第三章「歪んだ世界」


鏡の世界には、昼も夜もない。


永遠に続く薄闇の中で、鏡子は漂っていた。無数の影が周囲を泳ぐように動いている。かつて人だった存在たち。歪んだ顔、折れた首、異常に長い手足。彼女たちは皆、同じように鏡に魂を奪われた者たちだった。


「私たちの仲間になるのね」


どこからともなく声が響く。振り向くと、少女の姿をした影があった。首が九十度に曲がり、手足は蜘蛛のように長く伸びている。その顔には目がなく、代わりに大きな裂け目が口のように開いていた。


「あなたも...鏡に...」


鏡子の声が、やっと出るようになっていた。この世界に慣れてきたということなのだろうか。それとも、自分も少しずつ歪んでいっているのだろうか。


「ええ、もう五十年よ」


少女の影が近づいてくる。その動きは不自然で、関節が逆方向に曲がっている。


「最初は怖かったわ。でも今は...ここが居心地いいの」


少女の顔の裂け目が、笑みのように広がった。その中から、黒い液体が滴り落ちる。


「あなたもすぐに慣れるわ。私たちみたいに...」


周囲の影たちが、ゆっくりと集まってきた。様々な時代の衣服を着た人々。しかし、その姿は皆、同じように歪んでいる。手足が異常に伸び、首が捻じれ、顔は人の形を留めていない。


「違う...私は...」


鏡子は後ずさりしようとした。しかし、この世界では逃げ場がない。どこもが鏡の内側なのだ。


「抵抗しても無駄よ」


別の影が言う。スーツ姿の女性だったその影は、腕が何本にも分岐していた。


「私たちも最初は抵抗したわ。でも、結局は受け入れるしかないの」


影たちが、徐々に鏡子を取り囲んでいく。その手が、蛇のように絡みつこうとしてくる。


「やめて...!」


その時、外の世界からの光が差し込んだ。偽物が、新しい鏡を見つけたのだ。スマートフォンの画面に映る景色が、鏡子の目に飛び込んでくる。


そこには、偽物が母の家の古いアルバムを開いている光景があった。ページをめくるたびに、写真の中の人々の表情が歪んでいく。特に、幼い頃の鏡子の写真が、不気味な変化を見せていた。


「ここにいたのね」


偽物がアルバムの一枚の写真を見つめている。五歳の誕生日の記念写真。神社の境内で撮られたその写真には、大きな鏡が写り込んでいた。


「あの日から、全てが始まったのよ」


偽物の声が、鏡の世界にも響いてくる。その声に、周囲の影たちが反応した。まるで何かを怖れるように、うごめき始める。




「見て。これが証拠よ」


偽物は写真を母親に見せていた。母の瞳が、さらに濁っていく。


「ああ...あの日...」


母の声が震える。その喉から、異音が漏れ始めた。まるで何かが這い上がってくるような音。


「そう、思い出して」


偽物の声が、より冷たくなる。指先が写真の表面を撫でる。その動きに合わせて、写真の中の景色が歪み始めた。幼い鏡子の笑顔が、不気味な形に変容していく。


鏡の世界で、影たちが激しくうごめいた。


「あの神社には、私たちを封じた鏡があったの」


スーツ姿の影が語り始める。その声は、幾重にも重なり合っていた。


「でも、その封印は完璧ではなかった。隙間があった。そして、その隙間から...」


少女の影が続ける。その顔の裂け目が、より大きく開いていく。


「私たちは、少しずつ外の世界に影響を与えることができたの。人々の魂を、この世界に引きずり込むことができた」


影たちが、鏡子の周りでさらに大きくうねる。その姿は、もはや人の形をしていない。無数の手足が絡み合い、幾つもの顔が重なり合う異形の塊。


「でも、あなたは特別だった」


新しい声が響く。振り向くと、着物姿の女性の影があった。その姿は他の影たちより、さらに古い時代のものに見える。


「あなたは、私たちの力が最も強かった時に出会った子供。完璧な器になれる存在」


着物の影が近づいてくる。その動きは、蛇のように滑らかで不気味だった。


「だから、二十三年の時を待った。あなたの魂が成熟するのを。そして今...」


外の世界で、偽物が古い写真を掲げている。その写真には、幼い鏡子の後ろに、無数の影が写り込んでいた。当時は気づかなかったそれらの影が、今では明確に見える。人の形をした、しかし明らかに人ではない存在たち。


「母さん、あの時のことを全部思い出して」


偽物の声が、より強く響く。母の体が震え始めた。その震えは、次第に激しくなっていく。


「いいえ...あの時、私は...」


母の声が途切れる。その代わりに、体の震えが不自然な動きに変わっていく。関節が逆方向に曲がり、首が完全に後ろを向く。


「そう、あなたも気づいていたのよ。でも、見て見ぬふりをした」


偽物の言葉に、母の口が裂けるように開いていく。その中から、黒い液体が溢れ出す。


「娘を守ろうとして、封印を強化した。でも、それは逆効果だった」


鏡の世界で、着物の影が笑う。その笑みは、人の限界を超えて広がっていく。


「封印を強化すれば強化するほど、私たちの力は鏡子に集中した。そして、ついに完璧な依り代が出来上がった」


影たちが、さらに激しくうねる。その動きは、まるで何かの儀式のようだった。


「もうすぐ、本当の儀式が始まる」


着物の影が告げる。その声は、無数の悲鳴が重なったように響いた。


「私たちは、この世界から解放される。そして、あなたの世界を...」




外の世界で、母の変容が続いていた。その体が、人の形を超えて歪んでいく。手足が異常に伸び、関節が逆方向に曲がり、首が完全に後ろを向いたまま、さらに回転を続ける。


「ずっと待っていたのよ」


母の口から漏れる声は、もはや人のものではなかった。無数の声が重なり合ったような音。その口から溢れ出す黒い液体が、床を這うように広がっていく。


「この日が来るのを」


偽物が満足げに微笑む。その笑みの下から、本来の姿が透けて見える。無数の顔を持つ存在。それぞれの顔が、別々の表情を浮かべている。


鏡の世界では、影たちの動きがさらに激しくなっていた。その姿は、もはや個々の存在ではなく、一つの大きな渦となって鏡子を取り囲んでいる。


「見せてあげる」


着物の影が告げる。その声に合わせて、周囲の景色が変容し始めた。永遠の薄闇が晴れ、別の光景が浮かび上がる。


それは五十年前の神社。大きな鏡の前で、巫女たちが儀式を執り行っている。その鏡の中には、無数の影が蠢いていた。人の形をした、しかし明らかに人ではない存在たち。


「私たちは、最初からここにいた」


着物の影の声が、記憶のように響く。


「人々の闇を映し出す存在として。しかし、ある時から変わった」


光景が変わる。明治時代の神社。西洋の技術を取り入れた新しい鏡が、祭壇に置かれている。


「人工の鏡。魂を映さない鏡。それが、私たちを変えた」


影たちの渦が、さらに激しくなる。その中に、様々な時代の記憶が映し出されていく。


大正時代、昭和、そして現代。鏡が増えていく度に、影たちの力は強くなっていった。そして、人々の魂を奪い始めた。


「でも、まだ足りなかった」


スーツ姿の影が語る。


「完璧な依り代が必要だった。この世界と、あなたたちの世界を繋ぐ存在が」


光景が、再び五歳の鏡子が神社を訪れた日に変わる。


小さな鏡子が、大きな鏡の前で立ち止まる。その瞳に、無数の影が映り込んでいく。しかし、母が気づいて鏡子を引き離す。必死に札を貼り、封印を強化する母の姿。


「でも、それが私たちの力を鏡子に集中させた」


着物の影が笑う。


「そして今、準備が整った」


外の世界で、偽物が母の変わり果てた姿に近づく。その指先から、黒い影が波打つように広がっていく。


「さあ、本当の儀式を始めましょう」


母の体が、完全に異形の存在へと変貌する。その姿は、もはや人の形を留めていない。無数の手足、幾つもの顔、そして底なしの闇のような深い暗がり。


「これが、私たちの本当の姿」


鏡の世界で、影たちの渦が頂点に達する。その中心で、鏡子は自分の体が変容し始めるのを感じていた。手足が伸び、関節が逆転し、顔が歪んでいく。


そして彼女は理解した。これが終わりではない。むしろ、本当の恐怖の始まりなのだと。

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