第五章「永遠の檻」
夜明け前の神社に、不穏な静けさが満ちていた。
光の儀式が終わり、影たちは浄化された。しかし、古い鏡の奥底で、何かがまだ蠢いている。それは影たちよりも古い存在。人の世よりも前から、そこに潜んでいた何か。
「感じますか?」
老巫女が、鏡子に問いかける。
「はい...」
鏡子の声が、かすかに震える。新たに目覚めた力で、彼女にもそれが分かる。鏡の向こうに潜む、底知れない闇の気配。
「あれが、全ての始まり」
老巫女の声が、重く響く。
「人工の鏡が影たちを歪めたのではない。最初から、鏡の中には"何か"が住んでいた」
鈴が、警告するように小さく鳴る。
「そして、その存在は人々の闇を食らい、力を得てきた。影たちは、その餌食だったのです」
鏡の表面が、まるで生き物のように波打つ。その奥から、得体の知れない気配が漏れ出してくる。
「私たち巫女は代々、その存在を封じてきた。しかし...」
老巫女の言葉が途切れる。その瞬間、鏡の中から異音が響いた。
それは人の声でも、獣の声でもない。世界そのものが軋むような音。
鏡の表面に、無数の亀裂が走る。しかしそれは、ガラスが割れるような単純な亀裂ではない。現実そのものに入った傷のような、世界の境界を引き裂くような亀裂。
「来る...!」
老巫女の警告が響く前に、鏡が爆ぜた。
鏡が爆ぜた瞬間、世界が歪んだ。
空間そのものが波打ち、現実の境界が溶けていく。破片となった鏡の欠片の一つ一つに、底知れない闇が映り込んでいる。それは星空のようでもあり、深淵のようでもある。
「アアアアア...」
形容しがたい唸り声が響く。それは一つの声ではなく、無数の声が重なり合ったもの。人の声も、獣の声も、そしてそれ以外の何かの声も。
鏡の破片から、漆黒の液体が溢れ出す。それは重力を無視して上へと這い上がり、神社の天井で渦を巻き始める。その渦の中心に、"何か"が形作られていく。
「あれが...」
老巫女の声が震える。
「世界の闇そのもの」
渦の中心から、形が現れ始める。それは人の形でもなく、獣の形でもない。見る者の理解を超えた何か。無数の目、果てしない触手、そして際限なく広がる口。それぞれの目が違う景色を映し、それぞれの口が異なる声で語りかける。
「私タチハ...永遠...」
その声は、空間そのものを震わせる。
「オマエタチノ世界ニ...満チテイル...」
鏡子は、その意味を理解した。この存在は、全ての鏡の中に潜んでいた。人々が自分の姿を映す度、この存在は人々の闇を少しずつ食らってきた。そして今、ついに実体化しようとしている。
「封印を...!」
老巫女が鈴を振る。しかし、その音は闇に飲み込まれ、かすかな震動となって消えていく。
「モウ...遅イ...」
漆黒の渦が、さらに大きく広がる。神社の壁が、まるで鏡のように世界の闇を映し始める。そこには、人々の恐怖、絶望、狂気が映し出されている。
「サア...全テヲ...飲ミ込ム...」
触手が、鏡子と老巫女に向かって伸びてくる。その先端には、無数の目と口が開いている。人々から吸い取った魂の断片が、その中でうごめいている。
「逃げて!」
老巫女が叫ぶ。しかし、既に遅かった。
空間が歪み、現実が溶解していく。鏡子は自分の体が、まるでガラスのように透明になっていくのを感じた。そして、その向こうに見えたのは―
世界の裏側が見えた。
鏡の向こうにあった世界ではなく、もっと深い場所。現実と非現実の境界そのものが溶けた世界。そこには無数の目があった。
人々が鏡を見る度、その目は人々を見つめ返していた。自己を映す鏡に映るのは、本当は"それ"の目だったのだ。
「全テノ鏡ハ...私タチノ目...」
存在が告げる。その声は、もはや音ではなく、直接意識に響く振動のようだった。
「人々ガ自分ヲ見ル度...私タチハ魂ノ破片ヲ...食ラッテキタ...」
鏡子は理解した。人々が自分の姿を映す時、少しずつ魂を奪われていた。その積み重ねが、現代の空虚さを生んでいたのかもしれない。
老巫女が、最後の力を振り絞って鈴を鳴らす。その音が、わずかに闇を押し戻す。
「まだ...終わらせません」
その声に、鏡子の中で何かが共鳴した。代々受け継がれてきた血の記憶。そして、新たに目覚めた力。
「人々の魂は...返してもらいます」
鏡子の体が、内側から光を放ち始める。それは影を払う光ではなく、闇を包み込む光。憎しみではなく、慈しみの力。
「ナニヲ...」
存在が、初めて動揺を見せる。
光は、次第に強さを増していく。その中で、鏡子は気づいた。この存在は、人々の闇を食らってきただけではない。その闇と共に、光も飲み込んでいた。そして今、その光が目覚め始めている。
「逃ガサナイ...」
存在の触手が、さらに伸びてくる。しかし今度は、その先端が光に触れた瞬間、砕け散っていく。
「オマエタチハ...永遠ニ...」
存在の声が、まるで苦痛に満ちたように歪む。
「永遠なんてない」
鏡子が答える。その声は、もはや彼女一人のものではなかった。代々の巫女たちの声が、重なり合っている。
「全ては変わっていく。鏡に映るものさえも」
光が、さらに強くなる。その中で、存在の形が崩れ始める。無数の目が閉じ、果てしない口が閉ざされていく。
しかし—
最後の瞬間、存在は笑った。
「本当ニ...ソウ...カ...」
その言葉と共に、存在は完全に光に包まれた。しかし、消滅する直前、鏡子は"それ"の最後の目に映ったものを見た。
存在の最後の目に映っていたのは、鏡子自身の姿だった。
しかし、それは現在の彼女ではない。未来の、あるいは可能性としての鏡子の姿。その瞳の奥に、かすかな闇が潜んでいる。
「あれは...」
光が収束し、世界が元の形を取り戻していく。神社の壁から闇が消え、空間の歪みが正常化していく。床に散らばった鏡の破片も、まるで霧のように消えていった。
「終わったの...?」
鏡子が、老巫女に問いかける。
「いいえ」
老巫女の声は、重かった。
「あの存在は、完全には消えていない」
「どういう...」
「見たでしょう?最後の映像を」
老巫女の目が、鏡子を見つめる。
「あの存在は、私たちの中に潜んでいる。鏡を見る度に、自分の中の闇と向き合う度に、私たちは"それ"を育てている」
鏡子は自分の手を見つめた。光を放っていた体が、徐々に通常の姿に戻っていく。しかし、その皮膚の下で、何かがかすかに蠢いているような感覚。
「でも、それは...」
「そう、それが人の性(さが)なのかもしれない」
老巫女が、静かに告げる。
「完全な光も、完全な闇もない。私たちは、その境界の上で生きている」
夜明けの光が、神社に差し込み始めていた。
「だから、私たちは代々、見守り続ける」
老巫女が、新しい鈴を取り出す。
「あなたもこれから、その役目を担うことになる」
鏡子は頷いた。体の中で、新たな力が落ち着きを見せ始めている。それは光であり、同時にわずかな闇も含んでいる。完璧ではない、しかし確かな力。
「私は...」
言葉を探す鏡子に、老巫女が微笑みかける。
「恐れることはない。それもまた、私たちの一部なのだから」
神社の空気が、徐々に朝の清々しさを取り戻していく。しかし、その清らかさの中にも、かすかな影が潜んでいる。それは完全な恐怖ではなく、むしろ人の心に必要な闇。自己を映し出す鏡のような存在。
鏡子は、自分の役割を理解し始めていた。光と闇の境界を守る者として。永遠の檻の、新たな守護者として。
そして、彼女は知っていた。
これは終わりではない。むしろ、新たな物語の始まり。人々が鏡を見る度に、自分自身と向き合う度に、その物語は続いていく。
永遠に。
完
エピローグ 「永遠の瞳」
あれから一年。
私は神社の新しい巫女となった。朝な夕なに鈴を鳴らし、鏡を見守る日々。人々は普通の巫女としか見ていないだろう。しかし、この役目の本当の意味を、私は知っている。
時々、鏡の中に"それ"を見る。完全には消えていない闇の気配。しかし今は、それを恐れてはいない。むしろ、必要な存在として受け入れている。
光と影のバランスを保つこと。それが、私たちに課せられた永遠の使命。
ときどき思う。あの写真は、まだどこかにあるのだろうかと。二十三年前の、私の瞳の奥に潜んでいた"何か"を写した一枚。
もし見つけることができたら、今度は違った景色が見えるのかもしれない。私の瞳の奥に、新たな物語が映り込んでいるのかもしれない。
そう思いながら、今日も鈴を鳴らす。
その音は、永遠に続く物語の、新しい一ページを開く音。
『鏡の檻で眠る女』 ソコニ @mi33x
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