第五話「奔走」
嵐が去り、荒れ果てた校内の廊下で、ヒトキはその場を動けずにいた。
壁に背を預けてぼんやりしていると、突き当たりに空いた大穴からか穏やかな風が流れ込み、髪や頭の翼を柔らかく、優しく撫でてゆく。
激しい雷の魔力の影響で荒れていた外の風は、幸いにも無事に落ち着きを取り戻したらしい。まさしく台風一過とでも言わんばかりに、呑気な小鳥のさえずる声まで聞こえてくる程だった。
そして、つい先ほどまで大暴れしていた
(腕が痺れてきた……)
このまま抱えておくわけにもいかず、ヒトキは僅かに残った魔力で微弱な風を起こす。自身のすぐ右隣の床に散らばるガラス片や砂埃を吹き飛ばして綺麗にした
まだ少し、頭も視界もクラクラする。再びドサリと同じ場所に腰を下ろして、気が遠くなるのを感じながら、まずは彼を保健室に連れて行かなければ――などと、動けないなりに考えを巡らせた。
――正直、この少年を甘く見ていたかもしれない。
危険な力を持っているとはいえ、気の済むまで暴れさせ、魔力ごと枯渇させてしまえば鎮静化は比較的容易なのではないかと、数分前までは信じて疑わなかった。
そう、元より、そういう算段のはずだった……のだが。
(下手に
今はそんな、
何より、この
もしも弱音が許されるのならば、もう帰りたい。帰って泥のように眠りたい。まだまだ片付けなくてはならない業務が山積みな中、今度は泥ならぬ鉛のように重たく、まるで言うことを聞かない自身の身体に
「…………ヒトキ君!?」
「――っ!」
しばらく目を閉じて
「ど……どどどどうしたのーー!? 大丈夫!?」
髪色だけでなく人柄まで明るい彼女が、動揺しながらも迷わずヒトキの
「待っ……! ガラス! 刺さりますよ……!?」
「おっと!」
その勢いのままにしゃがみ込もうとした教員を彼が慌てて制止し、床に散らばるガラス片をおもむろに払いのけた。手に触れたガラス同士がぶつかり合い、今度はカチャカチャと、靴音とは対照的な控えめな音を立てる。
「す、すみません……私が対応や判断を誤ってしまい、このような事に……」
罪悪感からか目を逸らしながら、一呼吸置いて、
「……ごめん! ごめんね! うちのクラス、移動教室だったから……騒ぎのこと何も知らなくて……!」
ガラス片が
「いえ……マイ先生は何も悪くありませんよ。むしろ、あんな危険な場にいらっしゃらなくて良かったと思います」
彼の謝罪に自身も謝罪を重ねる彼女――マイに対し、ゆっくりと目を合わせたヒトキが少し困ったような表情を浮かべながら穏やかな声で言う。その言葉に、彼女は元々大きな目を更に見張ると、今度はそれをムッとしたように細めた。
「――も〜! 大変な時は一人で抱え込まないでって、いつも言ってるじゃん〜〜!」
マイはそう言いながら、唐突に両手でヒトキの頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「あ、え…………っ!?」
そんな彼女の行動に、彼は思わず面食らう。何かまずい事でも口走ってしまっただろうか? そもそも、これは怒られているのか? などと考えてはみるものの、それらの思考はまるで意味を成さず、しばし何も言えない状態が続いた。
「ちょ……っと……! 子供じゃないんですから……!」
気が動転したことでされるがままだったが、自身の頭に伸ばされた彼女の手首に片手を添え、どうにか撫でるのをやめさせる。困惑と気恥ずかしさから少し頬が赤らむも、マイはお構いなしにあははと笑った。
あれこれと助けてくれるのは有り難い上に感謝もしている。それは間違いない。ただ、この人にはいつも調子を狂わされてばかりだ――と、内心、複雑な溜息をつく。
思わず横目で反射的に周囲も確認してしまったが、大勢の生徒を含む他の人達はまだ別の階にいるのか、この場には自分達以外に人影は無い。正直なところ、その事実に心の底から安堵した。
「ところでヒトキ君、立てる? ……その前に、動ける?」
そんな彼の入り乱れた心境など知る
「え、ええ、まあ……なんとか……」
それでもまだ本調子とは言えず、ヒトキは撫で回されボサボサになった髪を
「ただ、彼を保健室に連れて行かなければならなくて……、私一人なら歩けそうなのですが、背負うとなると――」
「おっけー! 任せて! じゃ、イツキ君借りるね!」
「え?」
ヒトキが呆気に取られていると、マイは横たわっていたイツキを軽々と
まだ子供とはいえ、彼は
「私はこのまま保健室に行くけど、ヒトキ君は? 無理そうなら、おんぶしよっか?」
目的地の方向へ数歩踏み出した後にヒトキの方を振り返ったマイが、なんてことはないような、さらりとした口振りで言う。冗談のように聞こえるが、どうやら、からかっているわけではなさそうだ。
「お……っ!? だ、大丈夫です! ちゃんと歩けますから!」
彼は少年の枕代わりにしていたジャケットを拾い上げ、バサバサと
「はーい! でも気を付けるんだよ? じゃあまた、会議でー!」
ぱっと太陽のような笑顔を向け、軽快に去ってゆく彼女の背中を見送りながら、この人もある種の嵐みたいだな――と心の中で呟いては苦笑いを浮かべた。
そうして一人残された彼は、まだ重たい
バサ、という羽音と共に、何者かが降り立つ音が静まり返った廊下に響く。荒れ果てた暗い教室の中、言われた通りに身を潜めていたナツメは、風を切る翼の音に思わず耳をそばだてた。
つい先ほどまで絶えず鼓膜を震わせていた激しい破裂音や轟音は、今はもう聞こえてこない。トッ――と重量の感じられない軽やかな靴音に振り向くと、そこにはいつもと変わらない彼の姿があった。
「――っ、ヒトキ先生!」
それまで不安げだったナツメの表情が、ぱっと明るくなる。ある程度の落ち着きも取り戻せたらしく、今度は衝動的に泣き付かれるような事にはならなかった。
「すみません、お待たせしました」
迎えに来るという約束を無事に果たせたためだろうか、ゆっくりと歩み寄るヒトキの表情や口調も
「あああの、大丈夫だったんですか!? なんか、すごいとんでもない音がしましたけど……!」
喜びも束の間、ナツメが何度目かも分からない、心配そうな表情を浮かべながら尋ねる。純真な薄黄色の瞳に見つめられ、ヒトキは思わず言葉に詰まってしまう。
「――うっ。そ、それは……まあ……、
起こったことをそのまま全て伝えては、
「え……」
「と、とにかく、今は貴方の手当てが最優先です。目立った外傷が無いとはいえ、無事とも言い
やや強引に話を逸らし、何か言いたげなナツメの言葉を押し
そんなヒトキの言葉を受け、彼はハッとしたように自身の手や腕、土埃まみれの衣服を順に目で追ってゆく。騒動の中、気にする余裕も無かったのだろう。
「す、すみません……何から何まで……!」
衣服の汚れを軽く
「いえいえ。……歩けますか?」
差し出された片手を控えめに掴んだ彼は、まだ僅かに残された恐怖心か、はたまた純粋な疲労によるものか、よろよろと漂う身体を先輩教員に少し預けながら保健室へと続く通路を歩いて行く。そんな二人を脇目に、まだ激闘の跡が残るその現場には、少しずつ人影が戻りつつあった。
◇
「だだだ、大丈夫ですか!? すみません、あの、もうこちらにいらしているものだとばかり……!」
どうにか息を整えるべく、体重を支えるように壁に片手をつき、もう一方の手で胸元を押さえるヒトキの背をさすりながらナツメが言う。もしも会議室へ来る順番が違っていれば、この役回りも逆転していたであろうことは想像に
「だ……大丈夫です。ちょっと、色々とやる事がありまして……」
よほど急いで来たのか、普段は邪魔になるからと体内にしまい込んでいる彼の背中の翼が露出したまま上方――正に羽ばたいている時のように広げられており、それが余計に存在感を放っている。ふと顔を上げた拍子にこちらを驚いたように見つめる碧色の瞳と目が合うと、ヒトキは少し気まずそうに視線を逸らし、ゆっくりと背の翼を折り畳んだ。
「あ……あー、その、
そのまま無言でつかつかと歩み寄る彼に、ノエルが言い淀む。いつもの見慣れた
「……申し訳ございません、学長。今後はこのような事が無いように、もっと時間に余裕を持った行動を――」
――しかし、そんな彼女の予想に反して彼は静かに頭を下げる。そこに
「いっ、いやいや!? 頭を上げてくれ! 君が最後じゃあないし、まだ会議も始まってすらいないから!」
「…………え、っ?」
慌てたノエルの言葉に、ヒトキは弾かれたように顔を上げる。困惑しながらも会議室を見回し、まばらな人影を確認すると、再び目の前の学園長へと視線を戻した。まだ状況を飲み込めていないのか、どこかぼんやりとしている。
「……ねっ? 全員揃っていないだろう? セーフだよ、セーフ」
「〜〜〜っ!」
彼女が困ったような笑みを向けると、その瞬間、なりふり構わず大慌てで会議室へ飛び込んだことや、
「…………で、ですが! 遅刻は遅刻でしょう? 開始時刻を過ぎておりますし……」
少し俯いたまま、彼が遠慮がちに弁解――といっても自己保身とは真逆の自責だが――をする。そんな生真面目な教員の様子に、学園長は思わずふっと目を細めた。
「いやあ……
ノエルはそう言うと、高く伸ばした腕でヒトキの肩をポンポンと軽く叩く。にっ、と無邪気な笑顔を向ければ、彼はきまりが悪いながらもどうにか納得したのか、すみません、とだけ小さく答えた。
「すみませーん! 遅れました!」
そのやり取りの直後、明るく元気な声と共に、再び会議室のドアが開け放たれる。全く悪びれる様子の無い彼女のすぐ後ろには、先ほどのヒトキ同様、申し訳なさを滲ませた小柄な女性教員の姿もあった。
「こらー。三十分の遅刻だぞー? まったく、君も少しは入相君を見習ったらどうなん――」
「が、学長……! その、お二人はですね……?」
「うん?」
慌てたヒトキが何かを言おうと制止するも、次の言葉は彼ではなく、当事者である彼女の口から告げられた。
「ちょっとちょっと! ただの遅刻じゃないんですってば! 私達も喧嘩の後片付けをしてたんですよ? ……ねっ、モモネちゃん!」
「ひぇ、ぁ、はい……! すみません……!」
「えっ」
その返答に、ノエルと、話を聞いていたナツメの声が重なる。
「もー、学長ったら! 最初からサボりだと決め付けるなんて!」
「マイ君の場合は日頃の行いがだな……」
「ひどーい!」
元気な彼女、改め、マイとノエルの言い合いを横目に、ヒトキはようやく席に着く。会議はこれからだというのに、まるで今日一日の業務を全て終えたかのような、そんな疲労感だ。……そして、先ほどからずっとこちらに心配そうな視線を向けてくる
「――さて、全員いるね?」
喧騒を鎮めた学園長のノエルが、改まった口調で
和気あいあいとしていた会議室は水を打ったように静まり返り、各々が、これから論ずる内容に意識を集中させているようだった。
窓の外から聞こえていたはずの生徒達の声もいつの間にやらどこかへと消え、今はただ、少しだけ開いた窓から、薄手のカーテンすら揺れぬほどの微弱な風が流れ込むばかりだ。
照明を落とした薄暗い室内で、プロジェクターの
「それじゃあ、始めようか。今日、この場に皆を集めたのは――」
「どうやら、
陽の傾き始めた昼下がり――広大な学園の一角で、確かな不穏の足音が
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