第9話 公爵令嬢の圧に、伯爵震える

 昼過ぎになり、部隊はラフォル伯爵領の境界までたどり着いた。道の両脇に掲げられた領地の紋章と、やや古びた柵が見えてくる。遠目にも警備の兵がちらほら見えるが、数は多くない。


「交渉を試みますか、お嬢様?」

「ええ、そうしましょう。もし門を開けないようなら、破ってでも入りますが」


 そう言い放ち、リディアは副官と数名の騎兵を伴って柵の近くまで進み出る。向こう側にいる兵が慌ててやりを構えたが、先ほどの小競り合いと同じく統制がとれているようには見えない。


「ラフォル伯爵領の兵たちに告ぐ! わたくしたちは公爵家の軍隊である! 領主である伯爵と会談の場を設けたい、今すぐ門を開けなさい!」


 リディアが通る声で宣言すると、柵の上から兵の一人が顔を覗かせる。挙動が落ち着かず、視線をキョロキョロさせながら、「し、少々お待ちを!」と答えた。リディアは馬上でしばし待機し、柵の奥で何やら慌てた声が飛び交うのをじっと聞く。数分後、きしんだ音を立てて柵が開き、衛兵らしき男が出てきた。


「こ、こちらへどうぞ……伯爵様が面会に応じるとのことです。ただし、少人数で……」

「承知しました。兵を大勢入れる気はありません。わたくしと副官だけで十分です」


 副官に目で合図を送り、騎兵の隊列を門の外で待機させる。二人が馬に乗ったまま柵内に入ると、中には比較的大きな洋館があり、周囲にはやはり慌てた様子の兵が散らばっていた。そこを通り抜けて洋館の玄関先まで行くと、やや小太りの男が重そうなマントを翻しながら姿を現す。


「こ、これは公爵家の……。まさか本当に……な、なんのご用件で?」


 慌てふためく男――ラフォル伯爵その人だろう。リディアは馬から降りると、にこやかに挨拶をする。


「はじめまして、ラフォル伯爵。わたくしは公爵家のリディアと申します。今、王都へ向けて進軍しているところなのですが、あなたの領地が通り道ですので、お話をさせていただきたいと思いまして」

「し、進軍……ということは、やはり噂は本当だったのか……王家に宣戦を布告し、王都を攻めるつもりだと……」


 ラフォル伯爵は視線を落ち着かせられず、顔色も青ざめている。もともと彼は王太子の取り巻きと交際がありながら、その恩恵にあずかることを期待していた節がある。しかし、現実問題として公爵家と正面から敵対する度胸があるわけでもなかった。


「わたくしは無茶な戦をしたいわけではありません。ただ、王太子が我が家をあなどった行為に対して、それなりのけじめをつける気でいるだけです。もし伯爵が王太子側としてわたくしたちを妨害なさるなら、それなりの覚悟はあるのでしょうね?」


 リディアが笑顔のまま淡々と問いかけると、ラフォル伯爵はかすかに身震いした。周囲には公爵家の兵はほとんどいないものの、その威圧感は凄まじい。背後に控える副官もまた、鋭い目つきで伯爵の反応を窺っている。


「い、いえ……わたくしは王太子殿下の味方を気取るつもりは……ただ、その、いきなり進軍されると……こ、この領地の住民が混乱して……

「それならば話は簡単です。伯爵が協力していただけるなら、この領地には手を出しません。むしろ保護下に置きます。けれど、反抗なさるつもりであれば……」


 リディアが言葉を区切ると、ラフォル伯爵は慌てて首を振った。今の状況で公爵家を敵に回すメリットは皆無だ。先ほどちらりと見えた騎兵隊だけでも、伯爵領の全兵力を上回る可能性が高い。抵抗など到底できるはずがない。


「わ、わかりました……。公爵家の通行をお認めいたします。領民にも手出し無用と伝えましょう。それでいかがでしょうか……?」

「ありがとうございます。それで十分ですわ。では、何事もなく通らせていただきますね。ただし、もし裏切りなどがあれば、そのときは遠慮なく対応させていただきますので」

「は、はい……もちろんです……」


 伯爵は額にじっとりと汗をかきながら深く頭を下げる。リディアはその姿を見て「大丈夫そうね」と胸の内で安堵する一方、この男が王太子と結託しないとも限らないと警戒心を抱いた。


「それから、少しこちらの兵が疲労していますので、今夜だけ領内で宿泊させていただきます。貴方に負担をかけるつもりはありませんが、最低限の補給は認めていただけますね?」

「も、もちろんですとも……。どうぞご自由にお使いください……」


 伯爵の返事を聞き終えると、リディアは「感謝します」とだけ言い残し、再び馬上へ。副官が後に続き、柵の外に控えていた部隊へ合図を送る。やがて騎兵たちが整然と伯爵領に入り、周囲の領民を驚かせながらも秩序正しく進軍を続ける。


「お嬢様、話がスムーズにまとまってよかったです。しかし伯爵の表情は、かなり気弱そうでしたね」

「そうね。あれならわたくしたちが脅さなくても、そのうち王太子に振り回されて終わるでしょう。少なくとも、この場で無用な衝突が起きなくて助かりました」


 リディアはそう言って馬を進める。ふと、街道の脇に集まっている領民たちの様子が視界に入り、少し減速した。彼らは公爵家の旗を見て「大丈夫だろうか」という不安そうな声を立てつつも、王家よりはマシだと思うのか、手を振る者もいる。


「皆さま、しばしご迷惑をおかけしますが、すぐに通り抜けますので安心してください」


 そう声をかけると、何人かの農民が目を輝かせて近づいてくる。


「公爵家のお嬢様だって? こんなとこまで来てくださるなんて……。ぜひお願いがあるんです、ここ数年の増税をなんとかしていただけませんか?」

「そのために動いているのですよ。王都に着いたら、わたくしたちが責任を持って問い詰めます。だから、今は耐えてくださいね」


 リディアが優しく返すと、農民たちは深々と頭を下げる。伯爵が素通りを許可してくれた以上、この領地に大きな混乱を及ぼすことはないだろう。何より、ここでも人々の不満の矛先は王都に向かっていた。


 こうして、公爵家の部隊は伯爵領の中心近くにある広場を通過し、一部を宿営地として利用する。大規模な兵站へいたんは後から合流するギルベルトが担当する予定だが、とりあえず今夜の宿を確保できれば十分だ。兵士たちは周辺の警戒を怠らず、地図や連絡事項を整理し、翌日の行軍に備える。


「思ったよりも争いが少なくて助かるわ。でも、これがずっと続くとは限りませんね」


 焚き火を囲む副官たちに向かって、リディアはそう漏らした。最初の小競り合いが示すように、下手に王太子へ恩を売ろうとする小隊がどこに潜んでいるか分からない。特に、王都の近くへ行くほど抵抗の規模も大きくなるだろう。


「しかし、お嬢様が先頭を率いておられる以上、我々は負ける気がしません。兵たちも皆、そんなことを言っていますよ」

「ありがたいわ。父上の荒技も頼もしいですし、わたくしのやり方を理解してくれる皆がいるからこそ、こうして進めるのですよ」


 リディアは笑みを浮かべ、火に照らされた兵たちの顔を順に見回した。彼らは公爵家の命令ひとつで命を懸けるが、決して強制されているのではなく、自らの意志で集まってきた者ばかりだ。そこには信頼と敬意がある。


「さて、今宵も早めに休んで、明日はさらに先を急ぎます。父上たちが追いついてくる頃には、街道沿いの領地をほぼ手中に収めていたいものですね」

「了解いたしました。兵たちには夜間警備を強化させます。伯爵の動きにも念のため注意しておきましょう」


 副官の言葉に、リディアは「頼りにしています」と軽くうなずく。進軍を開始してからの数日は、このように農民の歓迎と小競り合い、そして軽い交渉の繰り返しだ。だが、そのたびに公爵家の力が示され、民衆の支持を得つつあることもまた事実だった。


 夜の帳が降りるころ、リディアは少し離れた場所で空を仰いだ。見上げれば、星々がきらめき、穏やかな風が髪を揺らす。王都での舞踏会で受けたあの屈辱を思い出すと、胸の奥から怒りが再燃しそうになるが、同時にこの進軍そのものが自分を強くしてくれるとも感じていた。


「王太子がわたくしを侮辱したことを、きっと後悔するはず。もうすぐよ……このまま進めば、王都はそんなに遠くない」


 そうつぶやき、リディアは満足げに微笑む。兵たちも落ち着いて野営の準備を済ませ、明日の行軍に備えようとしていた。戦局はまだ本格化していないが、確実に公爵家の影響力が高まっていることを、誰もが肌で感じている。


 街道を確保し、地元の農民や領主を味方につけながら進むこの作戦は、ギルベルトが立案したものではあったが、それを実際に実行し成功させているのはリディアの手腕だ。もし王国軍が本腰を入れて迎撃に出ても、この団結力と士気があれば対等以上に渡り合えるだろう。


 夜空を舞う風に耳を澄ませば、どこからか小さな拍手や笑い声が聞こえてくる。焚き火の周りで兵士が軽口を叩き合い、村の若者が興味本位で近づいてきたのを彼らがからかっているらしい。そんな光景を眺めながら、リディアは微笑ましく思う。


「これからもっと大きな戦が始まるはずなのに、皆楽しそうね。でも、わたくしも同じ気分かもしれない」


 いつの間にか、復讐心だけでなく、自由に国を動かしてしまうこの大胆な行為そのものに快感を覚えている自分がいる。とはいえ、明日はまた一歩王都に近づく。そこには、より大きな障害が待ち構えているはずだ。けれど、恐れはない――公爵家が誇る強大な軍事力と、父ギルベルトの破天荒な勢い、そして自らの信念がある限り、たとえ王家が相手でも踏み越えて進むのみ。


 リディアは星空の下でひとつ息をつくと、野営地の中央へ戻っていく。明朝の出発は早い。来るべき決戦に備えて、体力を温存しなくては。何もかもが思い通りに進むとは限らないが、それでも公爵家の旗が翻る限り、彼女は一歩も引くことはないだろう。


 こうして、公爵家の騎馬隊による王都への進軍は道中での小競り合いや、農民や領地の歓迎を受けながら、ますます弾みをつけていく。次にぶつかる壁がどれほど高くても、リディアは笑みを忘れずに乗り越えていくに違いない――王太子への怒りを胸に秘めつつ、堂々と前進を続ける公爵家の令嬢。それを取り巻く兵士たちの士気は最高潮、ギルベルトの破天荒ぶりも健在。王国の運命は、まだ誰にも予測できない。けれど確実なのは、この親子の行軍がただの気まぐれや脅しではなく、揺るぎない意志に支えられたものだということだ。


 夜明け前のひときわ冷たい空気の中、リディアは眠りについた部下たちの姿を確認してから、自らの小さな天幕へ入った。次の一手こそ、真に王都を揺るがす仕掛けになるだろう。心を弾ませながら、彼女は一瞬だけ思い返す――舞踏会で見下したあの王太子が、この状況を知って何を思うのか。大した覚悟もなく手放した婚約は、いまや国を揺るがす大事へと変貌している。


「明日も、わたくしのやり方でやってみせるわ。侮辱の代償を、あなたたちは存分に味わうことになるのよ」


 そう低くつぶやき、リディアはランプの炎を吹き消した。外には焚き火の赤い残光がちらついているが、彼女は迷いもなく深い眠りへと落ちていく。王都の夜明けが、ますます待ち遠しい。そんな不敵な微笑みをたたえながら――。

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