第五話「奔走」

 嵐が去り、荒れ果てた校内の廊下で、ヒトキはその場を動けずにいた。

 壁に背を預けてぼんやりしていると、突き当たりに空いた大穴からか穏やかな風が流れ込み、髪や頭の翼を柔らかく、優しく撫でてゆく。

 激しい雷の魔力の影響で荒れていた外の風は、幸いにも無事に落ち着きを取り戻したらしい。まさしく台風一過とでも言わんばかりに、呑気な小鳥のさえずる声まで聞こえてくる程だった。

 そして、つい先ほどまで大暴れしていた少年イツキはというと、腕の中ですうすうと寝息を立てている。……危うく殺されかけたのが嘘のようだ。

(腕が痺れてきた……)

 このまま抱えておくわけにもいかず、ヒトキは僅かに残った魔力で微弱な風を起こす。自身のすぐ右隣の床に散らばるガラス片や砂埃を吹き飛ばして綺麗にしたのち、そこにイツキをそっと降ろして寝かせた。それから、緩慢な手付きでジャケットのボタンを外すと、脱いだそれを軽く畳んで枕代わりにし、せめて少年の頭だけは硬い床に触れないようにと間に挟み込んだ。

 まだ少し、頭も視界もクラクラする。再びドサリと同じ場所に腰を下ろして、気が遠くなるのを感じながら、まずは彼を保健室に連れて行かなければ――などと、動けないなりに考えを巡らせた。


 ――正直、この少年を甘く見ていたかもしれない。

 危険な力を持っているとはいえ、気の済むまで暴れさせ、魔力ごと枯渇させてしまえば鎮静化は比較的容易なのではないかと、数分前までは信じて疑わなかった。

 そう、元より、そういう算段のはずだった……のだが。

(下手にあおるべきじゃなかったな〜……)

 今はそんな、おのれの軽率さを激しく後悔していた。咄嗟に大気中に充満した霧――自身の放った水の魔力の中に身体を溶け込ませて身を隠し、イツキの背後にまわっていなければ、今頃は焼き鳥どころか消し炭にされていたに違いない。

 何より、この魔術霧化は通常よりも多くの魔力を消費する上に、身体への負担も大きい。ゆえに、決して多用は出来ない、言わば切り札のようなものだった。

 その状態ステルスを少年が無防備になるまで維持するだけでも厳しかったが、更にはえて片手に水をまとわせることで彼の雷の魔力を吸収し、手刀を擬似的なスタンガンにもした。手を尽くし、どうにか無傷であの死闘に終止符を打てたとはいえ、体力や魔力的には満身創痍まんしんそうい同然だ。

 もしも弱音が許されるのならば、もう帰りたい。帰って泥のように眠りたい。まだまだ片付けなくてはならない業務が山積みな中、今度は泥ならぬ鉛のように重たく、まるで言うことを聞かない自身の身体に悪戦苦闘あくせんくとうを強いられていた。


「…………ヒトキ君!?」

「――っ!」

 しばらく目を閉じて項垂うなだれていたが、不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには向日葵色ひまわりいろの癖っ毛が眩しい教員の姿があった。彼女の京紫色きょうむらさきいろの瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いている。

「ど……どどどどうしたのーー!? 大丈夫!?」

 髪色だけでなく人柄まで明るい彼女が、動揺しながらも迷わずヒトキのそばへ駆け寄る。パタパタと革靴の底が床を叩く音が、長く静かな廊下に響き渡った。

「待っ……! ガラス! 刺さりますよ……!?」

「おっと!」

 その勢いのままにしゃがみ込もうとした教員を彼が慌てて制止し、床に散らばるガラス片をおもむろに払いのけた。手に触れたガラス同士がぶつかり合い、今度はカチャカチャと、靴音とは対照的な控えめな音を立てる。

「す、すみません……私が対応や判断を誤ってしまい、このような事に……」

 罪悪感からか目を逸らしながら、一呼吸置いて、憔悴しょうすいしきった様子のヒトキが消え入りそうな声で謝罪した。俯いた彼の視界は瓦礫がれきで散らかる床しか捉えておらず、黙ったままの彼女の表情までは分からない。

「……ごめん! ごめんね! うちのクラス、移動教室だったから……騒ぎのこと何も知らなくて……!」

 ガラス片が退けられた床の上にそっと膝をついた目の前の同僚は、廊下の突き当たりに空いた大穴と、横たわったまま微動だにしない不良少年イツキを交互に見て、大方おおかたの事態を察したようだった。

「いえ……マイ先生は何も悪くありませんよ。むしろ、あんな危険な場にいらっしゃらなくて良かったと思います」

 彼の謝罪に自身も謝罪を重ねる彼女――マイに対し、ゆっくりと目を合わせたヒトキが少し困ったような表情を浮かべながら穏やかな声で言う。その言葉に、彼女は元々大きな目を更に見張ると、今度はそれをムッとしたように細めた。

「――も〜! 大変な時は一人で抱え込まないでって、いつも言ってるじゃん〜〜!」

 マイはそう言いながら、唐突に両手でヒトキの頭をわしゃわしゃと撫で回す。

「あ、え…………っ!?」

 そんな彼女の行動に、彼は思わず面食らう。何かまずい事でも口走ってしまっただろうか? そもそも、これは怒られているのか? などと考えてはみるものの、それらの思考はまるで意味を成さず、しばし何も言えない状態が続いた。

「ちょ……っと……! 子供じゃないんですから……!」

 気が動転したことでされるがままだったが、自身の頭に伸ばされた彼女の手首に片手を添え、どうにか撫でるのをやめさせる。困惑と気恥ずかしさから少し頬が赤らむも、マイはお構いなしにあははと笑った。

 あれこれと助けてくれるのは有り難い上に感謝もしている。それは間違いない。ただ、この人にはいつも調子を狂わされてばかりだ――と、内心、複雑な溜息をつく。

 思わず横目で反射的に周囲も確認してしまったが、大勢の生徒を含む他の人達はまだ別の階にいるのか、この場には自分達以外に人影は無い。正直なところ、その事実に心の底から安堵した。


「ところでヒトキ君、立てる? ……その前に、動ける?」

 そんな彼の入り乱れた心境など知るよしもない彼女が、変わらぬ調子でほがらかに尋ねる。時間を置いたことで多少魔力が回復したのか、倦怠感も戦闘の直後よりは少し薄れたように思えた。

「え、ええ、まあ……なんとか……」

 それでもまだ本調子とは言えず、ヒトキは撫で回されボサボサになった髪を手櫛てぐしで整えながら曖昧な返事をする。そして、先ほどから全く目を覚ます気配の無いイツキへと視線を落とした。

「ただ、彼を保健室に連れて行かなければならなくて……、私一人なら歩けそうなのですが、背負うとなると――」

「おっけー! 任せて! じゃ、イツキ君借りるね!」

「え?」

 ヒトキが呆気に取られていると、マイは横たわっていたイツキを軽々とかかえる。そのあまりの行動の早さに、疲弊した頭では処理が追いつかず、上手く言葉が出てこない。

 まだ子供とはいえ、彼は自分ヒトキよりも背の高い男子生徒だ。普段から疲れ知らずで魔術の才能まで天才的な彼女には度々驚かされてきたが、改めて、この人は一体何者なのだろうと余計に謎が深まったような気がした。

「私はこのまま保健室に行くけど、ヒトキ君は? 無理そうなら、おんぶしよっか?」

 目的地の方向へ数歩踏み出した後にヒトキの方を振り返ったマイが、なんてことはないような、さらりとした口振りで言う。冗談のように聞こえるが、どうやら、からかっているわけではなさそうだ。

「お……っ!? だ、大丈夫です! ちゃんと歩けますから!」

 彼は少年の枕代わりにしていたジャケットを拾い上げ、バサバサとほこりを払ったそれに再び袖を通しながら、慌てたように少し声を荒げて返事をした。本当に突拍子もない事を言うんだから――と呆れとも取れる焦りの感情が湧き上がる一方で、同時に、いずれも正真正銘の善意であることも分かっているだけに、無下むげにするのはどうにもなけなしの良心がとがめる。

「はーい! でも気を付けるんだよ? じゃあまた、会議でー!」

 ぱっと太陽のような笑顔を向け、軽快に去ってゆく彼女の背中を見送りながら、この人もある種の嵐みたいだな――と心の中で呟いては苦笑いを浮かべた。

 そうして一人残された彼は、まだ重たいおのれの身体にむちを打ち、来た道を最初よりもずっと遅い速度でフラフラと引き返していくのだった。


 バサ、という羽音と共に、何者かが降り立つ音が静まり返った廊下に響く。荒れ果てた暗い教室の中、言われた通りに身を潜めていたナツメは、風を切る翼の音に思わず耳をそばだてた。

 つい先ほどまで絶えず鼓膜を震わせていた激しい破裂音や轟音は、今はもう聞こえてこない。トッ――と重量の感じられない軽やかな靴音に振り向くと、そこにはいつもと変わらない彼の姿があった。

「――っ、ヒトキ先生!」

 それまで不安げだったナツメの表情が、ぱっと明るくなる。ある程度の落ち着きも取り戻せたらしく、今度は衝動的に泣き付かれるような事にはならなかった。

「すみません、お待たせしました」

 迎えに来るという約束を無事に果たせたためだろうか、ゆっくりと歩み寄るヒトキの表情や口調も心做こころなしか柔らかい。あのまま意識不明の重体で保健室送り――などという事態にならなくて良かったと、先の戦いを思い返してはせつに思った。

「あああの、大丈夫だったんですか!? なんか、すごいとんでもない音がしましたけど……!」

 喜びも束の間、ナツメが何度目かも分からない、心配そうな表情を浮かべながら尋ねる。純真な薄黄色の瞳に見つめられ、ヒトキは思わず言葉に詰まってしまう。

「――うっ。そ、それは……まあ……、じきに分かりますよ、ははは…………」

 起こったことをそのまま全て伝えては、この人ナツメは罪悪感を余計につのらせてしまうだろう――そう考えた彼は、気まずそうに目を逸らしながら、乾いた笑いでこの場を誤魔化すしかなかった。

「え……」

「と、とにかく、今は貴方の手当てが最優先です。目立った外傷が無いとはいえ、無事とも言いがたいでしょう?」

 やや強引に話を逸らし、何か言いたげなナツメの言葉を押しとどめる。自分なりに庇ったつもりとはいえ、好意による心配をないがしろにしたことを、ごめん、と胸中で謝った。

 そんなヒトキの言葉を受け、彼はハッとしたように自身の手や腕、土埃まみれの衣服を順に目で追ってゆく。騒動の中、気にする余裕も無かったのだろう。

「す、すみません……何から何まで……!」

 衣服の汚れを軽くはたきながら、ナツメがゆっくりと立ち上がる。そのかたわらで、ヒトキは普段よりも低い位置にある彼の頭頂部――長い黒髪にうずもれたいくつものガラス片を、刺さってしまわぬよう、そっと指先で摘んで取り除いた。

「いえいえ。……歩けますか?」

 差し出された片手を控えめに掴んだ彼は、まだ僅かに残された恐怖心か、はたまた純粋な疲労によるものか、よろよろと漂う身体を先輩教員に少し預けながら保健室へと続く通路を歩いて行く。そんな二人を脇目に、まだ激闘の跡が残るその現場には、少しずつ人影が戻りつつあった。


 ◇


「だだだ、大丈夫ですか!? すみません、あの、もうこちらにいらしているものだとばかり……!」

 どうにか息を整えるべく、体重を支えるように壁に片手をつき、もう一方の手で胸元を押さえるヒトキの背をさすりながらナツメが言う。もしも会議室へ来る順番が違っていれば、この役回りも逆転していたであろうことは想像にかたくない。

「だ……大丈夫です。ちょっと、色々とやる事がありまして……」

 よほど急いで来たのか、普段は邪魔になるからと体内にしまい込んでいる彼の背中の翼が露出したまま上方――正に羽ばたいている時のように広げられており、それが余計に存在感を放っている。ふと顔を上げた拍子にこちらを驚いたように見つめる碧色の瞳と目が合うと、ヒトキは少し気まずそうに視線を逸らし、ゆっくりと背の翼を折り畳んだ。

「あ……あー、その、入相いりあい君……?」

 そのまま無言でつかつかと歩み寄る彼に、ノエルが言い淀む。いつもの見慣れた涼しい顔無表情からはうかがい知れないが、怒っているだろうということくらいは言われずとも分かる。むしろ、この仕打ちを不服に感じない方がおかしいというものだ。


「……申し訳ございません、学長。今後はこのような事が無いように、もっと時間に余裕を持った行動を――」

 ――しかし、そんな彼女の予想に反して彼は静かに頭を下げる。そこに怒気どきは全く含まれておらず、ただただ反省の色を浮かべるばかりだった。

「いっ、いやいや!? 頭を上げてくれ! 君が最後じゃあないし、まだ会議も始まってすらいないから!」

「…………え、っ?」

 慌てたノエルの言葉に、ヒトキは弾かれたように顔を上げる。困惑しながらも会議室を見回し、まばらな人影を確認すると、再び目の前の学園長へと視線を戻した。まだ状況を飲み込めていないのか、どこかぼんやりとしている。

「……ねっ? 全員揃っていないだろう? セーフだよ、セーフ」

「〜〜〜っ!」

 彼女が困ったような笑みを向けると、その瞬間、なりふり構わず大慌てで会議室へ飛び込んだことや、別段べつだん手遅れでもないのに、さぞ深刻そうに謝罪をするといった自身の一連の言動を冷静に思い返したためか、ぶわ、と彼の頬が紅潮こうちょうする。それから、たまれない気持ちを押し殺すかのように、目を固く閉じて咳払いをした。

「…………で、ですが! 遅刻は遅刻でしょう? 開始時刻を過ぎておりますし……」

 少し俯いたまま、彼が遠慮がちに弁解――といっても自己保身とは真逆の自責だが――をする。そんな生真面目な教員の様子に、学園長は思わずふっと目を細めた。

「いやあ……石蕗つわぶき君から大体の事情は聞いてるよ。諸々の対応や後処理をきみ一人に任せておきながら、その上で会議にも遅れずに来いだなんて――ねえ。感謝こそすれ、非難なんかするものかい」

 ノエルはそう言うと、高く伸ばした腕でヒトキの肩をポンポンと軽く叩く。にっ、と無邪気な笑顔を向ければ、彼はきまりが悪いながらもどうにか納得したのか、すみません、とだけ小さく答えた。


「すみませーん! 遅れました!」

 そのやり取りの直後、明るく元気な声と共に、再び会議室のドアが開け放たれる。全く悪びれる様子の無い彼女のすぐ後ろには、先ほどのヒトキ同様、申し訳なさを滲ませた小柄な女性教員の姿もあった。

「こらー。三十分の遅刻だぞー? まったく、君も少しは入相君を見習ったらどうなん――」

「が、学長……! その、お二人はですね……?」

「うん?」

 慌てたヒトキが何かを言おうと制止するも、次の言葉は彼ではなく、当事者である彼女の口から告げられた。

「ちょっとちょっと! ただの遅刻じゃないんですってば! 私達も喧嘩の後片付けをしてたんですよ? ……ねっ、モモネちゃん!」

「ひぇ、ぁ、はい……! すみません……!」

「えっ」

 その返答に、ノエルと、話を聞いていたナツメの声が重なる。ナツメに余計な罪悪感を植え付けないようにと、えて詳細を伏せていたヒトキは、頭を抱えるように思わず自身の眉間みけんを指で押さえ軽く俯いた。

「もー、学長ったら! 最初からサボりだと決め付けるなんて!」

「マイ君の場合は日頃の行いがだな……」

「ひどーい!」

 元気な彼女、改め、マイとノエルの言い合いを横目に、ヒトキはようやく席に着く。会議はこれからだというのに、まるで今日一日の業務を全て終えたかのような、そんな疲労感だ。……そして、先ほどからずっとこちらに心配そうな視線を向けてくる友人リツカ後輩ナツメのことは一旦、考えないようにした。


「――さて、全員いるね?」

 喧騒を鎮めた学園長のノエルが、改まった口調で演台えんだいに立つ。

 和気あいあいとしていた会議室は水を打ったように静まり返り、各々が、これから論ずる内容に意識を集中させているようだった。

 窓の外から聞こえていたはずの生徒達の声もいつの間にやらどこかへと消え、今はただ、少しだけ開いた窓から、薄手のカーテンすら揺れぬほどの微弱な風が流れ込むばかりだ。

 照明を落とした薄暗い室内で、プロジェクターのまばゆい光が、風で巻き上げられた細かなちりを反射させる。その先に映し出された会議資料を背に、ノエルが静かに口を開いた。

「それじゃあ、始めようか。今日、この場に皆を集めたのは――」


「どうやら、この世界レヴリに“特異点”が現れた。その事を伝えるためさ」


 陽の傾き始めた昼下がり――広大な学園の一角で、確かな不穏の足音がうごめいた。

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