第3話 天才・広瀬藍ちゃん
中田先生はあたしたちを所定の場所に立たせた後、山頂の方へ向かっていった。いちばん見晴らしのいいところで、この模擬戦の監督をするらしい。
厳ついジャージ姿が見えなくなると、急に静寂に包まれたような気がした。ゴールデンウィークの気持ちの良い風が森の木々をざわざわと揺らす音だけが聞こえた。いよいよレースが始まるのだ。今までは基礎体力作り、読図知識の習得、謎の鬼ごっこしかしてこなかったから、誰かと競い合いながら山の中を走るのは初めてだった。なんだか緊張してきたかも……。
「どうしたん? 水でも飲む?」
あたしが深呼吸しているのを見て、藍ちゃんは自分の腰のボトルポーチからペットボトルを引き抜く。経験者の余裕なのか元からなのか、彼女の方はまったく緊張感がなさそうである。
「…………」
「あ、まだ口つけてへんから、大丈夫やで」
「いや、でも結構……です」
「『です』はいらんよ。一年どうし仲よくしよって言ったやん」
あたしが断ると、藍ちゃんは自分で水を飲んで、ちょっと残念そうにボトルをポーチに戻す。なんだかスポーツ飲料のコマーシャルみたいな爽やかさだった。
「天ちゃんは、最近オリエン始めたんやろ?」
「うん、そう」
「どんな練習したん?」
ムムム、これは高度な情報戦か? 阿呆なあたしから楠木中の情報を引き出そうとしておるな? そうはいかないぜ。
「鬼ごっことか……かな」
「鬼ごっこ?」
嘘は言っていないけど、絶妙に相手の役に立たなさそうな情報を開示する。
「ええなぁ、そっちの方が面白そうや。こっちの先輩たちはバチバチのトレーニングが大好きやからなぁ……大阪人やのにまじめすぎるわ」
大阪人でもまじめにスポーツに打ち込む人はたくさんいるだろうけれど。
「期待の新人で、スカウトされたんでしょ?」
はじめて出くわしたとき、持田先輩がそう言っていた気がする。
「生まれた家が生駒山の方にあって、自然は友達ってだけ。チヤホヤしてくれるから入ったけど、伝統とか四天王とか、ちょっと堅苦しいね」
爽やかな笑顔で愚痴を言う。
「ボクはもっと自由に生きたいんやけど……」
自由……ね。誰かさんの顔が思い浮かぶ。午前十一時を少し過ぎたところ。第一走者であるあの人はもうスタートしている頃合いだ。
しばらくすると二人とも無言になる。運動会のリレーのように前の走者がどこにいるのか見ることはできないから、耳を澄ませないといけない。あたしは心を落ち着けるために手元の地図をあらためてにらみつける。この一か月、何度も登りに来た山だ。地形図を見ながらその場の映像を思い浮かべることすらできる。
――ガサガサ
明らかに風の音ではない。来たか?
「こんにちは~」
違った。休日のハイキングおじいさんだった。
「「こんにちはー」」
藍ちゃんと声が重なるが、彼女の方は微妙に関西のイントネーション。ドキドキしているあたしは、どちらが先に来てほしいのだろう? アタシたちの前、第三走者は我らが風子先輩と向こうの増井長谷子副部長。もちろん楠木中に所属するあたしは風子先輩が先に現れてくれることを願っているハズだが……せっかく先輩たちがつないでくれたバトンを台無しにするのではないかというプレッシャーがある。帝王寺の方がリードしていて、新米のあたしは頑張ったけど、経験者の藍ちゃんには追いつけませんでした……というストーリーを望んでしまう自分がいる。その方が模擬戦としては無難じゃない? なんて。口に出したら怒られそうだけれども。
――ガサガサッ
今度こそ来た!
「天ちゃん!」
先に現れたのは風子先輩。
「はい! こっちです!」
先ほどまでのごちゃごちゃした考えは一度吹っ飛んでしまう。風子先輩の顔を見れば、一目瞭然なのだ。一度戦いが始まったら、先輩たちは本気も本気。大マジなのだ。練習だなんて思っていない。本気で勝ちに行く。
「落ち着いて、まずは目標を確認して!」
バトン代わりのマスターマップを受け渡しながら、風子先輩があたしにアドバイス。まずはコントロール・ポイントの位置を確認しなければならないので、陸上のリレーみたいにノールックで走り出すことはできないのがもどかしい。見ると、ゴールである御机神社を示す鳥居マークまでの間に、チェックポイントは一つ。急坂を下って標高二〇〇mの等高線を超えたところ。登山道から少しだけ西にそれたところにある。
「いってきます!」
とりあえず急坂を降りてから考えよう。そこまでは道なり。得意なくだりだ。まずはゆるやかな尾根道を爆走する。もう藍ちゃんはバトンを受け取っただろうか? 気になるけれども振り返らない。どうせ一本道だ。来るなら来るさ。前だけ見よう。
「すいません!」
先ほどのハイキングおじいさんが前を歩いていたので、驚かさないように注意して迂回する。
「ほほほ、若いのぉ」
みたいな感想がドップラー効果っぽく聞こえた。さて、ここからは急な階段。登るときはほとんど梯子のようにして登るところだ。下るときは足を踏み外さないように注意する必要がある。
「うおおおお」
えっちらおっちら足を踏み出すのがもどかしくなって、いさぎよく後ろを向き、それこそ梯子のようにして下る。前だけ見ようとさっき決意したばかりなのに……というのは置いておいて。後ろを向くついでに坂の上を見る。
「あれ?」
藍ちゃんの姿は未だなし。もしかして先輩たちめっちゃ頑張って差をつけてくれたのでは?
「ふはははは」
あたしは強者の笑い方をしながら猛烈な勢いで急坂を逆向きに下る女子中学生と化す。客観的に見るとヤバいな。
急坂終了。振り向きざまにマスターマップを確認。方角を確認するのも面倒なので、目の前に伸びる道と地図上の道をアイデンティファイさせる。チェックポイントは少し進んでから左の茂みに入ったところに現れるはず――で、たしかに思っていた通りの場所にオレンジとホワイトのポストが現れたのだが……現れたのはそれだけではなかった。
「やぁ。思わず本気を出しちゃった」
「なぜ藍ちゃんがそこにぃぃぃぃ!?」
見れば、爽やかな笑顔とともにコントロールユニットへEカードをかざす広瀬藍ちゃんの姿。息はあたしほど乱れていないものの、よく見ると服に汚れがつきまくっている。
「そのまま行っても追いつけへんと思ったから、比較的傾斜がマシな道なき谷筋を標高二〇〇mまで下って、そこから等高線沿いに走ってきた!」
というような説明を、あたしに背を向けて走り出しながらする。
「くぅぅぅ」
言葉にならないものをかみしめながら、あたしもEカードをかざす。ここから追いつけるか?頭が真っ白になる。せっかく先輩たちが作ってくれた差を、簡単に埋められてしまった。さきほどまでの浮かれ気分はどこへやら、悪い想像の通りじゃないか。ふははははじゃねえよ馬鹿野郎。脚がもつれる。息が詰まる……
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