第2話
支度を整えて、自室を出た。
王の補佐官であるロシェル・グヴェンは、外遊で王宮を留守にしている王妃の代わりに公務を代行している為、今日も様々なことを抜かりなくやらねばならなかった。
「ロシェル」
廊下を歩いていると、呼び止められた。
「殿下」
見遣ると、階上から王太子ジィナイースが下りて来る。
珍しく彼はすでに支度を整えていた。
こんな夜も明けない内から、彼を見ることは非常に珍しいことだ。
「おはよう。少し、いいか」
「どうなされました?」
あまり時間は無かったが、ロシェルは足を止め、きちんと一礼をする。
「こんな時間にすまない。お前は多忙だから、呼び止める間がなくて」
「いえ……」
「唐突で悪いんだが、母上からスペイン艦隊について、何か聞いているか?」
「スペイン艦隊について……ですか?」
「例えば、あいつらをどういう風にこれから扱っていくかとか」
政には全く興味を示さない王太子だったので、ロシェルは一瞬何を聞かれたのか分からなかった。
「聖騎士団を任せる人物についてでしょうか?」
「うん、まあ……」
「いえ。明確にはまだ何も決めておられないようなので、私は何も存じません。
現在フランス艦隊の総司令官ラファエル・イーシャ殿は外遊に同行されていますが、妃殿下の信頼は三国随一と言えますが、聖騎士団団長となると任務は国防になります。あくまでも私の印象、ではありますが――、妃殿下はラファエル殿にはもっと多岐に渡る働きを期待していらっしゃる気もしています。
王妃の実質的な補佐官のような、特別な位をお与えになるかも。
神聖ローマ帝国については、命じている海賊退治、拿捕の作戦を達成するかどうかが鍵になります。その任務を無事に果たした場合、本格的に彼らを国防に使っていく可能性はあるかもしれません」
「竜騎兵団団長が聖騎士団団長になる可能性も、低くはないんだな」
「そう思いますが。竜騎兵団は使う使わないに関わりなく、妃殿下の手中に収めておけば、何かの折に切り札として使うことも出来ましょう。ですから、ヴェネトに留め置く可能性は高いと思われます」
「スペイン艦隊は?」
「スペイン艦隊のイアン・エルスバトは新設された近衛団の編成に関わりました。
流れで言うならば、このまま彼が聖騎士団団長に就任することが一番違和感ないとは思いますが」
「そうか……」
王太子はそれを聞くと、少し安堵したような表情を浮かべた。
ロシェルはその表情から、おおよそのことを読み取る。
王太子ジィナイース・テラはあまり誰にも心を開かない青年だったが、あのスペイン艦隊総司令官には何故か懐いているようなのだ。彼が剣術指南役に付いてから、かつてないほど真剣に剣術の勉強はしていると報告を受けている。
それだけではなく、王立劇場などに出向く時も時折帯同させているので、相当人柄を気に入っているのだろうと思う。
今のところ、ロシェルは王妃セルピナにはそのあたりのことを、特別な報告としては上げていない。あくまでも剣術には真面目に取り組んでいるようだとだけ言ってある。
しかし王太子の周囲には自分以外にも監視役がいるため、自分が例え何も言わずとも、そのうち報告は行くだろう。
ロシェルは今のうちに、釘を刺しておくことにした。
「殿下。一つ申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「今……ヴェネト王国は世界の中心になりつつあります。
欧州列強の三国がこの地に集っていますが、それは即ち、彼らの抱える情勢のことも、我が国が主導して考えて行かねばなりません。妃殿下は三国だけを相手にしているわけではなく、潜在的にもっと多くの政をこなしておられます」
王太子は問うような表情を見せた。
「神聖ローマ帝国の竜騎兵団は強力な軍隊ですが、他国の侵略に使うことは出来ません。つまり、ヴェネト国内に限っての防衛のみに威力を発揮します」
「でも、あいつらは他国を侵略するために竜騎兵団を投入してるんだろ?」
「はい。ですから諸外国の中には神聖ローマ帝国に対して批判的な立場を取る者たちも少なくはない。我がヴェネト王国のヴェネツィア聖教会も、竜は古の時代の種であるため、一つの国が保有し、軍事に使うことを強く非難し認めていません」
ロシェルは真っすぐに、王太子を見つめた。
「確かに、我が国は【シビュラの塔】の封印を解きました。だからといって何もかも意のままに出来るわけではない。世界全ての国と戦は出来ないのです。
貴方は近い未来、ヴェネト王国の玉座に登られる。だからこそ覚えておいていただきたい。これから先は、世界のどの国が味方で、どの国が敵になるかを見定めなければなりません。この地に集った三国の抱える情勢を加味し、【シビュラの塔】を保有する我が国の守りを構築しながらも、外敵の動きにも対処しなければならないのです」
「外敵?」
「【シビュラの塔】が真価を見せた今、その保有を狙う者たちがいます」
「お前が思っている一番の外敵って誰だ?」
「色々な意味を含みますが、最も恐れるべきは神聖ローマ帝国です」
ルシュアンは息を飲む。
「【シビュラの塔】が長い間不可侵で有り得たのは、あの付近が天然の要塞だったからです。そして神聖ローマ帝国が竜騎兵団を軍事化したのも近年のことだったため、侵略を受けずに済みましたが……竜騎兵団の空を駆る能力はヴェネトにとって最も脅威となりましょう。だからこそ、その竜騎兵団の一部をヴェネトに留め置き、何かの時は竜騎兵団同士で牽制し合うように仕向けることで、彼らを無効化出来る。
次に脅威なのは北方イングランドです。
【シビュラの塔】の射程は真の意味では未知数ですが、今のところはイングランドは射程外に存在します。イングランドは長く、欧州大陸を南下することをフランスとスペインに阻まれていますが、今は三国がヴェネトとの外交に時間を割き、戦線が膠着している。
イングランドにはこれは優位な状況になりかねない。
北欧などから併合の動きを見せれば、ヴェネトは三国を外界の防衛の為に動かさざるを得なくなります。イングランド艦隊は強力ですから、妃殿下は勢力から言って、スペイン艦隊を外海防衛に回す可能性は高いでしょう。
ヴェネト周辺域はフランス艦隊が防衛し、更に外海をスペイン艦隊に守らせる。内政における有事の際は神聖ローマ帝国の竜騎兵団が力を発揮します。ヴェネトは離島も多いですから」
「母上がそう仰ってるのか?」
「ここまでは、誰にでも予想できる情勢です。殿下」
ロシェルは静かに言った。
ロシェル・グヴェンは元々町医者の息子だ。軍人でもなければ貴族でもない。
ルシュアンはそこまでのことを考えたこともなかった。
イアン・エルスバトなら、ロシェルと同じことを考えられるのだろうか。
自分がこれからどんなに焦っても、この男より政治や軍事が分かるようになるとは到底思えなかった。
他国の参謀相手なら尚更だ。
(だからこそ、俺にも助言役が必要なんだ)
一瞬怯んだが、ルシュアンはもう一度ロシェルをしっかりと見た。
「……お前の言ってることは、分かった。別にこれは、要求じゃない。
だけど新設される聖騎士団は俺の直属の守護職になるんだろ。
俺は、スペイン艦隊のイアン・エルスバトに聖騎士団長の任を任せたいと思ってる」
ロシェルの顔に、特に驚きなどは出なかった。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「お前からすると下らない理由に聞こえるかもしれないけど、人柄だ。
三国はヴェネトに確かに集ったけど、【シビュラの塔】が発動するまで、あいつらはヴェネトのことなんか、侵略価値すらない小国だと見くびっていたのも知ってる。本当はヴェネトに膝など、全く付きたくないんだと思う。
だけど、イアン・エルスバトは母上や俺を守護職として守ろうとしている姿勢は本物だ。勿論、それがスペイン全体の総意ってわけじゃないだろうけど……」
「殿下から見て、三人の総司令官の中で最も信頼出来る方だと?」
「俺は、そう思ってる」
ロシェルは少し、押し黙った。
「……分かりました。妃殿下がお戻りになったら、殿下は聖騎士団長にスペイン艦隊総司令官を推しておられることは私から話しておきましょう。イングランド艦隊のことは、スペイン海軍に任せるにしても、必ずしも総司令官をイアン・エルスバトにしなければならないわけではありません。彼には本国にも同じように軍事に付いている兄弟たちがいます。妃殿下の許可があればその中から別の人間を召喚することも出来る」
「そうか、ありがとう」
「お話はそのことでよろしいでしょうか?」
「うん。近衛団は出来たけど、その後の話が進んでなかったからどうなのかなって思ってたから。勿論母上のお考えがあるならそれに従うことになるにしても……いつもみたいに俺が何にも考えてないからって思われて、全部決まった後に知らされるのは嫌だったから」
ルシュアンはいつもそうなのだ。
何もかも決められたことが、決定事項として伝えられる。
だが、彼の場合それが無性に嫌だというわけではない。
むしろ何も考えなくていいから楽だと思うくらいだ。
それが常の彼だったが、
玉座に着くことが避けられないことなら、その腹心となる人間くらいは自分で選びたいと思う。
ラファエル・イーシャは母親のセルピナ・ビューレイがこれからも補佐官として使った方がいい気がするのだ。確かにあの男は一度激昂したら収まらなくなるようなところがある母親の気を静めることが出来る。自分も夜会では重宝するだろうが、見た所ヴェネトに任務で来たためイアン・エルスバトはそういう娯楽に興じるような姿をある程度自重しているが、社交的な人間でないわけではないらしいのだ。
本国では観劇をよくしていたというのは嘘ではないんだなというように、色々演目も知っているし、部下などともよく話しているし、最近はルシュアンが「剣術指南役や近衛団長になったんだから、少しは夜会にも顔を出せ」などと圧を掛けるので、夜会に姿を見せるようになって来たが、存外ヴェネト貴族や、そうでない他国からの客とも良好に付き合っている。
生粋の軍人かと思っていたのだが、ああいう所はスペイン王家の人間としての社交性も持っているのだと分かった。あいつなら国防だけじゃなく公の場で俺の補佐も出来るだろうというのがルシュアンの印象である。
「分かりました。心に留め置きます」
「うん。ありがとう。悪かったな、仕事の前に呼び止めて」
「いえ……」
王太子はそれだけを言いに現れたようだ。
あの王太子は母親を慕いながらも恐れているから、母親が王宮にいると公務以外は部屋に閉じこもっていることが多い。恐らく王妃が不在の間に自分に、自分の言葉で話しておきたかったのだろう。
一礼して彼を見送ってから、ロシェルは歩き出す。
長い通路からは左手に、王都ヴェネツィアの城下町が遠くまで見通せる。
「いかに心を開こうと、王と臣下は主従関係。
友情などは存在出来ません。
国の為に己を全て犠牲にして立つのが王というもの。
王とは――孤独なものなのです、殿下」
彼は足を止めず歩きながら、独り言のように呟いた。
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