第3話 糸の端の願い

 どんなに僕が祈っても、僕の切実な願いは、霧の向こうに追いやられて、いつしか僕は、お客の案内をするだけが自分なんだと思い始めていた。誰も助けに来ない。

 お客達は僕を見ても何も思わない。石像とでも思っているんだろう。石像の僕からすると、お客達が前を素通りして行く蟻の行列ぐらいにしか見えないように。 


 僕が、僕の願いを捨て始めて、あきらめと憎悪の胸を隠した石像になってから、ずいぶん長い時間が過ぎていたと思う。このままここで生きるしか価値がないと心底まで侵食されていた。


 あの朝、奇妙な出来事が連続で起こるまでは。


 あの朝は、いつもと違っていた。まるで夢の中にいるみたいだった。

僕はいつもの様に橋の上にお客を案内して、いつもの様にお客を待った。

出来事が起こったのは、しばらくしてからだった。初めは、勘違いだと否定した。それが徐々に確信に変わって行ったのは、まるで僕への遺言みたいだと思えたからだ。


 そして、今、僕は、それが叶うことを現実だと信じ始めようとしている。この世界を破壊して消える時が来たのかも知れないんだ、と。



 その日も朝早くから、お客は橋に繋がった糸の上を探し回っていた。僕はいつもの橋の上の、いつもの場所に座って、お客から目を離さないように気を配っていた。

ふとポケットに手を入れると、カサっと音を聞いた。指に何かが当たっていた。この感触は。指の先でなぞって思い出した。あの朝、祖父の部屋で見つけた紙切れのことを。

 祖父は消える前日も、ここでお客を案内していた。僕はただ、いつもと変わらず、祖父がお客達に話す声を聞いていただけだった。何も知らずに。

祖父は知っていたんだろう。自分が消えることを。時機が読めたから。


体マヒ

いたみ

足きえ

目うご


祖父の最期の言葉だ。僕に向けての。そうでなければ書く意味がない。僕が、祖父の後を追いかける時の手がかりを残そうとしたに違いない。

つい紙切れを取り出して眺めて、再び絶望が僕を襲う。何度も見返して、何度も助けを求めて、何度も諦めて、またポケットに戻すのを何度繰り返して来ただろう。今日も同じだ。ふっとため息が漏れた。


 あれからの僕は、この世界で、自分をどうにか生き延ばすための案内人に徹することにした。


 あの橋の先に繋がった糸は、ずっと遥か向こうまで続いているはずだ。僕は、自分で行ったことのない領域へお客を見送るしか、知らない。僕は、お客を案内することが出来ても、自分では行けない。橋渡しの役目を背負った者は、橋を渡れないのが宿命だと分かっているつもりだ。


「あのう、すみません。道が分からなくなりました」

誰かに声をかけられた。見ると小柄なお客が不安げに立っている。

しまった。

僕は思わず小さく舌打ちした。うっかり他事を考えて、お客から目を逸らしてしまっていた。

「大丈夫です。僕の目を見て下さい。じいっと。そうです。見えますか?」

「ああ、分かりました。すみません、初めて来たので、緊張して迷ってしまって」

「安心して下さい。皆さん、同じですよ」

「良かった。それなら私も見つけられますね」

「もちろんです。見つけるまで僕がご案内します」

「必ず見つけて帰りたいんです。どうかよろしく」

お客が糸の先へと戻って行った。

 いつもはこんなヘマはしないのに、これではお客から僕の獲物が奪えないじゃないか。案内人に専念しなければ。僕はお客達の方に目を向けて、行方を見守ることに集中しようとした。

 


 ここへ来るお客は後を絶たない。欲なんて一が手に入れば二を得たくなるものなんだ。満足と言う言葉はその場しのぎの慰めに使う言葉だ。本当にそんな気分になれたら、誰も自分の未来に期待をしたりしない。今の自分に無いから未来を描くんだ。

 お客が良い見本だ。人の目から排除されて、居場所を探して、人から奪うしか生き方を見出せない、不甲斐ない、愚かな生き物達だ。

 欲しい物は、だいたいがお金や名声だ。誰かの未来の幸福から戴いて、人に成りすまして、のうのうと人の人生を遊んで生きている、狡(ずる)い奴らだ。


 でも、それがどうだって言うんだろう。僕だって同じだ。出来るものなら同じことをしてみたい。僕だってお金も名声も手に入れて大富豪になってみたいし、成功した達成感を味わってみたい。お客達を批難するなんて出来ない。


 だけど、僕は少しだけ分かるつもりだ。本当は彼らは人の上に立ちたいんじゃない。人に受け入れられたいだけなんだ。そのちっぽけな願いを叶えるために、大きく見せなくてはならないのが、ここに来るお客達なんだ。

 


 僕も同じだ。大きな願いを幾つも持って、お客を獲物にして奪い続けている。欲しくもない物を。


 帰りたいんだ。ここから、ただ帰りたいだけなんだ。



 もし、僕が糸を辿るなら、何を手に入れるだろう。お金持ちになれなくても、欲しい物が手に入らなくても、ただ、皆と笑って暮らせる日があれば、それだけで、僕は自分を幸せな奴と思えるかも知れないのに。


 僕は辿ることの出来ない糸を、端っこで眺めて、ただ願いを叶える日を待つだけだ。



(第3話 糸の端の願い 終わり)

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カラクリ橋の贅沢な悪巧みを横取りする奴ら 洋梨 レモン @hqerolue

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