第6話
波を凍らせたように煌く刃が、ぬめぬめした緑色の喉仏すれすれに押し当てられている。
あとほんのちょっと押し込むだけで、匕首は首に深々と切れ込みを入れるだろう。
河童は身動きできずに、空を仰いだまま、黄色く濁った目でいづるを見ていた。
腰に差していた三寸ばかりの匕首を突きつける飛縁魔の顔色は一線を越えた激怒のあまり蒼白だ。
紙コップを三つどかしてサイコロがなかった。
もちろんそんなことはありえない、イカサマでもしない限りは。
台の真ん中のコップがあったあたりに、白い粒が散らばっていた。
飛縁魔はそれを指ですくって、ぺろりとなめる。
「甘っ。砂糖じゃん、これ」
「ここは――」
いづるも河童にならって空を仰ぐ。ただしその首元で刃が煌くことはなかったが。
毒々しい群青色の闇がべったりと広がっている。綺麗な羅紗でも敷いたみたいに。
「とても暗いね。だからサイコロとポッチをつけた角砂糖も、ちょっと見た程度じゃなかなか見分けられない。というか、角砂糖自体がよくサイコロに似せられていたと言うべきかな?」
「うう……」と河童は呻く。
飛縁魔はいづるを睨んで、説明を促した。
いづるは肩をすくめて、台のカップを手に取り振りながら喋った。
「最初に言っておく。そのおじさんはすごいよ。水かきがあるのに、とても器用だ」
「いいから説明しろったら!」
「わかったよ……。まず、角砂糖をつまんで、対面の僕たちからは見えないようにコップに入れる。で、中でぎゅっと潰してしまう。
当然、中にはバラバラになった砂糖が残って、サイコロではなくなるよね。
それを外にこぼさないように素早くコップを動かし、お客さんに選ばせる。
その中には砂糖の破片があるかもしれないし、ないかもしれない。
もしあったら、河童さんはそれを目でそっと、中にサイコロを入れたときのようにして覗き込んで――息を呑むんだ。
そのときに、砕けた角砂糖を一気に吸い込んでしまう、とさ」
「えへへ」と河童は苦し紛れに笑ってみせたが、ちゃきんと飛縁魔の匕首が鳴るとまた借りてきた猫のように神妙にした。
「お客さんが驚いている隙に、ああ正解はこっちだよ残念ッ、と別の紙コップを開けてみせる。新しいサイコロを忍ばせてね。外したショックで客は細かいところなんて見ちゃいない」
そのときになっていづるは、周囲を妖怪たちが取り囲んでいることに気づいた。ぱちぱちと拍手が湧き起こり、おひねりが足元に散らばった。
「やるじゃん!」
「人間が妖怪をカモにしたぞ」
「飛縁魔はなにやってんだ? カツアゲか?」
飛縁魔は、匕首を河童に突きつけたまま、ぶすっとして何も言わなかった。
いづるは「どうもどうも」と両手を上げて観衆を静め、足元の小銭を拾い集めながら、飛縁魔を振り返った。
なにか気の利いたことを言うつもりだったが、それは叶わなかった。
河童の懐から飛び出した一炎玉が、土砂降りとなっていづるに降り注いだ。
迂闊に口を開けると硬貨が飛び込んできてしまうので、いづるはしばらく、その心地いい硬い雨に打たれるに任せた。
鈴が立て続けになるような音のなかで、いづるはしばし、味わった。
勝利の余韻を。
○
「――で、こいつ、どうしてやろうか。腹ひらきがいいかな? 背ひらきがいいかな? それともナ・マ・ス?」
飛縁魔は突きつけた匕首の刃先で、つんつんと河童の喉元に細かな傷をやたらとつけている。
手加減を間違えればそのままスッパリいってしまうだろう。
河童は気が気ではない。銀色の刃が動くたびに視線が執拗にその軌道を追いかけた。
「このオカッパ野郎――なめやがって!」
剣呑な雰囲気にすっかり通りから妖怪たちの気配は消えている。
周囲のバラックのなかから、コソコソと小さな囁き声と好奇の視線が漏れてくるばかりだ。
正座をした河童は、緑色の肌に嫌な汗をかいて審判を待っている。
いま、彼の命運は飛縁魔の掌の上でゆらゆら揺れていた。
「まァまァ姉さん。そう怒らなくてもいいじゃないか」
「さっきから思ってたけど誰が姉さんだよ?」
いづるはそれには答えずに、
「いやァ河童さんはすごいんだよ。きみにはわかんないかもしんないけど。
僕はね、イカサマをする人を尊敬してるんだ。バカじゃできないからね。だからナマスにするのはやめてあげようよ。あと僕に刃物を向けるのもやめようか。――うん、どうやら僕が悪かったらしいね。ごめんよ。河童狙ってね。河童」
目の前にちらついた刃先にいづるはもろ手を上げて降参した。他人を助けて自分が損するつもりは微塵もない。一瞬希望に眼を輝かせた河童が、やはり変わりそうもない自分の運命に、眼に涙を浮かべていた。
「た、頼むよ飛縁魔……助けて……」
飛縁魔は答えずに、震える河童を後ろから抱きすくめる――ようにして、その首筋に逆手に持った匕首を構えた。
河童はしきりに飛縁魔の名を呼んだが、彼女に聞く気はないようだった。
全身から静かな見えない怒りを迸らせている。
古今東西、お互い承知でイカサマをしあった詐欺師同士でない限り、不義に気づいたカモがペテン師を許してやった試しはない。
「わ、悪気はなかったんだ。俺も最近、きつくてさ……ちょ、ちょっと薄くなり始めてるのわかる? わかんない? もう自分の分まで魂が足りなくてさ」
「じゃ、もう悩まなくていいようにしてやる」
せーの、と飛縁魔が匕首を振りかざした。河童はとうとう泣き始めた。
「待って待って待って待ってぇっ! に、兄ちゃん、なんとかしてくれよぅ、飛縁魔のツレだろう!?」
僕? といづるは自分を指差した。
「さっきも言ったけど、僕は助けてあげたいんだ。でも無理だよ、姉さん沸騰しちゃってるもん」
「そんな、冷たいこと言わないでくれよ!」
「僕は自分から助けるのはいいけど、助けてって頼まれるとなんでかやる気なくすんだ。だから、ごめんね」
話は終わりか、と飛縁魔が眼で尋ねてきたので、いづるは頷いた。
飛縁魔はそれを見て、匕首を持った手を伸ばした。それが魚のように翻ったとき、河童に致命的な傷ができるだろう。
その未来は、なによりも当人の脳裏にありありと浮かんだ。
河童が子犬のように呻き、身をすくませた。
匕首を手放し、身を翻らせた飛縁魔の腰の入った一発が河童の横顔に決まった。
いい音を立てて河童はどうッと背後の小屋の壁をぶち破って、倒れこみ、中からきゃあきゃあと小人(コロポックル)たちが喚きたてる声がした。
できたての穴からぐったりと垂れた河童の足が、ときたまぴくぴくと痙攣した。
紫煙を立ち昇らせる発砲したての拳銃にするように、飛縁魔は自分の拳に息を吹く。
そこまではよかったのだが、痛かったのか、手首をぷらぷらさせ始めた。
「いってェいってェ。掌底にしとけばよかったぜ」
照れくさそうに笑う飛縁魔を見て、いづるは仮面の下で、眼を細めた。
その笑顔は眩しすぎて、まともに眼も開けていられはしないのだ。
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