過去の夢

 深黒の中でクラムは夢を見ていた。

 家の前に立っている。その心の状態を感じて、頭のどこか冷静な部分で、この家に初めて来た頃の夢なのだとわかった。

「都から来ました、協会の者です」

 大きい声で 呼びかけたのは、ベルを鳴らしても反応がなかったからだ。    

 しばらくしてドアが開いた。中からこちらを見てきた先生のことを覚えている。あとからあの時のことを聞いたが、「子供だったのでびっくりした」と言っていた。

 びっくりしていたというより、クラムとしては睨まれたように感じていたし、実際そうだったと思う。

「入りなさい」

 電気のついていない暗い内側から言われ、そのまま先生はいなくなってしまったので、開いたままのドアから中へ入った。入ってしまえば、それほど暗いわけではないとわかる。どこかの窓からの灯りで、薄い明るさがある。

 全ての荷物の入った、大きな硬い木のカバンを持ったまま、それを一歩ずつ膝で押しながら、廊下を歩いていく。この家の主はどこに行ったかを探しながら。

 彼はこの家で一番広い部屋、リビングにいた。ポットからコップに何かをついでいた。用意してくれてるのだろうかと一瞬思ったけれど、大きな男用のもの一つだけだったので、自分のものではないのだとわかった。

 足元に荷物を置くのと、先生が大きい椅子に掛けながらお茶を飲むのはほぼ同時だった。

「立ったままでは気になる。座りなさい」

  ソファの方を促されて、言われたとおり座る。姿勢を正したままに、一拍置いて向き直る。

「あの」

「話は聞いている。協会から派遣されたんだろう」

  言葉を遮るように話を進められ、大人しく「はい」と頷く。先生は静かにお茶を啜る。コップからは白い湯気が立っている。「……まったく」と心底呆れているというように言葉が口から溢れた。一度コップに落ちていた視線がクラムへ向く。

「……キミ、年はいくつだ」

「……十七です」

  ああ、信用できないのだろうな、というのが言葉からも表情からもクラムにはわかった。

「……協会からはね、今まで何人も来ているんだよ」

  ふいに先生が口を開いて話し始めた。コップの外側を指がさすっている。

「だが私は人が嫌いでね。気に入らないとすぐ追い返してしまって。ああ、勝手に出て行ったのもいたかな。とにかく、人と暮らすというのに向かない。守護者はもういらないと言ったが、次は絶対大丈夫だから、と言って無理やり寄越したのが、キミだ」

  先生がコップを持ったままの手で、人差し指をクラムは向ける。まっすぐに目が合って、初めて、先生の瞳が紺なのを知った。

「やつら、子供なら追い返せまいと思っているらしい」

  クラムは目を下へ逸らした。正した姿勢の膝の上に乗せた拳を見つめ握りこむ。

「……年は若いかもしれませんが、ちゃんと戦えます」

  やっと発した言葉だったが、「そういうことではないのだよ」と諭すように返される。

「私は人が嫌いなんだ。悪いが、部屋は用意してやれない。戻って追い返されたと協会に言いなさい。やつらもやはりダメだったかと思うだけだ」

 クラムは視線を窓の外に移した。庭らしきそこには、この地域に生息するのとは違う植物たちが生きてきる。この人が手入れしているのだな、と思った。

「……協会の命令は、絶対です」

 ぼんやりと、遠くを見たまま口に出す。私たち協会に所属するものが繰り返す言葉を。

  まっすぐに先生を見た。

「一緒に暮らすことと、部屋を与えることができないなら構いません。でも、守らせてはいただきます」

  立ち上がり、荷物を持つ。

「……協会の命令だから、か」

  呟くような先生の声に振り返った。こちらを見てはいない。クラムも答えはしなかった。その時は少し、怒っていたのだ。

 来た時と同じように重い鞄を持ったまま玄関を出た。広がっているのは草原。短い草がそよそよと靡いている。風を受けたそれらは一定の模様を連続させながら地表を撫でていく。

 クラムはぐるりと見渡した。後ろには灯台と、それに一体となった、暮らすはずだった家がある。

 その裏は崖が続き、海が広がっている。崖の方へ近寄って行ってみると、海へ岸壁直下という訳ではなく、多少の岩場があってから海へ続いていた。

 鞄を置き、滑らないよう細心の注意を払いながら降りてみると、黒く気泡のような穴の空いている岩たちはゴツゴツしていて、足で地面を踏み荒さを確かめる。少し見渡すと、上にいた時には見えなかった岩壁に、浅めのへこんだ空間が見えた。灯台の方を見上げると、頭の部分だけが少し見える。

(見つかるところにいると気に触るかもしれないし、ここならちょうどいいかな)

 そう考えて、クラムはそこを棲家にすることに決めた。


 黒い岩場を下を見ながら歩く。たまに蟹がいて、焼いて食べると美味しいので、それを主食にしていた。岩壁の浅くへこんだ空間に住み始めて五日が過ぎていた。

「あっ」

 赤い影を見つけて走ってしゃがみ込んで捕まえる。手に掴んだものを見て笑う。思ったより大きくて身が詰まっていそうで……

「何をしているんだい」

 美味しい想像をしているところで現実から声がかかった。しゃがんだまま黒岩に向けていた視線を少し前にずらすと、汚れひとつない靴が見えた。顔を上げると、数日ぶりに見る先生の姿があった。その表情は苦々しかった。

 クラムもスッと表情を消し、次にムスッとした顔になってカニを片手に持ったまま立ち上がる。カニは手のひらの中でジタバタともがいている。

「何って、蟹を取ってるんです」

「それは見ればわかるよ」

 先生をジロリと見た。なら何を聞きたいんだと言わんばかりに。

「何で帰らないんだい」

  理由は言ったはずだし、わかっているはずだ。だからそれには答えずに返す。

「灯台からは、普通に過ごしていればここは見えないはずです。気にされないでください」

「協会が好きなら戻ればいい、これ以上のことはないだろう」

  心底呆れたように先生は頭に指を当てる。

「期待してると言われました」

 はっきり言った。真っ直ぐに見て。先生の動きが止まる。

「帰ったら、悲しませます」

「……協会に言われたのか」

「だったら何です」

 もうかまわないでください、と吐き捨てるようにして背を向けた。

「その蟹」

  と後ろから声がかかる。

「数があまりいない貴重なものだ。食べられては困る。生態系が崩れる」

  声が届くように顔を横にだけ向けて、けれど姿を見ることなく答える。

「では、別のものを食べます」

 持っていた蟹をそっと岩場に置くと、慌てたようにさっと逃げていった。その姿に微笑む。

 その間も先生は後ろにいたが、気に留めず、すぐに表情を戻して反対側へ歩いていく。

 その自分の後ろ姿を、クラムは外側から見ていた。夢の中だからだな、と思いながら、ふっと笑う。

 一緒に暮らすようになってかららあの蟹を食べてはいけないというのが嘘だったのだとわかった。

 このあたりはまともに魚も素人には取れないし、食べるものがなくなれば大人しく帰ると思った、と、後で先生は言っていた。今では食卓にはよくグラタンなどになったあの蟹が並んで、クラムの好物になっている。


 すると、視点が変わった。いつの間にか家の中にいた。古い木の壁の姿は、今の自分にとってはいつも見ているものと同じだが、あの頃の自分は見ていないはずのものだ。窓があるので辛うじて見えるが、電気はついていない。空は雲に覆われていて、世界も薄暗くなっている。

 ふと振り返ると、反対側の廊下の先に先生がいた。窓のそばに立っている。壁に軽くもたれ掛かりながら、外からは見えない位置から、二階にあるこの場所から、窓の外を見ている。

 ああ、と思った。あの場所から何が見えるかは知っている。海の崖の、あの黒い岩場が見える。あの岩壁の、私のいる場所は見えないはずなのに、その視線はじっと動かない。睨みつけているのかと言えば違う。何かの感情が立ち入る訳ではなく、いや、微かに瞳が揺れているか。ただじっと、クラムの動向を見つめている。

 その先生の姿に、笑みが微かに溢れた。

(やっぱりあの頃、見守ってくれていたんだな)

 空の雲は厚かった。雨が降りそうなのがわかる。そうか、今日はあの日なのだと、クラムにはわかった。この地へ来て初めて、アーバンリキュガルと戦った日。そして、先生と暮らすことになった日だ。


 暗い空を、岩壁の浅いへこみから、黒岩の地面に座って見上げていた。遠い空を見ていると、雨の匂いが鼻を掠める。もうすぐ降るなとわかるのは、経験からだっただろう。

 薪用に拾ってきた木の枝を指で遊びながら、外の大岩のそばを見た。自分で食べて空になった、小さな貝殻がたくさん転がっている。

 灯台の主とこの場所で会ってから三日が経っていた。蟹以外の食べ物は、探してもほとんどなかった。でも、赤い殻に手をつけることはなかった。

 使命のことを思えば、空腹はどうとでもなった。ぼうっとする頭でどこと言うでもなく見つめるうち、冷たい何かが手の甲に当たる。外の黒岩の地面に染みがポツポツと増えていく。その速度は上がり、すぐ一面に広がって世界は雨に包まれた。

 岩壁の空間は浅いものなので、雨を防げるかと言えば、全くそんなことはなかった。すぐに全身が濡れて、水は服に染みた。この土地に来てから初めての雨だった。海は荒れて波が激しくなっている。そこからは離れているこの場所で、岩に打ち付けられて飛沫が上がるのを見ていた。

 雨に濡れるのは、なんてことはなかった。体が冷えるのも、寒くはあるけどどうでもよかった。冷えて風邪を引くのは困るけど、しょうがない。

 何も感じないことにできる恐ろしさというものが、クラムにはそもそも存在するとも、もうわからなくなっていた。いつから自分はこんな風になっただろうか、それももうわからないけれど。

 雨の世界を見て、体温だけが少しずつ無くなっていく中で、眠気に目を閉じようとしていたとき、金属の打ちつけ合うような、甲高い鳴き声がした。

 瞬間、血が激ったように体と脳が目覚める。

 立ち上がり、音のする方へ駆け出す。雨を肌が弾く。服は重いが、気にはならなかった。黒岩の崖を駆け登り、草原の草が一段長く高くなる場所へ出た。丘を一つ越えたそこは、灯台からは見えない場所で、そのことにだけはほっとした。これで心置きなく戦うことができる。 

 手にはめている革のグローブを引っ張り上げ、ギュッと握り込む。クラムの目の前には、五匹のアーバンリキュガルがいた。

 アーバンリキュガルは、賢人を喰らう魔物だと、初めて協会に入ったときに教えられた。その姿はケンタウロスにも近い。人より一回り大きい牛ほどの大きさをした、下半身が蜘蛛、上半身は人間の男性に近く、頭はハイエナの姿をしている、と。だが口で聞くのと実物を見るのとはまるで違った。クラムが初めてその悪魔を目にしたのは、協会の人たちが戦うのを建物の陰から見たときだった。その姿の異様さに気を失ったのを覚えている。

 あれから時間が経ったな、と頭のどこか冷静な部分で思った。十三歳の頃だから、二年だ。通常協会に入り戦いの実務に入るのが二年後からだから、同じ時期に協会に来た子はそろそろ戦いに心を備えたり、訓練の量や質を変えたりしている頃だな、と思った。

 現実の世界では、暗い曇天と雨のなか、しっとりとした草と土の匂いを纏いながらクラムの体は五匹の魔物を相手に大地の上を舞っていた。

 クラムは戦うのを好む戦闘狂なわけではないが、自分の戦い方をこう称されたことがある。「彼らを喰らう獣のようだ」と。

 ある程度集団で行動するアーバンリキュガルは、賢人が目的だとしても一匹を攻撃してしまえば、攻撃してきた敵を潰すために集団の全てが動く。それ以上の知能はない。

 ある説では、彼らはかつて罪を犯した人間で、罰としてこの姿になったが、賢人を喰らうことで知を得て人に戻ろうとしている、と言われているという。ただ、詳しいことは解明されていない。

 足の関節をへし折り、頭へ蹴りを叩き込む。金属の刀や銃を使ってはいけないのは、それらが彼らの血と触れると毒になるからだと教わった。だから私たちと彼らを隔てるのは革のグローブ一枚だ。

 ギュッと拳を握り込んで足を振り上げ、ハイエナの鼻の上を叩き折るように踵を落とす。何かの壊れる感触と音がして、戦いが終わる。クラムの体はアーバンリキュガルの血と土で汚れ切っていた。

 動けなくなっているだけでまだ息のある彼らの足を折っていく。ありがたいのは、彼らの脚には痛覚がないことだ。

 足で関節を踏み折って周り、全てが終わって立ち止まる。こうなれば彼らはもう死まで何もできない。彼らの体に火を焚き、完全に消滅させることで戦いは本当の終わりを迎える。

 雨だから、今日は燃やせないかもしれないな、とクラムはぼうっと思った。

 地面に横たわっていて息だけをしている彼らを見つめていると、後ろに人影を感じた。誰かはわかるので、顔を横へ向け、片目だけでそちらを見る。

 傘を差し、灯台の主が立っていた。じっと、今までは見たことのない目でこちらを、クラムを見ていた。まだ血の激しく回る中で、冷静でなかったのはクラムの方かもしれない。

「来なくてよかったのに」

 吐き捨てるように口に出すと、先生の表情はいつの間にか、いつもと同じ冷たいものに戻っていた。

「離れなさい、焼く」

 心臓が波打って、浅い呼吸を続ける。

「……つきませんよ、雨だから」

 彼らへまた視線を戻して、自分の体から濡れて流れていく血と泥を見て、「いいから」と後ろから聞こえた声を最後に、視界が揺らいで記憶は途切れた。


 ここからはまた、クラムの記憶ではない世界だ。先生は倒れたクラムを見てから、そうなることはわかっていたように、慌てるではなく差していた傘をそのまま地面に置き、静かに近くへ来て両腕でクラムを抱え上げた。白い衣が汚れるのは何も気にしていないようだった。抱え上げてアーバンリキュガルたちの肢体の輪を離れると、また少し膝を曲げて屈む。そうしてクラムの体を足元だけ地面に預け、膝裏を支えていた片手を空けると、衣の隙間から何かを取り出し、彼らの元へ投げ入れた。それが落ちた瞬間アーバンリキュガルたちの肢体は強く発火し、燃え上がる。

 先生は再びクラムを抱え上げ、炎が確かに全ての個体についているのを見てから家へと丘を戻っていった。

 そのときの、揺れながら抱えられている感覚だけは微かに残っている。幻のように思っていた。だって、優しい腕だったから。


      *


 目を開けると、天井だった。木目をぼうっと見てから、ここがどこかわからなくなる。先生の家にいるのだとは思わなかった。顔を動かして見ると、数冊しか本の入っていない簡易的な木の棚と、窓が目に入る。外では雨が降っている。そういえば戦っていたのだなと、他人事のように思い出す。

 しとしとと、外の世界からガラスに当たって跳ねられる滴を見ていた。ここに入ってくることはできない。ここに入っては来ない。ここは安全で、冷たい世界から守られている。

 手を動かしてみる。眠らされているベッドを指で擦った。清潔な麻の感触がした。今度は自分にかかっている布団に触れる。白く軽いそれも麻でできていて、いつだったか入ったことのある病院を思い出した。

 そのとき、廊下から足音がした。開けられたままだった部屋のドアの方を見ていると、先生が入ってきた。手には盆のようなものを持っている。ベッドの横の台に乗せられたのを見て、それが注射器だとわかる。

 先生がベッドのそばに座り、シーツの下から力ないクラムの片腕を取り出したとき、クラムは強くそれを振り払った。そのまま腕を抱きしめるように握り、怯えたようにするクラムに、先生が顔を向ける。

「この注射は薬だ」

  あくまで穏やかな調子で先生は諭す。元々あまり入る力も残っていなかったから、クラムの手の力は弱まった。それを見て、先生はクラムの腕を手に取り、綿で消毒を塗ってから褐色の腕に注射を打つ。中の液がゆっくり無くなっていくのがクラムにも見えた。

「私もこれは嫌いだ。出来れば持ちたくはないし、使いたくもない。だが、今回はこのままでは死にそうだからね」

  先生がそう言っているのをぼんやりと、力の抜けた耳で聞いていた。何も考えれずに、言葉を発する。

「もし、私が死んだら……」

  話出しに、先生がクラムを見る。か細い声だった。

「協会に…ザラス・ターガという人がいます…その人に、伝えてください……」

「………そいつが、キミの親玉かい」

 先生は了承するとは言ってくれなかった。クラムも目を閉じることはなくて、心臓は規則正しく動いていて、しばらくして失言だったなと思った。名前というのは、どんなときでも簡単に出してはいけない。使われてしまうから。そう教わったのを思い出す。

  クラムの意識が落ち着いて、自分の失態がわかる状態になるまで、先生は横にいた。

「……忘れてください」

  やっと次に発した言葉がそれだったことに、先生がふっと笑ったような気がした。

「無理だけれど、まあ、努めてあげるよ」

 事情のわかっている人だからそう言ってくれたのを、一年一緒に暮らした今ならわかるが、当時の自分は驚いて、先生の方へ顔を向けた。

 先生はまた、つまらないような顔に戻っていて、椅子に腰を掛け、クラムの寝ているベッドの向こうにある窓から外を見ていた。

 外からの雨の音だけがして、こんなに静かな世界で誰かと長く二人だけになるのは、久しぶりだなと思った。前の記憶が誰なのかは、寂しくなるから考えないようにした。

「……ここはキミたちにあてがってきた部屋だ」

  窓の外を見たまま先生が静かな声で言った。キミたち、というのが協会の子を示しているのがわかり、クラムは聞こうとしてその高い位置にある顔を見上げた。

「……この部屋を使いなさい。晴れたら、荷物を取りに行って」

  先生が顔をこちらへ向けた。紺の瞳と視線が交わる。最初に会ったときと違い、その目に嫌悪はなかった。ただじっと私を見ている。

「……あなたは、協会が嫌いなんでしょう。私は協会の人間です」

  どうあってもそれは変わらない。揺るがないものを見せたが、先生は動じることはなかった。同じままの声の調子で続ける。

「わかっているよ。私は協会が嫌いだ。だが、その理由は違うところにある」

「……理由?」

  呟くと、自分の過ごしてきた協会での時間と光景が脳裏に浮かんで、ただ純粋に疑問になって、首を傾げた。私はこれ以上ない幸福と恩と愛を受けてきた。

  先生はまるで、クラムの考えていることがわかるように、自分の言葉を続けるのをやめた。代わりのように言う。

「まあ、キミもいつか、わかるかもしれないね。……わからないままでいてくれるのが、何よりだけれど」

 そしてまた窓の外の遠くを見る。

 弱りきっていた頭と体では、今の状況がよくわからなかった。だから尋ねたのだ。「あなたを守ってもいいですか?」と。

  こちらを見た先生の瞳は揺れていたけれど。まっすぐに私を見て、はっきり答えてくれた。

「ああ、いいよ」

 やっと聞いた、私自身に向けられた穏やかな声だった。


 外の世界の明るさに、目を瞬かせながらゆっくり頭が起きていく。耳に馴染んだ時計の秒針の音がして、リビングで寝ていたのを思い出した。手にはシーツが握りしめられていて、布団の上でシーツとぐちゃぐちゃに混ざっているのを知る。上体を起こしてそれを解きほぐしながら、ふと風を感じて、リビングにある一番大きい窓を見た。

 窓は開けられていて、穏やかな風がゆったりと大きく、薄いレースのカーテンを揺らしている。家の中へと入ってきた風は、空いているドアをくぐり、廊下を通ってまた別の場所へ抜けていっているようだった。首を捻り、壁にかけられている時計を見ると、もう十時を過ぎている。こんな時間に起きるのは初めてだ。いつもは目覚ましなんてかけなくても朝早くの決まった時間に起きれるのに、ゆっくり寝過ぎてしまった。

 隣にいたはずの先生の姿もない。立ち上がって布団の端と端を合わせながらきれいに畳む。カーペットの隅に寄せておいて、先生を探しに行く。

 入れ替わった爽やかな空気が隅々まで行き渡っていて気持ちがよく、廊下を歩きながら両手を広げて深呼吸する。廊下の角を曲がったところの、家の裏へ出る小さなドアが開いていた、風が抜けているのはここだったようで、クラムの探し人もこの先にいるだろうことが予想がついた。

 明るい世界に出る。いつも洗濯を干す、風通しの良い海の見える場所。先生はそこに立って海の方を見ていた。近づいていくと、足音なんてしなくても気づいて振り向き、口角だけを上げた笑顔を見せる。

「起きたかい」

 横に並んだところで「はい」と答えた。先生の衣もふわふわと揺れていて、朝見ていたカーテンが重なる。

「もう昼になっちゃいましたね」

「よく眠っていたよ」

 先生の顔を見上げる。出会ったあの頃と変わらない姿だが、

「こんな風になるとは思いませんでした」

  言うと、何のことだいと言わんばかりにモノクルがこちらに向く。

「初めて会った頃の夢を見てました」

  もしかして見せましたか? と尋ねると、含んだような笑みをして「さあね」と言うだけ。

「どうしてですか? そんなにいい思い出でもないのに」

「そうかい? 私にとっては大事だよ」

  さらっと言うので、クラムは視線を海へ向ける。二人の影が、風にそよぐ若草の草原に落ちている。さっきの言葉の答えを言う。

「先生がこんなに笑う人だなんて、あの頃は思いませんでした」

  先生は顔を下に向け、笑顔のまま「そうかい」と、満足そうに言う。

「何がそうさせたんだろうね」

 二人の眺める海の空には、ゆったりとカモメが飛んでいる。

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