくない、まわしいみつを握られてな」

 しゆしようにも耳をかたむけていた恭子は、なおかんしんした。

「スゴいなぁ……」

ぞうもないことだ」

「そうじゃなくて。自分のクラスメートをここまでしざまにうたがえるのは、相良くんくらいのモンだろうね」

「…………。だが、彼女が消極的な理由は、これで説明がつくだろう」

「そお? もっとかんたんな理由があるのに」

「なんだ、それは」

 まゆをひそめる宗介を、恭子はぜつぼうしきった顔でながめた。

「だめだ、こりゃ。あーあ、カナちゃん、かわいそ……」

 それでも彼はむねり、

「千鳥の秘密が、どれほどいんさんおそろしかろうと、俺はどうようしない。そうごうとうやくぶつらんようぜんれき、さらにだったとしても……」

「そんなワケがないでしょ!」

「いずれにしても、彼女の弱味を知る必要がある。せいけんばんるがしかねないしゆうぶんならば、それをさつしてまつしようすべきだ」

 宗介はこしからけんじゆうを抜いて、

「さいわい、犯人には心当たりがある」

 スライドをずらし、やくしつ内のたまかくにんする。

「犯人って……。いちおう聞くけど、だれ?」

「けさ出会った二組の男だ」

「あの白井って人のこと? どうして?」

「駅で千鳥をめ、強い調子でなにかをようきゆうしていた。『に考えろ、俺は本気だ』とも言っていたな」

 恭子のメガネがはげしくずり落ちた。

「それ、ぜったい、ちがうと思う……」

もない。君はしろうとだからな」

「いや、そーいう問題じゃなくて……って、相良くん、どこ行くの?」

「会長かつのところだ。白井に千鳥の秘密をかせ、たいさくこうじるようしんげんしに行く」

 恭子はあきれ顔で、彼の背中を見送った。

「まったく。そんなこと、林水センパイが許すわけないじゃない……」

 しかし、彼女は間違っていた。

 

 その日の放課後──

 ろうを歩くかなめに、声をかける者がいた。

「あ、あの、千鳥さん……」

「ん、なに? かざくん」

 相手は、おとなしそうな男子生徒だった。同じクラスの風間しんだ。彼は大事に持っていたちやぶうとうを、かなめにおずおずと差し出した。

「これは?」

 風間信二はくさそうに、

「ええと……中に八〇〇〇円入ってます。こ、これでいいんだよね?」

「はあ? なにが?」

 彼はデジタル・カメラを取り出して、もじもじとはにかみながら、

「その、千鳥さんのずかしい写真を、一枚二〇〇〇円でらせてもらえるって……」

 かなめは鞄をり上げると、相手の頭を(かどで)なぐりつけた。少年はデジカメをほうり出して、かべに顔面からげきとつした。

せろ、このさわやかへんたいろうっ!!」

 倒れた相手に現金入りの茶封筒をたたきつけると、おおまたでずけずけと歩き出す。そばでようを見ていた常盤恭子が、あわててその後に続いた。

「ったく、これで四人目よ? 林水センパイのげんてきちゆうしたわね」

 午前から感じていた視線のしようたいも、けっきょくあの落書きのせいだったのだ。

「ねえカナちゃん、ホントにだいじよう?」

 恭子は心配顔でたずねた。かなめはうっとおしげに手を振って、

「平気よ。こんなうわさ、二、三日すればみんな忘れちゃうもの。それにね、あたし、こーいうのけっこうめんえきあるから」

「……そうなの?」

「そっ。昔からね。はっはっは」

 わざわざ笑ってみせるが、それでも恭子の顔は晴れなかった。彼女はそこで思い出したように、

「そういえばね、カナちゃん。昼休みの時、相良くんが──」

 その時、するどめいが廊下にひびき渡った。

「お……?」

 二人の行く手、一〇メートルほど先の角から、相良宗介が姿を見せた。男子生徒に自動けんじゆうきつけ、ほとんどごういんにひきずり回している。その相手は──

「白井くんだ」

 宗介は白井をひったて、すぐ近くの男子トイレに入ろうとしていた。

「た、助けて!」

だまれ。おとなしくついて来い」

 どくに、白井はなみだで顔をグシャグシャにして、トイレの入口にしがみついた。

「だってオレ、知らないんだよ! 本当だ、信じてよ!」

「俺は黙れと言っている」

 宗介は白井のうでをこっぴどく打ちすえると、とうとう彼を男子トイレの中にりこんでしまった。

「このことを話そうと思ってたんだけど」

 と、恭子。

「……ったく、あのバカ」

 かなめたちは男子トイレの入口まで走ると、中の様子をうかがった。

 宗介は白井をしつにひきずりこみ、とびらを閉めたところだった。彼らの姿はここからは見えない。ただ、ぶつそうな物音とつうさけごえばかりが聞こえてくる。

『殺さないで! 殺さないで!(バタバタとあばれる音)』

『まだ殺さん。さまがどれだけきようりよくてきになれるかで、それは決まる(じようがかかる音)』

『そんなぁ……(うわずった泣き声)』

『千鳥の秘密を話せば、めいあるあつかいをしようしよう。あたたかい食事とどこていきようしてやる。だが、あくまでかくす気ならば……(拳銃のスライドが動く音)』

『うわーっ!(なぜか便べんの水が流れる音)』

 中が見えないだけに、なおのこと個室内のさんじようが案じられた。

「あー。いかんわ、こりゃ」

「カナちゃん、相良くんを止めないと」

「そうね。……うー、かたないわよね」

 男子トイレに入ったことなんて、生まれてこのかた一度もなかったが……。かなめは意を決すると、第一歩をみ出す。タイルに右足をろしたそのしゆんかん、『ああ、あたしって、よごれちゃったんだ……』などと、やるせないそうしつかんが彼女の胸に押し寄せてきた。

 ……が、まあ、それはともかく、

「ソースケ!!」

 かなめはトイレの個室の前まで行くと、いたらんぼうに開けはなった。宗介は白井を洋式便器にすわらせて、その頭にあさぶくろをすっぽりかぶせ、コンバット・ナイフを引き抜いたところだった。

「千鳥か。女子トイレはとなりだぞ」

「ンなこたー、わかってるわよ。あんた彼をどうする気なの!?」

 彼はしつけな目で、かなめの顔をぎようした。

「……君には気の毒だが、きようはくの内容を聞き出すことになった」

「はあ? 脅迫?」

「隠さずともいい。おおよそのじようは、すでにこころている」

「いったいなにを……」

 宗介は一枚のしよるいを差し出した。そこにはかんけつな内容で、次のようにしるしてあった。

《相良宗介(安全しようもんだいたんとう・生徒会長かん

 千鳥副会長のしゆうぶん調ちように関して、右の者にあらゆるけんげんを与える。

陣代高校生徒会長・林水敦信》


「……なにこれ?」

 会長補佐官・相良宗介は胸を張り、

「会長かつにんじようだ。この問題に限り、俺はだれのさしも受けん」

「なんか、話が見えないんだけど……」

 げんがおのかなめを、彼は片手でさえぎって、

「だれにでもれられたくないはある。だが学校のちつじよを守るためには、それさえも明らかにせねばならない。君のみつが、たとえどれだけれんだろうとな」

「あんたがひどく人聞きの悪い、失礼なことを考えてるのだけはかいできるわよ……」

「そうか、わかってくれるか」

 二人の間には、ほとんどコミュニケーションが成立していなかった。

「千鳥さん、助けて!!」

 白井は彼女に泣きついた。

「はいはい。……ねえ、ソースケ。なんかかんちがいしてるみたいだけど、やめてくれない? 白井くんは、あの落書きとは無関係よ」

「君がそうしゆちようするのは無理もない。秘密が明るみに出るのを恐れているのだ」

「だ~か~らぁ! あたしには秘密なんてないってばっ!!」

「絶対にそう言えるのか? 人に隠していることは一つもない……そう断言できると?」

「う……」

 その時、かなめののうにまず浮かんだのは、去年の秋に起こしたボヤ事件のことだった。学校裏の林で、焼きイモをやろうとして火事になり、消防署が出動するさわぎになったのだ。彼女ほか数名の友人は現場からとうそうして、いまだに犯人は不明とされている。

「……やはりそうか。君には恐ろしい秘密があるのだな」

「な、なにを……。ちょっと、ヘンな想像やめてよ!」

 彼は『ろんはこれまでだ』とばかりに手をり、白井に向き直った。

「千鳥は向こうに行っていろ。女子供が見るものではない。……さて白井とやら、彼女の秘密をいてもらおう」

 あやしいごうもんさいかいしようとする。

「やめなさいって! ちょっとソースケ、聞いてるの!?」

 彼女がめ寄ろうとした時──

「やめてぇ!!」

 かなめを押しのけて、一人の女子生徒がトイレの個室に飛びこんで来た。がらでおかっぱセミロングの髪、あどけないが、きつい目つきの少女だった。

「なによ、あんたたち、なんなのよ!! あたしの白井クンにナニしてるのっ!? ああ、ひどいよ、あんまりよっ!! 白井クン、しっかりして!!」

 あさぶくろかぶったままの白井にきつき、ヒステリックにきわめく。

「うう……みずか。どうしてここに……?」

「四組のサガラが白井クンをひきずり回してる、って聞いたの。ねえ、だいじょぶ!?」

「ああ。なんとか……」

 瑞樹とばれたむすめは、あんのため息をらした。かなめはしんがおで、

「あなたは?」

「あたしは白井クンのカノジョよ! とってもラブラブなんだかんね!? 彼に手を出したら、あたしがゆるさないんだから!!」

 それを聞いた宗介の目がきらりと光った。

「彼女。ラブラブ。……つまり、白井の女なのだな? それはちょうどいい。おまえをじんもんの道具として……」

 瑞樹ににじり寄る宗介のこうとうを、かなめはかばんなぐたおした。

「しばらくだまってなさい、あんたは」

 うんざりした声で言うと、彼女は瑞樹に向き直る。

「えーと。めいわくかけたね、ごめん」

 だが瑞樹は、怒りをあらわにして、

「あんた、千鳥かなめでしょう?」

「ええ、そうだけど……」

「ちょっと最っ低じゃない……? 自分の悪いうわさ広められたもんだからって、腹いせに白井くんを犯人あつかいして、しただか愛人だか知らないけど、こんなやつおそわせるなんて!」

「え?」

 とうわくするかなめを、瑞樹は見下げてたようにののしった。

きたない女。かくしてなさいよ。あたしのパパは、校長センセとも仲いいんだから。問題にしてやるわよ!」

「ちょっと待ってよ。あたしはただ……」

「うるさい、このメギツネ!」

「…………」

 瑞樹はほこって続けた。

「本当にヒドい女ね。あんがい、あのトイレの落書きなんかも、半分くらいはホントの話じゃないの? えんじよこうさいの相手から、腕時計を買ってもらっただとか。あんたのその時計、みように高そうじゃ──痛っ!!」

 頭のてっぺんを襲ったゲンコツに、瑞樹は小さなめいをあげた。

 かなめは自分のにぎりこぶしを、勝手に動いたのがだとでも思っているように、しげしげとながめた。

「悪いけど、この時計だけは鹿にしないでくれる……?」

「ぶ、ぶったわね!? パパにもブたれたことないのに!! 許さないわよ!」

「えーと、そのー。……も一回、ぶつ?」

 たいがそれなりにきんぱくしてきたところで、個室の外にくずおれていた宗介が、なんのまえれもなくむくりと起き上がった。

「あんたはてなさいよ。……ちょっと寄らないで、なんかクサい」

においなどじゆうようではない。それよりも君だ。瑞樹とかいったな」

れ馴れしく呼ばないでよ。みよういなっていうの」

 稲葉瑞樹はうでを組み、鼻を鳴らした。

「では稲葉瑞樹。君はいま、千鳥の時計の話をしていたな。それはだれから聞いた?」

「聞いたんじゃないわ。トイレで見たの。たようなことが、アチコチに書いてあるわよ。ホント、お笑いよね」

「ふむ。確かにおもしろい話だ」

 宗介は彼女をおだやかに退け、白井を押し込んだ個室に入った。

「二人とも、こちらに来い」

 かなめと瑞樹をまねきする。

「なによ、こいつ?」

「ソースケ、どうしたの……?」

 二人が身を乗り出すと、彼は個室のかべの、『トイレはきれいに使いましょう/生徒会』と書かれた張り紙に手をかけた。

「これを見ろ」

 言うと、真新しい張り紙をやぶり取る。その下から、赤いマジックの落書きが現れた。その内容は──

『千鳥かなめ(2─4)がけてるカルチェの腕時計は、援助交際中の会社社長から買ってもらったものらしい』

「…………!!」

 たちまち稲葉瑞樹の顔がそうはくになった。

みような話だな。この落書きを君が見たとは。ちなみにここは男子トイレだ」

「そっ……あっ……しまっ……」

 瑞樹は何度も口をぱくぱくさせた。

「これらの落書きは今日の午前、じゆぎよう時間中に書かれたものだそうだ。たぶん犯人は『気分が悪い』などとこうじつもうけて、一時間ほど授業を抜け出したのだろう」

「しょ、しようは──」

調しらべればすぐにはっきりする。しゆつせき簿ようしやかばんつくえ、ロッカー……。語るに落ちたな、稲葉瑞樹よ」

 宗介たちのやり取りを聞いていた白井は、うろたえる瑞樹の顔をぼうぜんながめた。

「瑞樹……おまえが? どうして……」

「許せなかったのよっ!!」

 少女は泣きさけんだ。

「だって白井くん、駅でこの女のこといてたでしょう!? あたし見てたんだから!」

 今度は白井が青ざめた。

「なんだって……! ちょ……それは」

「あたしのこと、きらいになっちゃったの!? ひどいよ! たんじようにPC─FX買ってあげたし、お弁当作ってきてあげてるし、JBのコンサート代だってオゴってあげたのに!!」

 たちまち白井はうるさげな顔をして、

「……だって、PC─FXなんかもらってもなぁ」

 かなめはこの会話を聞いただけで、二人のぎくしゃくした関係を、おおよそさつすることができた。

 いつぽう、宗介は新たなじようを取り出して、

きよくせつはあったが、しんはんにんはんめいした。では稲葉よ、話してもらおうか。千鳥かなめの、恐るべき秘密をな」

「まだ言ってるの、あんたは……?」

 かなめがしつぼうしきった顔を見せると、宗介もさすがに自分の考えがらいだようで、

「……きようはくではないのか?」

「最初からそう言ってるでしょ!!」

 宗介はしぶしぶとなつとくした。

「ふむ……。だが、それでもデマを流したつみは残る。しよくいんかいして、ていがくしよぶんにでもさせるか?」

『停学』の二文字に、瑞樹のかたがぴくりとふるえた。かなめは顔をしかめて、

「いいよ、そんな……」

「ならばほうふくとして、あらゆるトイレにこの娘ゆうしようを書きこむのはどうだ。『稲葉瑞樹はきようさんしゆしやだ』などと……」

きやつ。……にしても、あんたの思いつく中傷って、ホントそーいうげんなのよね……」

「では、どうする」

「どーもしない。ほっときましょ」

 瑞樹の顔に小さなおどろきが浮かんだ。

「え……?」

「もういい、って言ってるの」

 さばさばした調子で言う。

 かなめはしようじきなところ、瑞樹の気持ちがすこしはかいできた。たぶん、彼女は白井のことが本当に好きなのだろう。そういう気持ちをストレートに出せて、これほどなりふりかまわないができる彼女を、かなめはなおにうらやましい、と思った。

 だから、もういい。

(そう。自分で納得できたんだから……)

 ところが宗介は食い下がる。

「だが、それでは見せしめのこうが。ここは一つ、じようてつしてきようくんを与えねば」

 おもいにけっていたかなめのこめかみが、ひくひくとけいれんした。

「あんたね。あたしのキモチとかオトメゴコロとか、そーいうの考えたことある……?」

「? なんの話だ?」

 彼女は宗介をたおそうかと思ったが、ぐっとこらえて、

「……で、稲葉さんだっけ。もう気もんだでしょ? あたし、白井くんと付き合う気なんて全然ないし。安心して」

「あ、安心ですって……?」

 瑞樹は泣きらした目をぬぐった。

「千鳥かなめ! あんた、すっげームカつくのよ!! 特にそういうところ! ちょっとモテてるからって、調子に乗ってるんじゃないわよ! おぼえてなさいっ!」

 ぬすつとたけだけしいとはこのことだ。彼女はかなめを突き飛ばし、逃げるように走り去っていった。

「ああ、いっちゃった……」

もとは割れている。いま追う必要はない」

「いや、そーいう意味じゃなくて……。それよりソースケ、白井くんにあやまったら? 彼はじつだったんだから」

「ああ。そうだな」

 宗介はしようすいしきった白井からじようはずして、その肩をぽんとたたいた。

「ごろうだった。後日、会長かつからかんしやじようが送られることだろう。よかったな」

「……なにがいいのよっ!!」

 けっきょく、かなめは宗介を張り倒した。

 

 よくじつの昼休み。

 かなめが教室でげきからカレーパンをかじっていると、トイレからもどってきた恭子が彼女をまねきした。

「カナちゃん、ちょっと来て。すぐだから」

 恭子に連れられ、かなめは教室近くの女子トイレへと向かった。

「どしたの?」

「ほら、これ」

 恭子は個室のかべらくきを指差した。生徒会の張り紙は、すでに破り取られている。そこには赤文字で、『四組の千鳥かなめは、こうはいの女子を自宅に連れ込んでテゴメにしてるらしいぞ』

 とあった。写真にあった落書きの一つだ。

「これがなにか?」

「違うよ、その下」

 そこには同じひつせきの赤文字で、『……というのはウソだった。千鳥カナメはがいといいやつかもしれない。ウワサを信じちゃいけないぞ!』

 と、書き加えてあった。

「ほかのトイレも全部こうなってるって」

「そうなの? ふーん……」

 かなめはうでみしてから、

なさけは人のためならず、ってとこ?」

 いやなしに、にっこりと笑った。

 

〈愛憎のプロパガンダ おわり〉

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