神々の眠る刻
@d39n97_TaO
赤い目の女の子
森の中を、一人の少女が駆けていた。
木々の間をすり抜けながら、必死に走る。そのすぐ隣の幹に、鋭い矢が突き刺さった。追われている――。
少女は編み込んだ黒髪を揺らし、毛織物の服を泥にまみれさせながら、ただひたすらに前へと走り続ける。
やがて、森が切れた。
開けた視界の先には、どこまでも澄んだ青空と、深い青の海。だが、その場所は海に面した崖の端――しかも、先端だった。左右を見ても、逃げ道はない。
一瞬、少女は足を止めた。しかし、その横顔を鋭い矢がかすめる。赤い瞳が、飛び去る矢の軌跡を追った。だが、次の瞬間には迷いを振り切り、逃げ場のない崖の先端へと再び駆け出していた。
当然、逃げ道はない。
少女の足は、崖の直前で止まった。息を整えながら振り返る。すると、森の闇の中から何人もの追手が姿を現した。
彼らは毛皮の服を纏っていた。若者、壮年、狩りに適した年齢の者たち――中には布の服を着た者も混じっている。全員が息を荒げ、額から汗が滴り落ちていた。
少女は、強張る喉を押し開くようにして声を発した。
「待って……やめてよ」
「ダメだ……」
返答は、少女の望みを遮るように返ってきた。
一人の男が、他の追手たちの前へと進み出る。毛皮を纏った壮年の男だった。その顔には苦悩の色が浮かんでいる。しかし、口から発せられる言葉には揺るぎがなかった。
「あんたは悪くない。だが、あんたがいると世界が壊れる」
低く、決意に満ちた声だった。
「話し合おうよ! 何かいい方法があるはずだよ!」
少女は必死に訴える。その声は甘く、どこか心を惑わせる響きを持っていた。毛皮を纏う男たちの視線が、一瞬揺らぐ。しかし、それも束の間だった。
代表の男が毅然と立つ。その姿を見て、仲間たちは迷いを振り払い、弓を構える。
「全員、撃て!」
毛皮を纏った代表の男が号令を下した。その瞬間、無数の弓が放たれようとした――だが。
「ぐっ!」
短いうめき声。代表の男が大きくよろめいた。背後から、布の服を着た男が彼を襲っていたのだ。
「困るんですよ、神を殺されてはね!」
その言葉を合図に、布を纏う男たちが一斉に動き出す。彼らは刃を振るい、毛皮を纏った者たちへと襲いかかった。
「貴様ら! わからないのか! 世界が壊れるぞ!」
毛皮の代表の男が叫ぶ。しかし、その声に布の男は嘲笑を浮かべる。
「壊れる? 違いますね、幸福になるのです! なぜ、それがわからないのですか?」
毛皮の男はなんとか攻撃を振り払い、距離を取る。しかし、深く負わされた傷は致命的だ。いや――布の男の刃には殺意がなかった。
「神よ、ご安心ください! 殺してはおりません!」
布の男は歓喜に満ちた瞳で少女を見つめる。その顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。
「どうか、我らに更なる祝福を!」
「やめなよ!」
少女の声が、森と崖の間に響き渡った。
次の瞬間――異様な現象が起こる。
布の男たちが、まるで見えない手に掴まれたかのように毛皮の男たちから引きはがされ、宙へと持ち上げられた。そして、負傷していた毛皮の男たちの傷が、一瞬で癒えていく。血も、痛みも、まるで最初からなかったかのように消え去った。
その光景を目の当たりにした布の男たちは、一瞬呆然とした。しかし、すぐにその顔に歓喜の色が広がる。
「す、すごい……! やはり神!」
彼らの目は熱狂に満ち、恍惚とした表情で少女を仰ぎ見ていた。
「ケガも治る、若返りもする! なぜ、この素晴らしさがわからないのです! あなただってその若さを得たではないか!」
地に降ろされた布の服の男たちが、口々に叫んだ。
「そうだ、なぜ拒む!」
「これこそが救いだ!」
彼らの声は歓喜に満ち、熱狂していた。
毛皮の男の代表は黙したまま、揺れる瞳で少女を見つめる。迷いがないわけではなかった。しかし、彼の答えは揺るがないものだった。
「人知を超えすぎているからだ! 人の領分を超えすぎている!」
その言葉に、布の男は嘲笑を浮かべる。
「それの何がいけないのです! 幸福以外の何物でもないではないですか!」
その時だった。森の奥から、新たな足音と気配が近づいてくるのがわかった。
布の男は剣呑な笑みを浮かべる。
「必ず我らの手にお迎えしますよ、神よ」
遅れていた追手たちが、間もなく追いついてくるのだろう。
毛皮の男は歯をむき出しにし、低く唸った。
「戦争をする気か!?」
その問いに、布の男は当然だと言わんばかりに頷く。
「ええ、何も問題はありません。どれだけ死んでも、生き返らせてもらえばいいのですから。枯れた土地も、乾いた井戸も、飢えて死ぬ人々も、すべて救っていただけばいい! 何が悪い!」
毛皮の男は、少女に向かって怒声を叩きつけた。
「これが望みか!? 戦争になったぞ!? 次はどうする!? 俺たちの心を変えるか!? 壁で国を分けるか!? どこまでする!? これのどこが救いだ!?」
その叫びに、少女は息を詰まらせた。胸にそっと手を当て、震える声で答えようとする。
「戦争なんて望んでない! ボクは……」
だが、そこで少女の言葉は途切れた。
何かに気づいたように、ふと森の端へと視線を向ける。
そこにいたのは、一人の若い狩人だった。毛皮を纏い、静かに弓を引き絞っている。そのまなざしは迷いなく、一直線に少女を捉えていた。
一瞬の間隙。
放たれた矢が空を裂く。
少女は、その矢をはっきりと見ていた。
そして、矢を放った少年の瞳を見つめ、少し微笑む。まるで、すべてを許すかのように。
少女は、別れを示すためにそっと小さく手を振った。
次の瞬間、矢が彼女の胸を貫く。
衝撃に身体が揺れ、少女はくるりと回る。そして、重力に引かれるまま、崖の縁から静かに落ちていった。
ふ、と、少女は目を覚ました。
先ほどまで響いていた怒号も喧噪も、潮風の匂いも消えていた。
そこは、静かな部屋だった。壁も、家具も、食器さえも、すべてが木でできている。窓枠の外からは暖かな陽光が差し込み、どこかから美味しそうな香りが漂っていた。
「おかえりなさい」
ふと、優しい声が響いた。
部屋の隅に、もう一人の少女が立っていた。
緑色のウェーブがかった髪には、小さな花が咲いている。服の代わりに、全身には柔らかなツタが絡みつき、まるで自然そのものが彼女を包み込んでいるようだった。
「どうだった? 介入は上手くいったかしら?」
彼女の声は穏やかで、まるで森の囁きのようだった。
「ううん、ダメだった」
黒髪の少女はゆっくりと寝かされていたベッドの上に起き上がる。そして、小さく膝を抱え込んだ。
さっきまで居た異なる星から、人知を超越した力でここに戻ってきたのだった。
「過剰な干渉、権力闘争……上手くいかなかったよ。今回も」
「難しいのよ、文明への介入は。私たちはもうやらないと決めているの。それが賢明なのよ」
一息置く。
「……あの場では戦争にはならなかったけど、遺恨は残ったわ」
立っている少女は、静かに俯きながら言葉を続ける。その肩はわずかに震えていた。
「毛皮の民たちは……滅んだ」
その言葉は、まるで霧に包まれたように淡々としていた。しかし、その奥には深い悔恨が滲んでいた。
穏やかな声が、木の部屋に静かに響いた。
「でも、おばあちゃん!」
黒髪の少女は顔を上げ、涙を滲ませながら訴えた。
「じゃあボクたちの持っている力は何のためのものなの!? こんなにすごい力を持っていても、やれることは世界の果てで引きこもることだけなの!?」
膝を抱え込んだまま、肩が震える。悔しさと無力感が、胸の内で渦巻いていた。
“おばあちゃん”――そう呼ばれた少女は、年老いた者のように静かに微笑んだ。外見こそ幼い少女の姿をしているが、その瞳は長い年月を生きてきた者のものだった。
木々を纏う彼女が手を軽く動かすと、宙を漂っていたカップがふわりと舞い、彼女の手に収まった。淡い香りがふわりと広がる。そして、もう一つのカップを少女に差し出した。
「そうよ」
優しく、けれどもどこか冷ややかに言葉を紡ぐ。
「私たちの存在は、人々の毒にしかならないわ。たくさん試したのよ、私たちも。けれど、そのたびに人々は争い、求め、奪い合った。あなたはまだ若い。納得いかないのもわかるわ。でもね……」
彼女は一度言葉を切り、黒髪の少女を静かに見つめた。
「私たちは、他者を救うように傷つけることしかできないのよ」
膝を抱えたまま、黒髪の少女は浮かんできたカップを見つめた。
無視しようとする。しかし、カップはまるで慰めるようにそっと寄り添ってくる。その穏やかな温もりが、じんわりと肌に伝わった。
黒髪の少女は小さく息を吐き、しぶしぶカップを手に取る。そして、そっと口をつけた。優しい香りとともに、温かい液体が喉を滑り落ちる。
おばあちゃん――木々を纏う少女は、静かに言葉を紡いだ。
「私たちの文明は高度になって、大抵のことはできるようになったわ。でも、それを振るうことはとても難しいの。人々には、自然に生きて、自然に死ぬ権利があるのよ。人生の不条理に涙し、その苦しみや悲しみから立ち上がる権利もね。世界を、安全で幸福な動物園にしてはいけないのよ」
それは何度も語られた言葉だった。もはや真理というより、積み重ねられた経験則。
「あるがままの自然の残酷さ、無常さこそ、介入に理想を求めてしまう私たちへの救いなのよ」
それでも――
若い少女には、まだ納得できなかった。いや、納得したくなかった。
なぜなら、それを認めるということは、自分たちの力に意味がないと認めることだから。
この力は、どこにも使いどころがない。ただ、世界の果てで引きこもることしか選択肢がないのだと受け入れることだから。
「あなたは、家の周りのアリたちを助けて回っているようなものよ」
木々を纏う少女の声は、静かで、しかしどこか悲しげだった。
「力に振り回されているの。どこかのアリを助ければ、そのアリたちは他のアリを襲うかもしれない。数を増やせば、周辺の食べ物を取り尽くすかもしれない。他のアリも助ける? 食べ物を無尽蔵に与える? どこまでそれを続けるの? 何をやれば満足なの?」
窓の外から差し込む陽光が、揺れる葉の影を床に落としている。
「全ての苦痛を取り払ってしまえば……生き物は滅んでしまうのよ」
少女の緑の髪に咲いていた花が、そっと閉じていった。まるで、その言葉の重みに耐えきれないかのように。
「介入そのものが傲慢で、助けないことも傲慢。そして、こんなふうに安全なところで、救済の是非を議論することも傲慢なのよ。何をやっても、何を考えても、批判も失敗もなくならないわ」
そこまで言って、彼女は寂しげに黒髪の少女を見つめた。
「でもね……あなたが納得いかないのも、わかるわ」
その声は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
「介入を続けて、失敗を積み重ねて、救うつもりなのに、いっぱい殺して……そして、気づくのよ」
彼女は、静かに目を伏せた。
「終わりにね」
黒髪の少女にも、その言葉のすべてがわかっていた。
これは本当に、終わりの見えた話なのだ。
違う終わりがないのだろうか――そう考えてみても、思考はすべて同じ一点に収束していく。
わからないわけじゃない。もう答えは出ている。
あとは、いつ諦めるかだけ。
自分たちの介入が、救うつもりの好意が、もっと悲惨な結果を招くということを認めるかどうか。それだけの問題なのだ。
木々を纏う少女は、ふと視線を落としながら、静かに語り始めた。
「……あなたは、たくさんの人々と家族になって、子供をもうけて……でも、みんな先に死んでいく。それは良くないことよ」
彼女の声は、まるで遠い記憶をたぐり寄せるようだった。
「違う時間を生きる者たちと共に生きるのは、とてもつらいわ。私たちにとって、彼らの世界は……時間は……読書のようなものよ」
彼女はそっと目を閉じる。
「とても面白い。夢中になる。好きになってしまう……でも、しばらくすれば、読んだことさえ忘れてしまうの」
静かな空気が、部屋の中に広がる。
「時々、本棚の奥から古い本を見つけた時のように、思い出すのよ。あぁ……そうだった、あの子たちは……私の子供たちは、もう生きていないんだ、って。星や銀河さえも、もうないんだ、って」
木々を纏う少女は、静かに目を閉じたまま、さらに言葉を紡ぐ。
「あれだけ仲良くして、一緒に夢を語り合って、歌って、踊って……でも、忘れられてしまう世界が、どれほど多いか」
彼女の声は穏やかだったが、その響きの奥には、計り知れない時間の重みがあった。
「みんな、私たちを愛してくれたわ。本当に、心から……でも」
少女は微かに息を吐く。
「私たちからすれば、それはたくさんの家族の中の一つに過ぎない。本棚を満たす、たくさんの思い出の……たった一つに過ぎないのよ」
指先がゆっくりと動き、宙をなぞる。まるで、目の前にない本をそっと手に取るように。
「あれだけ……これだけは忘れないと思っていても。本棚に戻してしまえば、しばらく読むまで思い出せない物語が、たくさんある」
少女は静かに目を開く。その瞳の奥に映るものは、果たしてどの時代の記憶だったのだろうか。
彼女の声は微かに震えていた。それは涙ではなかった。ただ、あまりにも長い時の中で、幾度も幾度も繰り返されてきた事実を、静かに呟いているだけだった。
「一緒に眠ってあげるわ」
木々を纏う少女の声は、優しく、けれども絶望的な静けさを湛えていた。
「世界の終わりまで、まどろみましょう。何を見ても悲しくて、何をしても上手くいかない。私たちはもう、眠るしかないのよ。目と耳を塞ぎ、口を閉ざして――過ちの拡大を防ぐのよ」
その言葉に、黒髪の少女は息を呑んだ。
顔が青ざめていく。
「それは……。でも……」
言葉が詰まる。胸が締めつけられるようだった。
「まだ……まだ嫌だよ。ボクはそこまで悲観主義じゃない」
震える声で、少女は訴えた。
「カプセルに入って、世界の終わりまで眠るなんて……そんなの……自殺じゃないか」
怯える黒髪の少女に、おばあちゃんは寂しそうに笑った。
「そうね。みんなそう思うわ」
彼女の声は穏やかで、それでいてどこか諦めに満ちていた。
「こうやって途中で目覚めることもできるけれど……やっぱり、自殺のようなものね。何の夢も希望もない。ただ、終わりがいつ来るかを待つだけの、無気力な行為」
それは彼女自身がかつて辿った道だった。
あの頃、彼女も抗った。何も変わらない現実に怒り、絶望し、それでも何かできるはずだともがいた。けれど――
結局、こうして後輩が同じように悩み、同じように諦めるのを支えるだけの存在になってしまった。
「でもね、あなたが介入をするほど、余計な死も増えるのよ」
静かに言葉を紡ぐ。
「いつか、それが支えきれなくなる。ああ、どうしてこんなに……死を積み上げてしまったのだろう、って」
おばあちゃんはふっと目を細め、少女を見つめた。
「……救わない後悔と、死なせてしまった後悔。どちらも辛いけれど――死なせないほうが、少しはマシじゃないかしら?」
黒髪の少女は、それを聞くと憮然とした表情を浮かべ、黙り込んだ。
しばらくの間、ただ沈黙が流れる。
そして――
やがて少女は顔を上げた。
少し拗ねたように目をそらしながら呟く。
「おばあちゃんの話は、いつも暗いよ……」
その声には、どこかもどかしさが滲んでいた。
「ある程度は、諦めないといけないんじゃないかなって思う。そんなのどうでもいいことを考えすぎだっていう子も多いよ」
少女は腕を組み、視線を遠くへと向ける。
「助けてくれるだけで、すごいって」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
赤い瞳には、見る者が不安を覚えるような、危うい輝きが宿っていた。
「ありがとう、おばあちゃん。でも、ボクはまだ諦めないよ」
黒髪の少女は、ゆっくりと顔を上げた。
「もっと色々工夫して、研究して、何か違う道を見つけてみせる。とっくに何度も調べられていても、もう一度調べ直す」
おばあちゃんは目を伏せ、静かに息を吐いた。
「……いっぱい死ぬわよ?」
その言葉に、黒髪の少女は迷いなく立ち上がる。
手にしていたカップを飲み干し、軽く手を振ると、カップはふわりと浮かび上がり、静かに机の上へと収まった。そのまま、少女は迷いなく部屋を出て、外へと歩き出す。
おばあちゃんも、影のように静かについていく。
「ボクらはまだ生きているんだよ?」
少女は歩きながら、ぽつりと言葉をこぼした。
「若さも健康もある。なのに、道を見つけようとしないなんて……それも、おかしいよ」
黒髪の少女は、拳をぎゅっと握りしめた。
「どの力も、みんな……すごい人たちが作って、受け継いできてくれたんだ。でも、それを振るえば問題が起きるって言われる」
胸の奥から、どうしようもない苛立ちがこみ上げてくる。
「じゃあ、この力たちは一体何なの?」
少女は息を詰まらせた。
「わからないよ……どうして、みんな悲しんだり、怒ったりしながら、それでも理不尽を正す力を生み出したの? その先が、使わずに引きこもりだなんて……そんなのって……」
声が震える。悔しさと無力感が、胸の内で膨れ上がる。
風が吹き抜け、少女の黒髪をそっと揺らす。
「ボクたちに力があるなら、その力で答えを探さないと」
おばあちゃんはふっと微笑み、黒髪の少女の隣に並んだ。
「そうね……みんな、諦めるまではそう言って戦ったわ」
彼女の声は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
「ここに至った私たちは四十七種族もいるけれど、みんな失敗した。たくさん殺してね。でも……あなたの挑戦を止めることはできないわね。私も試したように、たくさん殺さないとわからないのよ」
おばあちゃんは静かに目を閉じる。
「私たちも、新しい道を求めているのだから。諦めた者たちに、若者を止める権利があるかしら?」
彼女の声は穏やかだったが、その奥には深い罪の影があった。
「私たちは、こうやって言い訳をして、救済から生まれる死を見過ごしてきたのよ」
そして、静かに呟く。
「……本当に、眠っていても、何をしても、罪深いわね」
おばあちゃんは、黒髪の少女をそっと抱きしめた。
「いってらっしゃい、四十八番目の若い娘よ」
その声は穏やかで、どこか名残惜しそうだった。
「あなたが羽ばたくことを、私たちは止めません。戦って、戦って、そして……何も見つけられず、疲れ果てたら」
柔らかく微笑む。
「その時は、一緒に眠りましょうね」
そう言って、少女の体をそっと離し、優しく頭を撫でた。
手を握りしめ、もう一度、そっと抱きしめる。
「んん……」
黒髪の少女は、なすがままだった。
わかっているのだ。この後、おばあちゃんはまた眠るのだろう。カプセルに入り、起動ボタンを押す。そして、少女が帰ってきたら目覚める――それは、果たして「生きている」と言えるのだろうか?
それはただの、限りなく緩やかな自殺と何が違うのだろうか?
少女の沈黙を破るように、おばあちゃんはふと、彼女の顔を覗き込んだ。
「あなたの赤い目、本当に見る人を不安にさせるわね」
まっすぐに見つめられ、黒髪の少女はドギマギする。
「しょうがないよ……親からのそういう形質なんだから。悪人の血統だよ」
自嘲気味に笑うと、おばあちゃんは優しく首を振った。
「大丈夫よ。あなたの体の特徴と、心は違うことはわかっているわ」
静かに、とりなすように言う。
しかし、黒髪の少女は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「でも、ホントに悪人の血だよね」
かすかな笑みを浮かべる。
「もし本当に“いい子”だったら、ここで諦めて、もう眠っているはずだよ」
その言葉に、おばあちゃんは再び少女を抱きしめた。
「あなたが酷いことをできるだけしようとしていないのは、いつも記録からわかっています」
温かい囁きが、少女の心にそっと染み込んでいく。
「ただ……何でもできるようになっても、世界を踏みつぶさないように救うのはとても難しいだけなのよ。あなたが介入をするのは……誰のため?」
おばあちゃんの静かな問いかけが、部屋の中に溶け込むように響いた。
黒髪の少女は、ふっと息をのみ、ゆっくりとおばあちゃんの瞳を見つめ返した。
その赤い瞳には迷いがなかった。
「人のためだよ……」
静かに、けれどはっきりと答える。
「できるだけ、うまくやろうと……頑張ってる、つもり」
沈黙が落ちた。
おばあちゃんは目を伏せ、しばし何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げると、黒髪の少女をそっと抱きしめた。そして、腕を解き、彼女の背を押す。
言いたいことは、たくさんある。
人のために行った行為が、人を殺すことばかりだったのではないか。
助けても、増長され、裏切られ、自ら立つ意思を奪うだけだったのではないか。
けれど――
それだけではない道が、どこかにあるのかもしれない。
自分たちの力に、本当に正しい使い道はあるのか?
それを問い続けることをやめてしまうのもまた、傲慢で、罪深いことなのだ。
「行くね。また、帰ってきたらよろしく」
黒髪の少女は、一瞬だけ言葉を切る。
「……すぐ戻るかも」
そう小さく付け加えて、ゆっくりと外へ歩み出した。
扉の向こうには、広大な草原が広がっている。澄み渡る青空の下、一本の道がどこまでも続いていた。
背後には深い森。その木々の内部には、静かに建物が溶け込むように存在している。
しかし、どこにも人気はなかった。
この場所には、かつて多くの者がいたはずなのに。
少女はふと足を止め、振り返る。
「いってらっしゃい。いつでも待っているわ」
おばあちゃんが、穏やかに微笑みながら手を振っていた。
黒髪の少女は、風に背を押されるように再び歩き出す。
何度か振り返った。
そのたびに、おばあちゃんは変わらずそこにいて、ただ静かに手を振り続けていた。
少女は立ち止まり、大きく両腕を上げて、ぐっと伸びをした。
「まだ、まだボクは死んでないぞ」
風が草原を駆け抜ける。
その言葉は、空に向かって放たれた宣言のようだった。
そして、少女は力強く歩み出す。
「見つけるんだ、違う道を」
目の前に続く道は、どこまでも真っすぐに伸びていた。
彼女の旅は、まだ終わることができない。
神々の眠る刻 @d39n97_TaO
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