第十九話「優しい追憶」
忘れもしない、遠い日の記憶。その日はとても寒かった。
とある街の片隅――小さな家で優しい父と二人暮らし。生活は貧しかったけれど、確かに幸せだった。
「おとーさん、またお仕事?」
「ああ。いい子で待ってるんだぞ」
少しでもお金を稼ぐためにと、危険度の低い
あの時、私はまだまだ戦えるほど強くはなかったけれど、もし探しに向かっていたら……もしくは、誰か周りの人達に助けを求められていたらと、今でも後悔の念を
やがて見つかったのは、酷く食い荒らされた父の
――たった一人の私の家族は、書物喰らいに殺された。
◆
「はぁっ……はぁっ……」
道中も凶暴化した書物喰らいで溢れており、それらを片っ端から討伐してゆく。……が、体力にも魔力にも限界がある。慣れているつもりでも、彼女には疲弊の色が滲んでいるようだった。
(どこ……? どこなの……?)
森の奥へと踏み込むほどに、外の光が届かなくなる。追っている変異個体の姿は未だ見当たらない。一体、どの辺りまで逃げたというのか――無我夢中で追いかけた一方で、決まりを破り、単独で討伐に向かってしまった事に対する焦りも背筋を冷やす。
目印も何も無い、深い深い森の奥。方向感覚を失い、引き返す
(大丈夫……私は絶対に成し遂げる……絶対に……)
ここまで来たら後戻りなどできない。サナは自身の武器である
それから、一体どれだけ狩っただろう。一瞬たりとも気の抜けない状況の中で、刃の切先から滴り落ちる血液が、足元に長く細い道を作る。
少しでも油断をすれば、この森に巣食う書物喰らい達の餌になってしまう――そんな事は考えるまでもなく、分かりきっていた。しかし、こちらの消耗も激しい。
「っ…………」
戦闘の中で不意を突かれ、肩に負った怪我が疼く。……正にその時。ぐらつく視界の片隅で、今回の
「ま……待、て……!」
もう、猶予が無い。一刻も早くあの書物喰らいを討伐し、この森を抜け出す。それ以外に道は残されていなかった。
重たい両足を引きずるように、尚も逃げ惑う獲物を追跡する。今度こそ逃がさない――その一心で、見失わぬよう必死に追いかけた。
「キキッ!」
「――――っ!」
……行き止まり。ようやく追い詰めた。周囲を深い草に囲われたその場所に、もう逃げ道は無い。
「今度こそ……!」
標的を前に、サナは武器を構える。――ところが、書物喰らいが慌てる
「キューイ! キューイ!」
「…………!?」
突然、目の前の書物喰らいが叫ぶ。突き刺さるような、不気味な声が森中に響き渡った。
(な……何……?)
ガサガサという草の音、いくつかの気配、そして漂う殺気。囲まれた――その事に気が付くのに、そう時間はかからなかった。茂みの中からは、不気味に光る無数の目がこちらを睨んでいる。
……ああ、これは罠だ。自ら書物喰らい達の巣に飛び込んでしまった。だが、今更後悔してももう遅い。
「ギャオッ!」
「っ、きゃ……っ!?」
茂みから魔物が飛び出し、片手の短剣を弾き飛ばす。手を離れたその刃は回転しながら短い放物線を描き、後方の地面に突き刺さった。
相手は多数、こちらは独り。万事休すか。まさか最期がこんな場所だなんて――そんな
「ギャオオオオ!」
突風のような眩い炎が、真っ暗な森を照らす。それと同時に、書物喰らい達の断末魔が辺りを喧騒で包んだ。
一体、何が起きたというのか。自分は助かったのだろうか? ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れ、サナはへなへなとその場にへたり込んでしまった。
◇
「
昼下がりの職員室に響く女子生徒の声。不意に名を呼ばれたリツカは、少し驚いたように入り口の方を見た。
「良かった……! 職員室に、いらして……!」
「君は確か、
見れば、そこにはマナミが息を切らして立っていた。足取りこそよろめいているものの、よほど慌てて来たのか、全身から焦りが滲み出ている。
「どうしたの〜? マナちゃん〜」
「たたた、大変なんです! サナさんが、サナさんが……!」
ちょうど
「まあまあ、とにかく落ち着いて。
錯乱するマナミを
「森に、書物喰らいを討伐しに行ったんですけど……なんだか様子がおかしくて、一度学園に戻ろうとしたんです。そうしたら――」
「蔓日さんだけが、その書物喰らいを追って……森の奥まで行ってしまいましたの……」
「…………なに?」
ようやく、少しずつ落ち着きを取り戻した彼女から話を聞いたリツカは、思わず眉をひそめる。万が一のことがあってからでは遅いという理由から、生徒による単独の書物喰らい討伐は禁じられているはずだ。
それを無視したとなれば――最悪の事態が脳裏を
「本当にすみません……! 私がもっとしっかりとしていれば……!」
「いや、君達を責めてはいない。とにかく今は、一刻も早くあの子を連れ帰るのが先決だ」
その場所まで案内してくれるかい? 彼が言葉を続けると、二人は迷わずに頷いた。……どうか間に合ってくれ、そう祈らずにはいられなかった。
◇
集まっていた書物喰らいは一瞬にして焼き払われ、辺りには多数の
「間一髪……だな」
「――っ、」
静かに近付いてくる、一つの足音。
「せん、せい…………」
彼は少し辺りを警戒した
「ご、ごめんなさ――」
もはや言い訳の余地もない。罪悪感に押し潰されそうになりながら、彼女は謝罪の言葉を
ごめんなさい。そう言いかけた時、大きな手が頭をそっと撫でた。
「こらっ。……心配したんだぞ?」
「…………え、」
君が無事で良かった――担任からかけられた意外な言葉に、サナは思わず呆然とする。これだけ迷惑をかけた自分が、
「帰ろう」
リツカは一言だけそう言うと、目線を合わせるように少し屈み、へたり込んだままのサナに手を差し伸べる。彼女の青紫色の瞳が、月夜に照らされた水面のように、静かに揺らいだ。
◆
あれは確か、遊びに夢中になった日のこと。
すっかり日が落ちても帰らなかった私を探しに来た父は、珍しく血相を変えていた。今なら分かる。きっと、私の身に何かあったと思ったのだろう。
「こらっ! ……心配したんだぞ? 帰ろう、なっ?」
「うん! えへへ〜」
父の大きな手が、私の小さな手を包み込む。暗くなった帰り道を二人、手を繋いで帰った。
――そんな、遠い日の、微かな思い出。
◆
「っ、うぁっ…………」
――かけられた言葉が、思い出と重なる。もう戻りはしない、温かく優しい日々。
死ぬのが怖くなかったわけじゃない。ただ、家族を奪った書物喰らいが……そして何より、父の仇すら取れない弱い自分が、誰よりも許せなかった。
あの日以来、周りの大人達は同情の眼差しを向けるばかりで、天涯孤独となった私に、救いの手を差し伸べる者は誰一人いなかった。
だから大人は信用ならない。そう、思ってきたのに。
暗く深い森の奥。幼い子供のように泣きじゃくるサナの背を、リツカは彼女が落ち着くまで、いつまでも優しくさすり続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます