海に沈むジグラート 第81話【真価を懸けて】

七海ポルカ

第1話 真価を懸けて


 朝霧の中を歩いている。

 静かだ。

 ここは海も近いはずだが、防風林の役目をしている森が海沿いにある為、波の音も遮られるらしい。水が流れていない冬の湿地帯は、果てしなく静かで、まるで時が止まった世界のようだった。


(冬だから草が枯れて、生き物の気配が無くなる。

 でもきっと春になると、様々な水鳥がまたやって来て、花が咲けば虫や動物たちも増え、朝方でも印象が変わるんだろうな)


 白い息が空に消えていく。

 少しずつ目覚め始めた空に、まだ光の欠片となっている星が見える。

 高くなっている場所から、湿地帯を広く臨めた。

 朝霧が晴れたら、空の色が鏡のように映るに違いない。

 ネーリは湿地帯のどの時間帯を描くかを考えていた。

 今度来る時は、晴れた夜中にぜひ、この辺りを散策してみたかった。


 ……ヴェネト王宮にも広い湿地帯がある。

 

 幼い頃の、最も不思議な思い出だ。

 光の花の道を通って【シビュラの塔】に辿り着いた。

 まるで夢の中の景色のように、王宮の離宮から、どのように歩いたかも分からない。

 ただ階段を下りたりした記憶も全くなかった。

 一直線に歩んだ先に、あの天魔の塔があった。



【ネーリ】



 あの不思議な声、幻視。

 自分を呼んでいる。

 ネーリは今まで自分が何者かなど、考えたことが無かった。 

 確かに幼い頃が一番そういった不思議な出来事があったが、思えば、祖父と船の上で生活して、ヴェネトから離れるようになるといつの間にかそういうものはなくなったのだ。

 呼ばれることもなくなり、海の幻視も見なくなった。

 祖父が亡くなり、ヴェネト王宮から出て、ヴェネトを彷徨い歩くようになってからは、一度としてあの夢を見たことがなかった。

 

 だから、あの日。


【シビュラの塔】が発動した日、驚いたのだ。

 思い起こす。

 あの日ヴェネツィアの街を、夜中、歩いていた。

 例によって絵を描いていて、何ともなしに水路の側を歩きながら、ミラーコリ教会へ向かっていた。

 あの日も確かこうして、晴れた星の綺麗な日だった。

 星を見上げて歩いていて、港までやって来た時、


 ふと……ヴェネトのどこからでも見える【シビュラの塔】が目に入った。


 いつも厚い雲に中腹のあたりまで包まれているのに、あの時は晴れて、夜闇に白亜の塔がやけに鮮やかにそびえ立っていて、それでも尚、頂きの方は霞みがかり見えなかった。

 一体誰が、何のためにあれを作ったのか。

 そんなことを少し考えていた。

 でもその時も、何か幼い頃のことを結び付けて考えていたわけではない。

 もはやその頃はあの建造物と、自分は何の縁もないものだとそう思っていた。

 しばらく眺めていたが、また市街の方へと歩き出したのだ。

 

 夜の王都ヴェネツィアも、街明かりが水路に揺らめいて、美しかった。

 でも、その頃には街は段々と治安が悪化していた。

 人々は暗闇を恐れるようになり、夜のヴェネツィアは歓楽街以外は、まるで人がいないかのように妙に静かな空気になっていた。

 怯えるようなその静かなヴェネツィアの街並みを歩いていた時、一瞬何かが瞬いた。

 本当に一瞬のことだ。

 ネーリも足を止めたが、何もなかったのでまた歩き出した。

 それから遠雷のような音がして、雨が降るのかな、そう思ったのをよく覚えている。

 風が無かった日だったので、雨が降ると思わず、これは早めに帰った方がいいだろうかと考えて路地を抜け、大運河に出た時だった。

 

 不思議な黄金色の光が、水面に見えた。


 星にしては眩しく、ゆっくりと近づいてみると、それは水の底に沈むように揺らめいていた。

 そして、水の底に光が沈んでいるのではないことに気づいた。

 上空を見上げて驚いた。

 星ではない、何か異様な金色の光が空一面に広がっていたのだ。

 ネーリでも、上手く言葉では表現出来ない光だった。

 今、思い起こしてみると……何かガラスが光ったり、明かりが光っていたり、反射していたり。そういう光ではなかった。

 一番近いのは、夜闇に眼を輝かせる、猛禽の光だ。

 ――生き物の気配がした、と表現した方がいいのかもしれない。

 静かな夜だったのに、何かがざわめいているような気配がした。


 ネーリはその日の夜、干潟の家に戻り、そこから夜が明けるまで対面の【シビュラの塔】を眺め続けた。

 光はいつの間にか消えていった。朝方にはまた【シビュラの塔】は中腹まで雲がかかり、王都ヴェネツィアの眠る人々は、何も知らないまま朝を迎えた人たちもたくさんいただろう。

 ネーリも何も知らなかった。

 一週間ほどは街も穏やかなままで、王都ヴェネツィアを描いていたネーリはある時、道すがらで人々が噂をしているのを聞いたのだ。


 大陸の方で、大変なことが起こったらしいと。

【ファレーズ】【アルメリア】【エルスタル】という三国が、一夜にして消滅したのだという。

 なんだそれはと笑う者たちさえ、ヴェネトにはたくさんいた。

 それから程なくして王宮から珍しく兵士が街に派遣され、港を封鎖したり、教会の側に立ったりし始めた。

 何故なのだろうかと市民は首を傾げた。

 近々フランス、スペイン、神聖ローマ帝国がヴェネトと親交を結ぶために艦隊でやって来るのだと彼らは告げる。

 街で騒ぎを起こしていた、警邏隊たちさえ、しばらく姿を見せなくなった。

 北の外れの王家の私有地は、元々先代の王が駐屯地のように使っていたことがあったが、退位してからは閉鎖されて誰も使う者がいなくなっていた。


 ネーリからすると、干潟の家への帰り道の側にそこはあって、いつも暗がりだったのに、ある時から煌々と明かりが昼夜付くようになった。

 今なら分かるが、一番最初にヴェネト王国に到着したのは空を駆る竜を保有する神聖ローマ帝国竜騎兵団であり、そうこうしている間に街で、フェルディナントと出会った。

 そのうちに輝くような美しい、フランス艦隊がヴェネトの港にずらりと入港する。

 欧州最強と名高いスペイン艦隊が最後に到着する頃には、全ての者が理解していた。


【シビュラの塔】の発動。


 アドリア海にのんびりと浮かぶ長閑な島国だったヴェネトは、

 一夜にして欧州の覇権を握った。

 今や、全ての者がヴェネトに集い、玉座に座る王妃セルピナに謁見を求めるようになった。

 

 その時まで、ネーリは一度としてあの声に呼ばれたことはなかったのだ。

 ヴェネト全域を彷徨い歩いていた頃、自由に絵を描く喜びを感じながらも、誰も自分を『ジィナイース』とは呼んでくれなくなって、自分でさえ聞き慣れない、ネーリという名を使うようになって、その名前さえ呼ばれることは稀だった。

 王妃セルピナの支配から逃れることは、

 誰とも共に生きないことと同じだったから。


 貴方と私の運命は、とあの声は言っていた。


 自分の運命。

 凍てつく空気の中に沈む、湿地帯を見つめる。

 一体、この世の誰が自分の運命を知っているのだろう?

 王妃セルピナは知っているのか。

 祖父は知っていたのか。

 

 そしてあの声は。


 次にあの夢を見たら、聞いてみたいことがある。

 何故、三つの国を滅ぼしたのかということを。

 答えがあろうと無かろうと、

 きっと許すことは出来ない。

 でも知りたいのだ。

 フェルディナントが深く傷つかなければならなかった意味を。

 

 運命などという簡単な言葉で、

 片付けて欲しくない。

 

 滅びの運命がこの世にあるなら、それがどこからやって来るか、知りたいのだ。

 

 この地のように、自分の中の何かはまだ、凍てついたまま、そこにある。

 フェルディナントやラファエルが語ってくれる、輝くような、色鮮やかな未来。

 幼い頃に呼びかけられたあの声が、ネーリを常に過去に縛り付ける。

 自分は今その狭間に立っているのだ。

 

 静寂の中に一人きりの孤独。


 暁の空の色だけが、優しく心に呼び掛けて来る。



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