第5話 紅目
生徒課職員として働き始め、早数日が経った。
始業後間もない朝の事務所には、ペギーの怒ったような叫び声が響いている。
「もー! 何なのよっ! マジでーッ!」
「ど、どうしたの~?」
悲鳴を聞いて駆けてきたのは——俺の面接を担当した職員の一人、課長補佐のメリルである。彼女は俺たちの下へタタタと駆けつけると、受付前でペギーが仰向けに倒れているのを発見した。そのすぐ傍に居る俺は、倒れた彼女の腕を引いて立ち尽くしている。
「どうしたの、ペギーちゃん。転んだ?」
「違います、メリルさん! こいつに、ヨダレンに投げられたんです! 背負い投げくらったんです!」
「すまない……」
綺麗に背中から投げ倒されたペギーに、その傍で彼女の腕を引いて残心しつつ謝っている俺。そんな理解に苦しむであろう状況にも関わらず、メリル補佐は眉をひそめながらも優しく尋ねる。
「な、なんで投げちゃったの~? ヨダレン君」
「すみません。背後から肩を叩かれたので、反射的に……」
「そ、そんな殺し屋みたいな習性してるの~……?」
「すみません。つい……」
そんなことを話している内にパッと立ち上がったペギーは、メリルに詰め寄る。
「私、こいつの教育係無理です! 誰か別の奴に頼んでください!」
「そんなこと言わずにね、ペギーちゃん。ヨダレン君がかわいそうだよ〜? 新人君なんだから〜」
「かわいそうなのは、私の方ですから!」
ペギーは触角じみた毛束をぴょこぴょこ振りながら訴える。
「こいつ変なんです! すぐ気配消すし、すぐ窓から移動しようとするし、すぐ死角に入ろうとするし、すぐ人のこと投げるし、すぐ物音に反応して私と一緒に伏せようとするし!」
「ヨダレン君、そういうことしちゃダメだよ〜?」
「すみません。気をつけてはいるのですが」
「ほら、彼も謝ってるしね? ペギーちゃんも先輩として、許してあげないと。初めからなんでも出来る新人君なんていないんだから〜」
「えっ!? 私が悪いんですか!? 普通に背負い投げされたんですよ!?」
「ヨダレン君。格闘技やってたのかもしれないけど、先輩を背負い投げしたらダメだからね〜?」
「すみません。気をつけます」
「そんな注意で済むこと!? 私がおかしいの!?」
納得できていない様子のペギーだったが、メリル補佐に宥められて共にデスクに戻る。そこで俺は、再び頭を下げた。
「すまない、ペギー」
「チッ……マジで、アンタさあ……」
彼女はイラついた様子で、コンコンとペン先を叩いて貧乏ゆすりをした。
「アンタが変な奴でもなんでもいいんだけど。私の足だけ引っ張んないでよね……」
「わかっている」
「アンタは知らないだろうけど、私は
「それなら、なんで生徒課にいるんだ?」
「………………」
ふと黙り、ペギーは目を伏せた。
「……うっさいわね」
「すまない。聞いてはいけなかったか?」
「うるさいっつってんのよ」
「すまない」
「……はぁ」
ため息をつくと、彼女は険しい表情で書類仕事に取り掛かり始めた。
隣に座る俺は、躊躇いがちに尋ねる。
「俺は何をすればいい?」
「自分で考えれば」
「わからないから教えて欲しい」
「……じゃあビステン淹れてきて」
「わかった」
「砂糖無しね」
「わかった」
立ち上がると、俺は事務所の奥に備え付けられた簡易キッチンへ向かった。
湯を沸かしながら棚からビステの粉を取り、フィルターで濾す準備をする。ビステの実と呼ばれる硬い果実を原料とする“ビステン”は、暖かくして飲むとリラックス効果があるとされる赤焦げた色をした茶である。俺は今までさほど飲んだ経験はなかったが、どうやら学校の職員は、その多くがこのビステンを愛飲しているらしい。
湯が沸くのを待ちながら、俺はそこに棒立ちとなって考え込む。
憧れだった普通の仕事。復讐という別の目的があるとはいえ、普通の職場で普通の人々に囲まれて普通に働くという経験は、俺にとって最初こそ胸躍るものであった。
しかしながら、上手くいかない。
なぜか。
俺が普通ではないからである。
一般常識の欠如と“普通”との乖離は、思っていた数倍は深刻だった。何をしても止められる。怒られる。何かしでかしてまた怒られる。咄嗟に迎撃しようとしてしまう。日常が命のやり取りであり、世界中の犯罪者から常に命を狙われる身であった数十年の間に培われた俺の“常識”は、ここでは全て“非常識”。ときには害ですらある。自分の全てが通用しないという無力感は、ひどく心を萎えさせるところがあった。
どうにかしなくては……そんなことを悶々と考えていると湯が沸いたので、ビステの実を濾す。そうして淹れた熱々のビステンカップを手に戻ると、ペギーは先ほどよりも落ち着いているように見えた。怒りが鎮まってくれたか?
「淹れてきた」
「ん、ありがと」
デスクの上にビステンカップを置くと、彼女はそれを一口飲む。
「……次は何をすればいい」
「圧をかけないでよ。私にも仕事はあるから」
「すまない」
「…………」
その日もこんな調子で、一日ペギーの隣に張り付いて終業時間となった。
終業の鐘が鳴ると、ペギーはスッと立ち上がってテキパキと荷物を仕舞い始める。彼女は毎日この調子だ。終業時間にピッタリ合わせ、全て滞りなく終わるよう計算しているのだ。1秒たりとも残業はしない。かといって、抱えている仕事を悪戯に長引かせたりしているわけでもない。与えられた仕事は全て最短でこなし、別の職員の業務まで次々と巻き取り続けている。なのにこの手際。彼女の事務処理能力の異様な高さには、感心しきりであった。
俺も即座に立ち上がり、そそくさと職員寮に帰ろうとするペギーを捕まえる。
「ペギー、待ってくれ」
「なに? 私残業しないんだけど」
「今日も、ありがとう」
俺はそう言った。
「横で見ていて……凄いと思ってる。明日からも、ぜひ、仕事を教えて欲しい」
「…………」
口をポカンと開けたペギーは、紅色の瞳を見開いて数秒固まり、苦笑する。
「アンタ……ほんと馬鹿真面目だよね」
「言われたことはある」
「なんか、毒気抜かれちゃうわ」
「どういうことだ?」
「ついて来なよ」
ペギーはそう言った。
「仕事、教えてあげるから。業務規則の冊子持ってきて」
ペギーに誘われて、俺は中庭から南に下った場所にある売店に向かった。外は夕方。空の低い位置から照らす日差しが世界に朱色を差し、やがてやって来る闇夜に備えさせようとしている。そこでなけなしの金を払って2人分のホットビステンを頼んだ俺は、それをテラス席のテーブルに置いて業務規則の冊子を広げた。それは
「ザッとそんなところ。印付けといて、後で覚えときなよ」
「みんな、コレを覚えているものなのか?」
「……いや? そこまでは覚えてないんじゃないかな。私は覚えてるけど」
「凄いな」
「別に、普通よ」
そう言って俺が奢ったビステンを呑んだペギーは、どこか遠くの方を見た。
「何でそんな、真面目に頑張るの?」
彼女はふと尋ねた。
「逆に、どうして頑張らない?」
「だって生徒課なんて、出世してもタカが知れてるよ? 課長まで行く人なんてほんの一握り。そのダリ課長だって……退職までに運営部の次長補佐くらいが
「出世のことは、あまり考えてない」
俺はそう答えた。ある程度の職権があれば自由に動きやすいだろうが、そこまでは求めてはいない。むしろ出世すれば、いたずらに学校上層部の目を引くことになる。
「それよりも……この仕事をもっと上手くなりたい。今はそれだけだ」
「ほんと変わってんね、アンタ」
「ペギーはどうなんだ? 君も真面目に、頑張っているように見えるが」
「……別に? 頑張ってはいないかな。ただチンタラやるのが嫌いなだけ」
「この仕事が、好きじゃないのか?」
「そういうわけじゃないけど……志望してた所じゃなかったから」
「そこには入れなかったのか?」
俺は尋ねた。
「学科を主席で卒業したんだろ? どこでも引く手数多だと思うが」
「まあ、普通はそうだろうけど」
ペギーは頬杖をついて、明後日の方を向く。
「私……
彼女はそう呟いた。
もう日が落ちて暗い闇夜が降りようとする時間帯に、彼女の長いまつ毛に縁どられた赤い瞳はひときわ輝く。
————紅目。
それはペギーのように、瞳の色が鮮やかな紅色に染まっている人種のことを指す。
知能や運動能力、その他様々な点において、他の瞳の人種と差異は無い。むしろ優位であるとさえ言われている。しかし魔法術への適応力が人種全体で極端に低く、紅目は法術士になれないというのが定説であった。それどころか、紅目に魔法術を使うと“バグる”とまで言われている。
そのため歴史的に差別の対象となっていたが、それはあくまで昔の話。現代では、
「それに首席で卒業っていっても、座学の単位だけで取ったものだから。法術士が取る本当の奴じゃないのよ」
「それでも凄いことだ。普通はできない」
「この話はやめにしよ」
会話を断つように立ち上がったペギーは、職員寮の方向へとサッサと歩いて行ってしまう。俺もテーブルに広げていた荷物をまとめ、紙のビステンカップを捨てると、彼女の後を追った。そうして隣を歩いていると、彼女はふと溜息をつく。
「なんか、アンタが羨ましいわ」
「どういうことだ?」
「なんていうかさ……アンタって部署がどーとか出世がどーとか、何にも気にしてなさそうだから。そういう所は見習うべきかもと思って」
「俺を見習ってはいけない。君まで普通じゃなくなる」
「あ、変だって自覚あったんだね、アンタ」
そう言って、ペギーはクスクスと笑った。
初めて笑ってくれた彼女を見て、俺は柄にもなく嬉しさを感じる。
「ああ、俺は変だ。だから君にもっと指導してもらって、職員として早く一人前になりたい」
「今さら言われなくても、ビシバシやってあげるわよ。泣き言いわないことね」
「頼んだ」
「手の焼ける新人だわ」
ペギーは苦笑し、微笑んだ。
その笑みを見ていると、俺はとても嬉しくなる。これまで何十年も生きてきたのに、俺はこういう会話をしたことがなかった。笑顔を交わすような会話を、全くしてこなかった。伝えるのは、処刑執行の宣告のみ。返って来るのは、悲鳴と命乞いと怨嗟の言葉だけ。その最期の時であっても、血だまりの中で吐きかけられたのは、裏切りと罵倒であった。だから、俺が変だということで笑ってくれる彼女を見ていると、嬉しい気持ちになれた。
すると突然、やかましい声が響く。
「あれ————ペギーじゃね!?」
声の主は、今しがた辿り着こうとしていた職員寮から出てきた、3人組の男たちだ。咄嗟にペギーのことを見ると、彼女は「げっ」という顔をしている。どうやら、彼らに見覚えがあるらしい。
「げっ……トレガン」
「知り合いか?」
「……元同級生」
言いづらそうに、ペギーは呟いた。
元同級生ということは……立法学部、審査学課出身の職員か。
3人はこちらへズカズカと歩み寄ると、俺たちの前に立ちふさがる。
「どうもっす、首席さん!」
彼らはおどけた様子で言った。
「あれ!? 審査学課首席なのに……ペーペーの生徒課職員やってるらしいペギーさんじゃないっすかあ!」
「マジで可哀想〜! ご愁傷様っす!」
「…………」
あからさまにからかうような男たちの言動に、ペギーはただ黙っていた。
「お前、プライドばっか高くてさ〜……目ざわりだったんだよな」
「俺たちと同じエリート部署に入ってくれなくて、マジでよかったわ~!」
「生徒課勤務、頑張ってね~! 応援してるよ!」
「…………」
立ち尽くして黙りこくったまま、ペギーは俯いている。肩を震わせている彼女の顔が、今どんな表情に変わっているのか、俺には想像もつかない。
「つーか……」
男たちの一人が、下品な笑みを浮かべながら言う。
「法術も使えねえ“紅目”の癖に、生徒課に拾ってもらっただけ奇跡だけどな」
「言ってやるなよ。どうせ面接官に股開いて採用してもらったんだからさ!」
「マジで!? ギャハハハハハ! 床上手で採用っすか! 生徒課の
ペギーは拳を固めて震え、俯いたまま黙りこくっている。
「何も言い返さないわけ……? 張り合いねえな」
そう言うと、彼らは俺の真横——その肩をわざとぶつけながらすれ違う。
「ま〜頑張ってね~、ペギ〜さ〜ん!」
「お前みたいなチビには、生徒課がお似合いだよ!」
「法術も使えねえクセして調子乗んなよ!」
「待て」
言いたい放題で立ち去ろうとする男たちに、俺は声をかけた。
「あ? なんだよ」
「お前たちの発言に……侮辱罪が成立する」
「はぁ……?」
足を止めた男たちに、俺はさらに続ける。
「“事実の摘示なし”に“相手の社会的評価を下げること”。お前達の今までの発言には、この両方が成立する」
「……なに言ってんだ? お前」
「ちょっと!」
ペギーに袖を掴まれ、俺は振り返った。
「な、何やってんの……? わけわかんないこと、やめなさいよ!」
「わけのわからないことではない」
俺は言った。
「君は今、暴行を受けた。言葉の暴力によって自尊心を踏みにじられ、社会的評価を毀損されたのだ。このような言動を許すことはできない」
「だ、だからって……やめなさいよ!」
「いいや。やめない」
言い放ち、俺は男たちに向き直った。
「発言を訂正して謝罪しろ。さもなければ、お前たちは
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