第二話「セントーレア学園」

「あ、あの〜……、もしもし……?」

 しばしの沈黙の後、おそるおそるといったように、カガリが眠ったままの青年に近寄り声をかける。

 あれだけの騒ぎで目を覚まさなかったのだ、少し話しかけたくらいで起きるのだろうか――という疑問は一旦、胸中にしまい込むことにした。

「も……もしもーし!」

 一度目よりも大きな声で呼びかけてみる。……が、相変わらず返事は無い。

 事件を無事解決し、平穏の戻った森に、また新たな問題が発生する。一難去ってまた一難とは、正にこの事を言うのだろう。

 すっかり困り果てたカガリは小さな呻き声をこぼすと、助けてと言わんばかりに、いつの間にか隣に並んでいたユキネに弱気な視線を送る。

「ぜ、全然起きない……どうしよう、このままってわけにもいかないし……」

「もしかして、カガリちゃんがさっき急に飛び出したのって……」

「そう。この人が書物喰らいブックワームに襲われそうだったから……なんだけど、」

 二人の少女が、先の戦闘を振り返りながら今の状況を整理する。しかし、どれだけ思考を巡らせても、否、誰がどう見ても、

「この通り、全然起きないんだよね」

「本当に起きないね……」

 この一言に尽きるのだった。


 考えたところで状況は変わらない。刻一刻と時が過ぎる中、難しい表情をしていたユキネが口を開く。

「……学園に連れて行って、診てもらう? 雛芥子ひなげし先生なら、何か分かるんじゃ――」

「えっ!? さすがにそれはちょっと……ゆ、誘拐とかにならない……!?」

「でも、ここじゃ何も出来ないよ……? 私達の帰りが遅いと、学長にも迷惑かけちゃうかもしれないし……」

「う……、確かに……そうだけど……」

 ユキネの提案にカガリが曖昧な返事をする。

 可能であれば、この場で彼の安否を確認し、多少の意思疎通を経てから学園――彼女達の活動拠点へ案内するという段階を踏みたいのが本音だった。

 互いのことすら知らぬまま、許可無く知らない場所に連れて来られて、この人はどう思うだろう。そもそも本当に無事なのだろうか。そして、何よりも。

「急に素性の知れない人を連れて行って、怒られないかな……」

 もはや自分達にす術が無いのは事実だが、それでも懸念は拭えない。カガリは少し俯くように視線を逸らし、物憂げに目を細めた。

「そこは大丈夫だよ」

「……へ? なんで?」

「今、学長から返信が来たから」

 控えめながらも淡々と話すユキネの手に握られた携帯端末の画面には、彼女が送信した礼儀正しい質問文と、それに対する学園長からの“おっけ〜!”という、なんとも気の抜けた返答が映し出されている。

「い、いいいいつ!? いつの間に!?」

「えっと、この人を学園に連れて行こうかって言った辺り……」

 俯いていた顔をぱっと上げ、動揺を隠せないままカガリが尋ねる。

 その勢いに押されつつ、先に許可だけでも取っておこうと思って――とユキネは遠慮がちに続けた。自身の不安が杞憂だったことを知った黒狐の少女は、敵わないなと言わんばかりに乾いた笑みを浮かべるしかない。

「もー! 先に言ってよユキネちゃーん!」

「ご、ごめんね……!」

「あたし、色々と心配しちゃった――」

 脱力の弾みで呑気に談笑をしていたが、その一言を言い終える前に、はたとカガリの声が途絶える。

「じゃ、な……い……」

「? カガリちゃん……?」

 急変した友人の様子に困惑するユキネ。後半部分は消え入るようにとても小さく、聞き取れないほどだった。

 身体は自分の方を向き、何気なく視線だけを横に動かした彼女が、その直後から、なにか信じられないものでも見たかの如く横を向いたまま硬直している。

「ど、どうしたの? 急、に……」

 ――が、同じ方向を見たユキネ自身も、すぐにその理由を理解する。


 目の前には、その場に座り込み、ぼけまなこで不思議そうに辺りを見回す青年――あれだけの事があっても目を覚ます気配の無かった彼の姿があった。


「っひ……ひええええーーー!?」

 静寂を破り、素っ頓狂すっとんきょうな悲鳴がこだまする。

「わっ……!」

 驚いたカガリが、咄嗟に真正面のユキネにしがみ付く。少しよろめきながら反射的に彼女を受け止めたユキネも、呆然としたまま固まっていた。

 不意にそんな悲鳴が聞こえたとなれば、驚きで肩が跳ねても何らおかしくはないようなものだが、その青年は驚く素振そぶりすら見せず、ゆっくりと二人の少女の方を見た。

 ――どこかあどけなさの残る藍色の瞳と、そんな彼の眼差まなざしに吸い込まれた真紅の瞳が、ぱち、と音も無くぶつかる。

「…………ここは?」

 まだ少し眠たそうな声で彼が問う。

 はっと我に返ったカガリはユキネと顔を見合わせると、申し訳なさそうに密着していた身体を離し、改めて青年の方へと向き直った。

「え、ええっと、ここは微睡の森まどろみのもり、です。……あ、あの! だだだ、大丈夫なんですか!? 貴方、ずっとここで倒れていて、全然目を覚ましませんでしたから、心配で――!」

「まどろみ……の……?」

 しどろもどろになりながらも言葉を繋げるカガリとは対照的に、青年は調子を崩さず、よく分からないといった様子で首を傾げる。

「この場所の名前……なんです、けど……、あ、あれ……? もしかしてあまり知られてない……!?」

「どちらからいらしたんですか……? この辺りはレヴリ中央部ですから、道に迷ってしまったとか……」

 返答に困り、慌てふためく彼女にすかさずユキネが助け舟を出す。――しかし、彼の反応は意外なものだった。

「レヴリ……って、なに……?」

「えっ」

 二人の少女の声が綺麗に重なる。無理もない、レヴリ――“この世界の名前”を知らないまま生きている者がいるなどと、考えた事すら無かったのだから。

「――分からない、思い出せないんです。何も……」

 そう言うと青年は視線を落とし、悩ましそうに自身のこめかみを右手の指で添えるように押さえた。

 言葉に詰まった二人が、再び顔を見合わせる。……こんな事は、生まれてこのかた初めてだ。

「この世界の名前を知らないってことは、まさか、別の世界から迷い込んじゃったとか……!?」

「絶対に無いとは言い切れないけど……それなら、自分の出身は言えるんじゃないかな……?」

「あっ、そっか……」

 彼に聞こえぬよう、小声で相談をするカガリとユキネ。――そして、ある一つの結論に至る。


「まさか、記憶喪失……って、やつ……?」

 少し考え込んだ後に、カガリがぽつりと呟く。その言葉を聞いたユキネも合点がいったのか、不安げにしていた伏し目を丸くした。

 無論、二人の身近に記憶を失った者などいない。実際に当事者をこの目で見たわけではない以上、あくまでも仮説、憶測に過ぎないが、他に思い当たる節もなかった。

 カガリは何かを決心したように目を閉じると、短く深呼吸をする。

 そして、座り込んだままの青年と目線を合わせるためか、今度は衝動的ではなく、ゆっくりと、自らの意思で柔らかな芝生に膝をついてしゃがみ込んだ。

「カガリちゃん……?」

 突然の行動に戸惑うユキネの目の前で、ふわり、と真っ黒な二本の尾が宙に揺れる。


「すみません、ご挨拶がまだでしたね。私、天狐族てんこぞく埋火うずみびカガリっていいます。……貴方のお名前は?」

 春先にほころぶ花のような柔らかな微笑みを浮かべ、彼女は俯く彼の顔をそっと覗く。恐怖とも困惑とも言えない、どこかぼんやりとした藍色の眼差まなざしが、ただただ真っ直ぐに少女を見つめていた。

「な、まえ……? えっと、僕は――」


「…………“シロエ”。確か、そう呼ばれていたような……?」

「!!」

 青年――シロエの名を知ったカガリの表情が、ぱっと明るくなる。答えてくれた。そんな喜びの気持ちを隠すことなど、全く考えていないのだろう。

 静かに二人の様子を見守っていたユキネも思わず驚きの表情を浮かべ、それからホッとしたように微笑んだ。

「わあ! 初めまして、シロエさん! えへへ〜」

 尾を左右にふわふわと揺らしながら、彼の手を取り無邪気に笑うカガリ。シロエも特に抵抗することもなく、なすがままにされている。

「あっ、あの……! 早速ですみませんが、これから私達と一緒に来ていただけませんか……?」

 そのそばにおずおずと並んでしゃがみ込んだユキネが言うと、喜びに舞い上がっていたカガリも本来の目的を思い出したのか、はっと我に返り、短く二度頷いた。

「そう、そうです! 貴方のこと、まだ全然分からないですし、何より、記憶が無いままでは危ないですから……!」

「? 良いけど……どこに?」

 キョトン――正にそんな擬音が聞こえてくるほどに不思議そうな表情を浮かべたシロエが、二つ返事で了承し尋ねる。

 そんな彼の問いかけに、カガリは元気良く答えた。


「地上一の学舎まなびや――“セントーレア学園”に!」


 ◇


 シロエは二人に先導されるようにして、周囲を木々と綺麗な川に囲まれた森の小道を緩やかに進む。心地良い風が吹き、水面は反射した陽の光できらきらとまばゆい。

 川の流れに沿ってしばらく歩くと、前方に建物が見えた。

「あっ、見えてきましたよ! あの一番大きな建物が学園です!」

「! あれが……」

 カガリが指差す方向を見上げたシロエが驚きの感情を僅かに滲ませ呟く。

 レンガ造りの白みがかった壁に、天高くそびえる塔のような複数の校舎。そして、それらを繋ぐ長い廊下――まるでお伽話の城を思わせる灰白色かいはくしょくの建造物は、正門越しにもその広さが見て取れる。

 遠くからでも十二分に存在感を放っていたが、実際に到着してみると改めて並々ならぬ広大さに驚かされた。

 二人の少女は自宅の庭でも歩くかの如く、慣れた足取りで正門を通過する。それから、そのまま広い校内を迷わずに進んでいった。

 綺麗に整えられた内装、壁の掲示物、煌びやかな魔道具――見るもの全てが新鮮に映るシロエにとって、興味を惹かれるものは数多くあったが、はぐれてしまわぬよう、今はほんの少し眺めるだけに留めた。

 長い長い廊下や階段をいくつも渡ったのち、三者はある一つの大きな扉の前で立ち止まる。

 重厚な木製のそれを目の前に、息を整えるためか、カガリが自身の胸に手を当て、小さく息を吐く。そして、コンコンと軽く三度ノックした。

「ただいま戻りました、学園長」

 凛とした彼女の声に答えるかのように、見るからに重たそうな扉が独りでに軽々と開く。これもまた、何らかの魔法のようだった。

「失礼いたします」

 カガリの後に続き、ユキネも開け放たれた扉の前で一礼をしてから、速やかに室内へと入っていった。


 校内のどの部屋よりも広く、荘厳な雰囲気が漂うその一室では、狐の少女達よりもずっと小柄な、生成色きなりいろの髪をした少女らしき人物がこちらに背を向け、静かに窓の外を眺めている。

 暖かな正午の風が薄いレースのカーテンを揺らしながら吹き抜けると、少し埃っぽさをまとった陽だまりの香りが、部屋の入り口で佇むシロエの鼻腔びこうをくすぐった。

 先ほど、カガリから“学園長”と呼ばれたであろう謎の少女が緩やかに振り返る。宝石のような碧色の瞳が、逆光の暗がりの中で幻想的に煌めいていた。

 シロエの姿を見た彼女は、にやりとそれを悪戯っぽく細めて口を開く。


「ふふっ、待ってたよ。 ――?」

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