(2)

「まあ、あれだ。その、なんだったらこのまま、一緒に来るか? そうすりゃおまえに直接渡せるし、その足で家まで送ってやるからよ」

「うううん、大丈夫」

 なにがどう大丈夫で、どっちの意味かもはっきりしないのに、ガキはやけにきっぱりと言った。


 なんだ、大丈夫って。このまま一緒に来れるって意味か? それとも送らなくてもひとりで帰れるって意味か?


「おじちゃん、あのね、奇跡は起こるよ。だから全部、クマゴローに任せてね」

「なんだそれ。全部って、なにを任せるんだよ? ってか、おまえ、まだ俺に預けたままにする気か?」

 それには答えず、ガキはニッコリとする。

「おじちゃん、ありがとう。ぼく、おじちゃんに会えてすごくよかった」

「おい」

「だからほんと、ありがとね」

「いや、だからおいってっ」

 ガキは、せーの、とでも言わんばかりに胸のまえに上げた両の掌をこっちに向ける。


 ちょっ、待てっ! よもやそのまま突き飛ばす気じゃあるまいなっ。

 焦って身構えようとしたが遅かった。


「元気でね、おじちゃん」


 言葉が終わらないうちに、ドンッと胸を突き飛ばされた。

 子供の力とは思えない強烈な一撃で、鞭打ち確定ではないかと思うほどの衝撃を首に感じる。あっ、と思ったときには上半身がベッドの向こう側に飛び出ていた。

 そのまま、重力に引かれる。


 落ちるっ。


 背中から床に叩きつけられるだろう瞬間を覚悟して、最大限、身を縮めてその衝撃に備えた。

 無意識のうちに固く目を瞑る。その全身を、不快な浮遊感が包んだ。

 思いのほか、長く感じられる落下の時間。

 どこまでも、どこまで落ちつづけていく。

 衝撃は、なかなか訪れない。

 果てのない深淵を、どこまでも落下しつづけていくかのような不可思議な感覚――


 と、次の瞬間。

 ビクッと全身が大きく痙攣して、ハッと我に返った。





 目を開けると、先程同様、間近からこちらを覗きこむ顔があった。だがそれは、たったいままで一緒だったガキのものではなく、母親のものだった。


「あ……、え? ――あれ……?」

「直之っ!」


 目が合った途端、不安げに揺れていた母親の瞳が大きく見開き、直後に顔全体がくしゃりと歪んだ。


 ――なんだ……?


「直之っ! 直之っ。心配したのよっ。あんたって子はもうっ。よかったっ! ほんとによかった……っ」


 肩口に顔をうずめるようにして母親が泣き崩れる。茫然とする目に、白い天井が映った。

 白い天井。埋めこまれたカーテンレール。

 目に映る光景は、先程とまったく変わらない。


 ――病院?


 戸惑いながら視線を巡らせると、少し離れた位置からやはりこちらを覗きこんでいた父親と目が合った。

 声をかけるまえに、その目が逸らされる。


「先生、呼んでこよう」


 赤い目を誤魔化すように顔を背け、親父はそのまま背を向けた。そして、そそくさと出ていった。

 自分が置かれている状況がうまく呑みこめず、茫然とする。


『おじちゃん、奇跡は必ず起こるよ』


 あいつは、どこへ行った……?


 だれかに訊きたくても、だれに尋ねればいいのかわからい。それどころか、この現状を、どう受け止めればいいのかすらもわからなかった。

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