第2話 距離感を測りかねる先輩
放課後。やればできる子こと山川天は、一発で再テストに合格し、部室へ向かった。うん、まぁ、再テストの時点で一発ではないのだけれど。
「すいません、遅れました……て、あれ?」
部室には、森本燐先輩ただ一人。問題集など広げて数学を嗜んでいらっしゃる。
「こんにちは、山川さん。今週は私があなたのコーチを担当します」
先輩は勉強道具を一旦置き、メガネをくいっと上げてから、あたしの方に右手を差し出した。
「あ、ど、どうぞ、よろしくお願いします」
予期せぬ展開に少し慌てる。
「よろしく」
なぜかお互いあらたまって握手を交わす。
「あ、あの、他のお二方は?」
「二人はトレーニングに行ってしまいました。山川さんは私と後から山に向かい、読図の練習をして、それから二人に合流します」
どくず。読図ね。
「読図って、地図を読むやつですね」
「そうです。最初に飯盛山へ行ったときに少しレクチャーしましたね」
卓美先輩がいなくてがっかり……というような顔はしない。恋する乙女といえど、礼儀はわきまえているつもりだ。ただ、森本燐というこの先輩とは、微妙に距離を測りかねていた。握手したから物理的距離はゼロ、とかそういう話ではない。精神的距離のことだ。ワイルドに向こうから近づいてくる卓美先輩や、おっとりしていてとっつきやすい風子先輩とは、少し違う。だいたい関西弁じゃないし。誰にでも敬語だ。そんな関西人もいるんだ……いや、それはいいんだけど。
「どうしました?」
「い、いえー。なんでもないっす」
「そうですか。では着替えましょう。あんまりゆっくりしていると、二人が待ちくたびれます」
燐先輩は部室の鍵を閉め、さっさと制服を脱ぎ出してしまう。いつも通り、黒ストからスポーツタイツに履き替えてから短パンを履く。あたしも体操服を取り出し、着替える。今まで気がつかなかったが、燐先輩は山へ行くときには眼鏡を取り換えていた。黒縁眼鏡から、黒縁眼鏡へ。ほとんど違いがわからない。どうりで気がつかなかったわけだ。
「あの、眼鏡二種類あるんですね」
「ええ。こちらはスポーツ用なので、ぴったりフィットするんです」
「ほー」
「普段からこっちを使えばいいんですけどね。気分転換です」
燐先輩はなぜだか恥ずかしそうに目をそむける。眼鏡に触れるのはよくなかったのだろうか? 黒ストから黒ストに履き替えるのもそうだが、傍目にはよくわからない謎のこだわりが多いのかもしれない。スイッチを切り替えて気合を入れる儀式ということだろう。あたしも家に帰ったらソッコーで部屋着に着替えるし……というのはちょっと違うか。
「今日は地図とコンパスをポケットに入れておいてください」
初日にも見せてもらった、文字盤がプラスチック定規みたいに透明になっているコンパス――オリエン用ないし登山用のシルバーコンパスと、透明なジップロックみたいな袋に入った地図を手渡される。
「シルバというのは銀色とは関係なく、ラテン語で『森』という意味です。シルバ社の出しているコンパスのことをシルバーコンパスと言いますね」
「へー」
「地図は防水してあります。雨が降ってもいいようにというのと、ポケットに入れていると汗でにじんでしまうなんてこともありますからね」
「ああ、それでジップロック……」
地図をくるくると丸め、体操着ズボンのポケットへ。コンパスも入れる。走りの妨げにはならない程度の荷物だ。
「一応言っておきますと、大会本番は自分一人で山の中を走らなければなりません。したがって、地形図が読めないと遭難します。そのへんの低山でも、遭難事件というのは結構あるのですよ」
「なん……ですと……」
気が抜けまくっていた顔が自動的に引き締まるのを感じる。
「あ、やはり齟齬がありましたか。チームでいっしょに行うオリエンテーリングもあるのですが、体育大会ではリレー方式が採用されることが多いです」
「つまり、先輩たちの後ろにくっついていればよい……ということではない、と」
体力さえなんとかなれば、先輩たちにくっついていけば、なんとかなるんじゃないかと思っていたが、現実はそう甘くはなかった。
「そういうことですね。その意味でも、結構重要なパートだと言えます。がんばって身につけてくださいね」
「はい!」
低山遭難者として地方のニュースになるのはごめんだ。
「さ、行きましょう」
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