再会
厚い雲が流れていくことが多くなって、風も少し強くなってきた頃、荒れそうだと若者たちの雑談の声が聞こえるようになってきて、空を見上げながら、クラムは指定されていた建物の戸の前に立っていた。ノックをすると、指に硬い木の質感が伝わってくる。
ドアを開けてくれたのは、その建物の店主だった。どうぞ、と抑揚のない低い声がして、ドアが広く開かれる。中は店のようになっていて、奥の棚には色も形も様々な酒の瓶が、芸術作品のように並んでいる。客は一人もいない。
「うちは夜からやる店ですから。それに今日は貸切です」
少し丸まった背骨で老父は言う。こちらです、と店先のテーブルや椅子の間を通り抜け、奥の廊下に通される。
「こちらの階段を上がってすぐ、突き当たりの右のドアの部屋です。烏の標識がかけてありますから、それでわかるでしょう」
では、と店主が頭を下げ店の方に戻っていく。クラムも、店主からは見えなくても頭を下げ、手すりを持って軋む階段を登った。
階段を上り切ると部屋のドアは突き当たりから両側に一つずつあった。古い木の香りがする。烏の標識はすぐに判別できた。もう一つのドアにかかっているのは狐だった。
クラムは緊張していた。どのみちもう部屋の中にいるであろう二人には自分のことはバレているだろうが、鼓動が早まるのは収まらない。
(戦闘の時は、収められるのにな)
諦めるように目を閉じて息をつき、ドアをノックした。近づいてくる、床を踏む靴底の硬い音は懐かしいテンポを刻む。それだけで誰なのかわかり思わず息を呑んだ。昨日も姿を見たのに。
ドアが開くのがスローモーションのように感じられる。開けてくれたのは、やはり『先生』だった。ザラスはクラムの姿を見て目を細める。
「よく来てくれました」
さあ、とドアをさらに広く開き招き入れられる。部屋の中はホテルの一室のようだった。想像より広い。ドアがあるので、隣にも部屋があるようだ。中にはグラスバードもいて、ドアが閉められると、二人のいるこの空間にいることに自覚がわいて、立ったまま息が詰まりそうになる。
固まったクラムの様子に、目を閉じてグラスバードは椅子から立ち上がる。
「私は下にいよう。口読をするときになったら呼んでくれ」
ザラスにそう言った先生を、思わずクラムは見つめるが、視線に気づいたグラスバードは返事をするように笑いかける。
「気の済むまで話すといいよ。何かされたら叫んでくれれば、すぐ来るから」
「人聞きの悪いことを仰いますね」
『先生』の圧が後ろから感じ取られた。グラスバードはそれには片眉を上げるのみで、クラムが入って来たのと同じ戸を開けて外へと出て行った。
『先生』と二人、部屋に残される。静かな部屋に、大きな置き時計の秒針の音だけが聞こえる。
「とりあえず、座りましょうか」
そう優しい声がして、顔を見ないままクラムは頷いた。席に着こうと、グラスバードがさっきまで座っていた方へ向かったクラムは、テーブルの上にあるティーカップを見た。中身はまだだいぶ入っている。
「あの人、一口しか飲まなかったですね……」
クラムの視線に気づいて、ザラスは呟く。ティーカップの乗ったお皿を掬うように手にし、流し台の方に向かう。
「すぐに新しいものを淹れますから、待っていてください。いい茶葉なので、ぜひ飲んでもらいたい」
穏やかな声色に、クラムは止める力を持たなかった。それができる余裕もない。座り、じっと待っていると、ふわりと香りがしてきて、そうだ『先生』も紅茶を嗜む人だったなと思い出してから、ハッとする。
(思い出す……そうか)
自分の中で『紅茶を飲む人』と言われて思いあたる割合の傾きが、『先生』ではなくなっているのだ。自分の中で過去になり、時の経るのと日々の出会いで、変わってきているのを思い知って、無意識に鼓動の打つ胸の方に手を持っていった。それと同じくして、紅茶の注がれたカップを持って先生がクラムの方に来る。
「お待たせしました」
カチャリと先ほどとは少しだけ柄の違うティーカップの乗ったお皿が、クラムの前のテーブルの上に置かれる。豊かな香りがより鮮明に目の前に広がる。中で揺れるのは先ほどと同じ色だ。ちがうのは温度だけ。
先生は自分の前にも同じ紅茶を置き、席についた。やっと動きがなくなり、クラムは正した姿勢のまま正面を見る。
先生はあの頃と本当に変わっていなかった。一年しか経っていないのだから、それもそうかもしれないけれど、髪型も服も仕草も、記憶にある頃のまま変わらない。それがクラムには嬉しかった。
「昨日はあんな再会になり、驚かせてしまってすみません」
先生はまず昨日のことを詫びた。クラムは視線をテーブルの上に落としたまま首を横に振る。
「……いえ、先生がそう判断したことだったのは聞いたので」
ザラスがふっと笑うが、クラムは緊張で自分の発言に気づいておらず、目の前の人物の反応に首を少し傾げる。何ごともないようにザラスは話を続ける。
「久しぶりですね、本当に。あのころも実務に入ってから会えないことはありましたが、それでも二ヶ月が最長だったでしょう」
先生が自分の紅茶に手をつける。覚えていてくれるのを嬉しく思い、はいと頷く。
「怪我は、大丈夫でしたか?」
昨日のことだ。服の下で包帯の巻かれている二の腕に手を当てる。
「……はい、深くはなくて、先生が手当してくれたので……」
言ってからハッとする。やっと気づいたな、というように目の前で先生が静かに笑う。
「あの人のことも先生と呼んでいるのでしたね。呼ばせているに近いでしょうが、まったく……」
最後の「まったく」はクラムではなくグラスバードに言ったもので、クラムにもそれは伝わった。そのような言葉をザラスは協会の子どもたちや他人に言わない。
逆に、そこまで砕けた意識を持つ相手になったのだろうかとも思う。昨日初めて会ったばかりのはずだけれど。クラムにとっては、自分を取り合って喧嘩している大人の男たちの図など、思いつきもしないのだ。
「しかし、怪我の方が何ともないなら、よかったです」
「……戦闘をしていれば、傷はいくらでもできますよ」
「あれはアーバンリキュガルとのことでしょう。それについては私も覚悟を決めていますから看過しないですが、今回のことは対象が異なりますからね」
このまま話はそれていくんじゃないかと思うほど穏やかな会話の空気だった。久しぶりの会話に抱いていた不安は、泡のようにもう消えていた。クラムが紅茶に手をつけていないのを見て、ザラスが促す。
「いきなり話し出しすぎてしまいましたね。紅茶、ぜひ飲んでみてください。おいしいですよ」
会話から続いて、変わらない優しく穏やかな声。クラムはティーカップを見るが、その答えは、ザラスの知っているクラムとは想像と違うものだった。
「……すみません、この紅茶は飲めません」
クラムはまっすぐに前を見る。ザラスは穏やかな表情のままだが、少し驚いているのはわかる。
「紅茶、嫌いになりましたか?」
「いえ、今でも飲みます」
強いて言えば、コーヒーの方をよく飲むようになったけれど。
「……何故なのか聞いても?」
先生の問いに、クラムは視線を少し窓の方に外しながら答える。
「……先生と協会は、私を都に連れて帰りたいのですよね」
外では鳥たちが縄張りを争うような、種類の違う鳴き声がいくつかしている。
昨日、グラスバードに問われた時はまだすぐだったので、クラムは整理がついていなかった。時間が経ち落ち着くと、夜には二人の会話の内容をリフレインさせて、色々と考えの至る部分が出てきてもいた。
「先生にそのつもりがある以上、今日先生から出されるものは、口にできません。……いい茶葉なのは、本当にわかるんですが」
芳醇な香りに、ちらとティーカップへ目をやる、先生は目を閉じて静かに「参ったな」といった表情で笑う。何も入れてはいないが、クラムがそう判断し、そう行動すると決めたことに対しての反応だった。
「上出来だと思います。対人における警戒の訓練は、したことはなかったと思いますが」
「私は……先生の弟子ですから」
ザラスがクラムへ目を向ける。クラムは目を逸らしたままで「そう先生が思っていてくれるなら」と小さな声で続けた声に、そっと微笑む。
「思ってますよ」
これは、真剣に話をしないといけないな、とザラスは思った。
子供の成長は本当に恐ろしいと感じる。目の前の、凛とした姿勢で座っている少女は、一年前とは変わった。姿や顔つきも大人びた。それに、本人はわからないかもしれないが元気になった。行動ではなく、心がだ。自分に対してのものごとの判断を、自分でつけるほどに。
「わかりました。かまいません。ではまず、そのことから話しましょうか」
クラムが顔を上げザラスを見る。クラムに何が話されていないかは聞いている。
「キミを都に連れ帰らなければならない件についてです」
ザラスはグラスバードに行った説明を、より丁寧で優しく、そして説得も交えてクラムに伝えた。切り札を除いて。
半刻が過ぎる頃には、ザラスは事情を話し終えていた。さすがに付き合いが長いからか、丁寧な言葉は、クラムが落ち着いて聞き取り、解釈できるために十分なものだった。
「つまり……」とクラムは一瞬言い淀む。
「私が『賢人に至る者』である可能性があることと、もう戦えないかもしれないから、都に帰り、先生の元で賢人になるための研鑽を積ませることが、先生と協会の望み……なのですか」
確かめるように、聞いた話の要約を先生に伝える。そうですね、と先生は頷く。
ザラスとしては、うまくいけばここでクラムは頷いてくれると想像をしていた。それほどに、自分を慕ってくれているという自信も心理の中にあった。しかしクラムの表情は晴れず、考え続けている。少しの間、次の言葉が少女の口から出るのを待ったが、あまり自分にとってよくない予感がして、ザラスは続きの話を切り出した。
「ただ、戦えないかもしれない、というのは今は暫定の話です。先に、先ほども話したとおり、キミの口読をします。彼を呼んできましょう」
ザラスは席をたち、部屋を出ていく。ドアが閉まっても、クラムは椅子に座っている姿勢のまま動かない。
思考は巡るが、どこか冷静だった。そのときにはもう、自分の中で返事は決まっていたからかもしれない。
階段を軋ませザラスとグラスバードが部屋に戻ってきた時にも、最初にこの部屋に入ってきたときと同じように威圧感のある空気になったが、クラムは今度は変わらない凛とした姿勢で座っていた。
グラスバードが机をまわってクラムから見て斜めの右側の席に座る。目を向けると、背もたれに深くもたれた状態で、クラムの視線に気づいた先生が目を向けた。何ごともないような表情で視線を流してくる先生に、いまいち何を考えているかわからない。ザラスが正面に座り、クラムと目線を交える。
「ではやりましょうか。正確に情報を取りたいので、同じ動きを三回繰り返してもらいます」
クラムは整然と「はい」と頷く。
「目を閉じて、対象と対峙した時のことをしっかりと思い浮かべてください」
言われた通りに目を閉じる、あのときのことを思い出す。動かず、変化のない距離の、あの異様な時間の体の竦むのが思い出されて、思わず机の下で重ねた手をギュッと強く握る。
「思い出せたら、そのときの相手と同じ口の動きをしてください」
クラムは記憶の相手と鏡のように口を動かす。長い言葉だったわけではない。比較的短いものだったはずだ。
「……もう一度、次は少しゆっくりと動かしてください」
望まれるままに、口を動かす。終わってから次の指示はなかなか来ない。先生、と呼ぼうかと思ったが、その前に「もう大丈夫です」と声がかかった。
「目を開けていいですよ」
記憶の中の対象から現実の世界に目を戻す。正面に座る先生は、口元に手を当て、何かを考えるように黙ったままだった。グラスバードもしばらくその様子のザラスを見ていたが、時計の針が二つ動きを刻んだ時に口を開いた。
「で、どうなんだい」
ザラスは口元から手を外すと、そのまま両手をテーブルの上で組む。目線は合わない。
「まずいことになったかもしれません」
その言葉にグラスバードは怪訝な顔をする。
「何だい、そもそも、結局なんと言ってたんだい」
ザラスはずっと逸れていた視線をグラスバードに向ける。
「クラムが言われた言葉は、『私はあなた』です」
グラスバードは片眉を上げる。
「何だいそれは、暗示の一種かい」
「いえ」とザラスは首を横に振る。
「……そのアーバンリキュガルは、クラムが生み出したものかもしれない」
ザラスは視線をクラムに向けた。どこか悲しみの宿る瞳だった。
「キミが自分を、殺したときに」
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