茶色い食卓
翠雪
茶色い食卓
初めてできた彼女の家には、足の短いちゃぶ台に真っ赤な球体が置かれていた。球とは言っても、コンパスでその輪郭を辿ることができるような正円が連続するものではない。なだらかに歪なシルエットは、今朝、妹が投げてよこしたトリュフチョコによく似ている。大きさはバレーボールくらいだろうか。赤いと形容できるのも、表面を覆う風呂敷がその色であるというだけで、中身もそうかは分かりかねる。ともかく、天板の中央にはそれがでんと陣取っている。
放課後デートにかこつけて恋人とスーパーへ寄り道し、見慣れぬキッチンで鶏もも肉をタレに漬けこみ、油の海でちわちわ鳴らす。彼女が手ずから白米を盛ってくれたのは、どう見たって夫婦茶碗だ。高鳴った鼓動が顔色に出ないよう必死に抑えこみながら、真っ赤な風呂敷包みを避けて二人の食事を配膳する。目の前に並んだものこそが、いつかはきっとと妄想していた可愛い彼女の手料理だ。もはや辛抱たまらずに、湯気立つ塊へかぶりつく。ニンニク醤油風味の熱で上顎をべろべろに火傷した俺のことを、彼女はくすくす笑っていた。
「そんなに急がなくても、からあげは逃げないよ」
どこか歳上ぶったその仕草に、正直、かなりキュンときてしまう。過疎まっしぐらの辺鄙な村で、引っ越しから間もなくして美少女と付き合えただけでも奇跡なのに。そんな顔までいいんですか。俺って、年上の方がタイプなのかな。互いにたったの十四歳だが、男子よりも女子の方が早く大人になるものだと母が何度か言っていた。五対一とやや偏りすぎたクラスメイトの男女比率も、女子の性質をより際立たせているのかもしれない。
父の行方が分からなくなり、そのショックを慰めるためにか、どこかから母が赤子を引き取った。それがきっかけとなった引っ越しは、当然気乗りがしなかった。都会の荒波で女が一人、三人の子どもを養っていくのは難しいと中学生でも理解はできる。ただ、俺にだって友達はいたし、壁が薄い賃貸にもそれなり愛着をもっていた。引っ越し後に新たな楽しみができなかったら、兄妹ともども反抗期を拗らせていたことだろう。妹は、比較的まともなトリュフチョコを想い人に渡せただろうか。まだ話せない弟が固形物を食べられるようになるまでに、もう少し料理の腕を上げてくれることを願いたい。彼女くらいとは言わないが、俺が家事を怠ける時の代打を頼める程度には。
「ごちそうさまでした。めっちゃくちゃ美味かった! あと三個はいけたよ」
「本当に、ご飯とからあげだけで良かったの? お味噌汁とか、漬物とかも用意できるけど」
「肉と油、そして炊きたての米の共演に水を差すのは野暮ってもんだ」
「うーん、熱量高めな演目だなぁ」
食器を下げると、赤い球がなお目立つ。縁起物だと彼女は言ったが、食卓に置く必要性は分からずじまいで、あまり気にする余裕もない。
そう、今日は待ちに待ったバレンタイン。得体の知れない置き物よりも、気にすべきものが俺にはある。初めての彼女、初めての家、初めての相思相愛なバレンタイン。これはもう、絶対にチョコが控えている。からあげ三個分の余白を胃に用意していたのは、甘い油脂を心置きなく喰らえるようにと構えたためだ。期待と緊張が極まって、拭いている皿を落としかける。バレンタイン、万歳。田舎にまで染み渡る、日本の商戦に大感謝。
「あのね。今日は、きみに食べてほしいものがあって呼んだの」
きた!
シンクの中が空になり、食事をしていた時と同様にちゃぶ台を挟んで向かい合う。つい座り方を正してしまうが、頬を染めて恥じらう彼女に示すとすればこれが最低限の礼儀だろう。今歩けと言われたら、右手と右足を一緒に出す自信がある。
「用意するから、ちょっとだけ目を瞑っていてくれる?」
「わっ、分かった。全然、全然いいし。いくらでも待つし。あっ、背中むけとくわ。一応、念のために。うん。一応さ」
「うふふ。そんなに待たせないってば」
昨今のロボットよりもよほどぎこちなく、身体を反転させて瞼を閉じる。ドキドキとうるさい心音越しに、布擦れの気配が微かにする。エプロンでも着け直しているのだろうか。それにしては、音のありかが近い気もする。彼女は畳の上をとことこ歩き、台所へと向かったようだ。調理用具があった辺りを物色している。「あった」と小さく呟いた彼女は、またこちらまで歩いてくる。台所に行く必要があるチョコとは何かと考えて、もしやガトーショコラなどのケーキ類かと思い至る。からあげ三個分で余白は足りていただろうか。別の緊張の足音を聞きながら、膝の上の拳を握る。いよいよだ、いよいよ——にやける口元を引き締めていると、突然、岩を叩き割ったかのような衝撃音がすぐ後ろから鳴り響いた。思わず目を開けて振り向くと、武骨なトンカチを握る彼女の手元では、赤い風呂敷を下に敷いた茶色い球が割れていた。チョコというにはやけにまだらで、ココナッツの方がまだ近いか。木の棒で割られたスイカのように大きく口を開けた塊からは、カカオの匂いがしてこない。乳白色の粒もちらほら見え、不意に脳裏をよぎったのは、博物館のショーケースの中で横たわる干からびきったミイラだった。
「まだ、いいよって言ってないのに。サプライズ失敗」
眉根を下げた彼女の苦笑に、動揺は少しも見てとれない。片膝を立たせて前のめりになっていたはずの俺は、ものも言えないまま尻もちをついた。手をついた拍子に畳のイグサが指に刺さる。後ずさりをすればするほど、棘が掌に入ってくる。
「男の人って、赤いものを着るじゃない。赤ちゃんに還るっていう、還暦祝いにさ」
トンカチを置いた代わりに茶色い欠片をつまんだ彼女が、俺の胴へ馬乗りになる。プリーツスカートから伸びた肢体は生温く、頭が痛くて目が回る。セーラー服の赤いリボンが、冷や汗の湧いた頬に垂れる。
「うちの村ではね、これを食べた男の人は、たちまち赤ちゃんになるんだよ。だから、学校は男子ばっかりなの。うふふっ……きみの前の席にいるのも、実はわたしのお父さんだったりします」
知らなかったでしょう、と大人ぶって微笑む彼女を前に、思考がてんでまとまらない。過呼吸へと駆け上る息の合間に、せめて何かと捻り出す。逃げなくちゃ。逃げられない。どうしてこんな、こんなことになっているんだ?
「な、んで」
「わたし、きみのことが大好きなの。裏表がなくて、笑顔が可愛い、食いしん坊なきみのことが」
鼻先が触れ合う。彼女の真っ黒な瞳に怯えた俺が映っている。
「でも、子どもができたら、女は捨てられちゃうんだもの。この村を作ったのは、赤ちゃんの面倒を見ている間に、旦那さんに浮気された人なんだよ」
小首を傾げられたがために、艶のある黒髪が肩に流れる。息の吐き方はとっくに分からなくなってしまって、全力疾走をした後の犬のように忙しなく吸うことしかできない。
「ずいぶん昔の話だから、離婚にしても女が家を去るしかなくて。それで、こんな野山に分け入ったんだ。この言い伝えを……ううん、教訓を、この村の女の子たちは聞いて育つ」
髪のカーテンに覆われて、視界が彼女に囚われる。均整の取れた顔立ちは、クラスで並ぶものがいない。白い肌も相まって、人形のようだと思いもした。しかし、実際にそう扱われていたのは、彼女ではなく俺の方だったのだ。
「好きな人をね、赤ちゃんの頃から育てることが、一番の『女の幸せ』なんだよ。だから、この秘薬は一人に一つ与えられる。大好きな人ができたら、幸せなうちに使いなさいって。育て直して、よそ見なんかできないくらい、骨の髄まで染めるために」
人差し指と中指を咥内へ深く突き立てられる。食いしばった歯を伝って、鉄の味が舌を這う。閉じきれなかった喉の奥へ、硬い何かがくだっていく。えずいて吐き出そうとしても、意思に反して進む破片はとうとう胃の腑へ落ちていく。
「離乳食が終わったら、からあげ、たくさん作ってあげるからね」
聖母のような彼女の笑みが、みるみるうちに遠くなる。自分の身体が縮み始め、そのせいで彼女と離れていくのだと知った頃にはもう遅く。第二次性徴を済ませたはずの口からは、意味を成さない喃語だけが紡がれるようになっていた。
茶色い食卓 翠雪 @suisetu
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