届きかけの左ストレート

諏訪野 滋

届きかけの左ストレート

 相手の女の頭が、がくんとヘッドギアごと揺れた。汗と唾液の入り混じった珠が宙に飛び散り、スポットライトを反射して虹を描く。巧みな相手のディフェンスをかいくぐり、サクラの左ストレートが相手の顎をとらえた瞬間だった。

 ニューヨークのゴールドピーズ・バンケットホール内に設置されたボクシング会場は一瞬静まり返ると、すぐにどよめきと悲鳴に埋まった。地元期待の新人、バーバラ・スレーターの青い瞳が光を回復するのを待つことなく、サクラはガードの上からフック、次いでがら空きになった左脇にボディを続けざまに叩き込む。よろよろと下がりロープに背を預けたバーバラの顔面にもう一発左を入れようとしたところで相手のセコンドからタオルが投げ込まれ、サクラはようやく我に返った。マウスピースを吐き出しながらうなだれるバーバラを見下ろした彼女は、両腕を突き上げて雄たけびを上げる。


「勝者。赤コーナー、サクラ・ミナガワ!」


 セコンドのステラがリングの中に飛び込んでくると、サクラの腕をとって高々と持ち上げた。


「サクラ、やった!」

「ステラ、私アメリカに来て本当によかった。次勝てばチャンピオンだ」


 サクラはヘッドギアを外すと、インタビュアーからマイクをもぎ取った。


「アリガト、みんなの応援のお陰! ニューヨーク、サンキューソーマッチ!」

 観衆の罵声を自分への賞賛だと勘違いしているサクラを、ステラは悲しげな表情で見つめた。彼女、英語がまだ不自由で良かった。国に帰れ黄色いサル、金返せジャップのあばずれ……アウェーでの試合、サクラは本来アイドルボクサーのデビュー戦における咬ませ犬のはずだった。しかしバーバラにとって、サクラはあまりに強すぎる相手だった。



「サクラ、帰りは私が運転するから」

「え、なんでさ」

「あんた、右見えてないでしょ」


 あはは、と苦笑したサクラは、ばつが悪そうに頭をかいた。


「やっぱりステラは鋭いな。大丈夫、たまに少しぼうっとなるだけだから」

「いつも一緒にいればわかるよ、それくらい」


 シボレーのピックアップトラックを発進させながら、ステラは努めて静かな口調で続けた。


「明日、病院に行こ」

「やめとく、私って民間保険に入ってないから。バカ高い金取られちゃう」

「何言ってるのよ、今回のファイトマネーかなりでかいんだからさ。お金の心配なんかしないで、きちんと医者に診てもらわないと」

「いや、まずは日本にいるお母さんに仕送りしようかなって」


 ステラはウインカーを上げながら、もどかしげに声を荒げた。


「それ、いい加減やめなさいよ。たまに催促が来るばかりで、お礼の一つも返ってこないじゃない」

「でも確か、一番下の妹が今年小学校に入学するはずなんだよ。やっぱりランドセルって、お古だと友達に馬鹿にされたりするじゃん? 私一番上だからさ、せめてお祝いしてあげたいんだよね」

「ええと。ランド、セル?」

「あ、こっちではランドセルってあまりないのか。まあとにかく、お姉ちゃんらしいことがしたいわけ。父親が別だからさ、私と違って可愛いんだこれが」


 サクラの実家が大家族で、なおかつ決して裕福ではないことをステラは知っていた。女子ボクシングにおける賞金がことごとく低い日本を飛び出して、一獲千金を夢見てアメリカにやってきたことも。


「だからって、せっかく稼いだお金を全部送らなくても。日本に帰るつもりなんてない癖に」


 サクラはあいまいに笑うと、返事の代わりにカーラジオから流れてくるカントリーミュージックに合わせて口笛を吹き始めた。




 現バンタム級世界チャンピオンのヴィオラ・マクナイトを最初に見た時、ステラは強敵だと思った。顔合わせの時にスーツ姿で現れたヴィオラは、大学を卒業した学士バチェラーを思わせた。そして終始穏やかに対応するヴィオラに比べると、サクラはいかにも野性的だった。良いファイトをしましょうと握手を求めるヴィオラに、絶対にKOで倒してお前のベルトをもらう、とサクラは中指を立てた。

 そして試合はもつれた。リーチに勝るヴィオラのジャブをかいくぐろうとして、サクラは顔面に数発のパンチをもらっていた。常に相手の左に回り込もうとするサクラを見て、やっぱり右目が見えてないんだ、とステラはほぞをかむ。この試合は彼女の選手生命を短くしてしまうのではないか、私はセコンドとして今回の試合自体をあきらめさせるべきではなかったのか――

 しかし、変化は第七ラウンドに訪れた。単調に見えたサクラの動きが一転して鋭さを帯びると、身体を投げ出すように突っ込んでアッパーを繰り出す。接近戦を嫌ったチャンピオンが距離を取ろうとグラブで押し戻した瞬間、引き際に放ったサクラの左ストレートが前回の試合を再現するようにヴィオラの顔面にクリーンヒットした。よろめきながらもたれかかる相手にサクラはアッパー、ボディと畳みかける。ずるり、と膝をついたヴィオラを見て勝利に右手を上げかけたサクラに、レフェリーはあろうことかヴィオラのそれはダウンではなくスリップだと宣告していた。そんな馬鹿な、とステラはロープ外から大声を上げて抗議するが、判定は覆らない。

 結局ラストラウンドが終了するまで、ヴィオラはクリンチに逃げ、一度ならず再び膝をついた。ゴングが鳴った瞬間に両手を上げたサクラは、うずくまるヴィオラの肩を叩いて健闘を讃えながら運命のその瞬間を待つ。カメラのフラッシュがたかれるその数も、やはりサクラが圧倒していた。


「……勝者。赤コーナー、ヴィオラ・マクナイト!」


 会場に怒号が巻き起こった。それはサクラでもヴィオラでもなく、茶番を見せた運営とジャッジに向けられたものだった。あらゆるものを乗り越えてドリームを見せてくれるはずのボクシングが、抑圧された自分たちの人生の縮図として突き付けられたことへの拒否反応だった。




「……ごめんね、ステラ」

「ばか、負けたのはあんたのせいじゃない」

「私、アメリカって平等の国だと思ってた。でもよく考えたらそんなわけないよね。そんな場所なんてどこにもないって、日本にいた時からとっくにわかっていたはずなのに」


 ステラは悔しかった。自らが生まれた国を、初めて恥ずかしいと思った。


「ねえ、サクラ。私少し貯金あるし、プロ辞めて私の実家があるアラバマに来ない? 土地だけは余ってるから、そこで何か別の仕事を」


 サクラは腫れた顔を冷やしながら、乾いた笑い声をあげた。


「私、どうしても勝ちたかった。チャンピオンになってお金持ちになれば、日本人の、そして女の私でもステラの両親に認めてもらえるんじゃないかって」


 ばっかじゃない、認めてもらえなくたって私はあなたのこと、とステラが言いかけたところでサクラの携帯が鳴った。画面に表示されたヴィオラ、との表示に目を丸くする。


「……はい、サクラです。え、再戦の嘆願書が集まってる? あなたも、もう一度私ときちんと試合がしたい……」


 呆然とするサクラは、ただうなずいてばかりいる。


「……うん、うん。サンキュー。それじゃヴィオラ、また会場で」


 通話を終えたサクラの瞳に光が戻った。ステラも込み上げる喜びをぐっと抑えると、セコンドとして忠告する。


「勝ってもこれで最後だよ。私は、きちんと両目でサクラに見て欲しいから」

「任せて、前回の二の舞はごめんだよ」


 サクラは笑いながら親指を上げた。




 サクラとヴィオラの再戦は前回とは一転して、第一ラウンドから激しい打ち合いになった。歯をむき出しながら交互に吠え続ける二人に、満員の観客は声をからした。勝者も敗者も関係なく、誰もが自分の人生をつかみ取りたい、ただそれだけだった。

 第三ラウンド、サクラのワンツーがヴィオラの顔面をヘッドギア越しに叩くと、チャンピオンの顎がたまらず上がる。今、と溜めていた渾身の左ストレートを放ったサクラの目には、しかし誰の姿も映っていなかった。

 あれ、どこ? と戸惑うサクラの世界が揺れた。わずかに遅れて、頬がじいんと熱くなる。そうか右か、と向きを変えようとした彼女は続く連打に見舞われ、やがて糸の切れた操り人形のように顔面からマットに沈んだ。




 懐かしい声が、サクラの耳に届く。


「サクラ、わかる!? 目を開けて!」

「……試合、終わったの? なんだか頭、痛いな」

「サクラ!」

「ねえステラ、アラバマってここから遠い? トウキョウとどっちが……」


 隊員に押し戻されたステラを残して、げえ、と嘔吐する声と共にサクラの姿は救急車の中に消えた。




 16勝2敗1引き分け12KO。その平凡な数字だけが、サクラ・ミナガワの生涯成績として残された。そしてステラの予言通り、サクラが日本に帰国することはついになかった。それでもアメリカの女子ボクシング界を流星のように駆け抜けていった彼女は、伝説のファイターとしてニューヨーカーに末永く語り継がれている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

届きかけの左ストレート 諏訪野 滋 @suwano_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ