第2話
夕刻の鐘が鳴った。
「今日はここまでにしましょう」
イアンは剣を収める。
到底人を斬れるような剣ではないが、王太子ジィナイースは存外、剣の修練は真面目にやっていた。お付きの侍女の話では「殿下が五日で飽きなかったのは初めてのこと」らしい。
それを聞いた時はどんだけ飽き性やねんと思ったものだが、少なくともイアンの見る限り、王太子は剣術修業はちゃんとやっているのが分かった。本人が「机に縛りついてやる勉強より好き」と言っている通り、ただそんな理由かもしれないが、今まで必ず飽きていた人間が飽きないことは何であれ素晴らしいことである。
これが自分の部下だったら一生「お前が新米だった頃の剣の振り方はない」と笑ってやりたいような、予想通り自分で一度も剣を握ったことのない人間だと一目で分かるような状況だったのだが、八つの型があるヴェネト騎士の剣技、四つは一人でも一応実演出来るようになった。
イアンは若いが、若くして軍人になったので、すでに数多の新人や部下を指導して来た経験がある。どう見てもこの王子が厳しくされて頑張れるタイプでないことだけははっきり分かるので、やる気を削がないように定期的に誉めておく。
「もう四つの型は覚えられたようですね」
「まあ、なんとかな」
ほんまに何とかやで。型覚えてもそれを実戦で使えるように、対人修練で鍛え上げるのが本当に剣術を学ぶっちゅうことなんやからな。お前がやっとるのはなんかいい感じにちょっと剣を振っとるだけだから、くれぐれも剣を覚えたぞ! とか言うてはしゃいであちこちで振り回して俺は無敵になったみたいにすんなよ。そんなお前を見かけたらさすがの俺も指差してお前を爆笑すんで、とそこまで思ったが、勿論天下のヴェネト王太子殿下にそんなことは言ったりはしない。
にこやかにイアンは笑顔で誤魔化した。
「なに笑ってんだよ……」
「笑ってましたか?」
「笑ってた!」
「いえ、こういったことはヴェネト出身の指南役が教えることがしきたりなので、外国から着任した私などが教えることを、快く思われないでも無理がないことなのですが、王太子殿下は本当に真面目に型を覚えてくださるので、嬉しくて」
「そんなことでいちいちニヤニヤすんなよな! 前から思ってたけどお前の笑いのツボちょっとおかしいぞ!」
子供が照れとる時はおちょくったらあかんねや。
山ほど兄姉がいて、山ほど甥や姪もいるイアンは、子供の扱いなども慣れたものだった。
「では、今日はここまでで。失礼いたします」
またウキウキと城下の屋敷にすぐ帰ろうとしたイアン・エルスバトの服を慌てて掴んだ。
「?」
「ちょっと待て。お前に話があるんだ」
「何でしょうか」
「お前、この前の仮面舞踏会で例の……【月の女神】の侵入者を探してただろ」
「はい……」
なんや取り逃がした俺への王太子からのお説教かと思ったが。
「城に来てる貴族の連中が話してたんだ。もう一人、あの日もしかしたら侵入者がいたかもしれないって」
「えっ?」
イアンが初めて見せるくらいの食いつきを見せた。
この反射神経、さすが守護職である。
イアンは、ルシュアンの前では穏やかな表情を見せることが多いので、この真剣な表情は初めてだった。もし自分が王になり、イアン・エルスバトが聖騎士団団長などに就任することになれば、国防においてはこういった表情をよく見ることになるのだろうかと、そう思った時、微かに胸の奥が疼くような感覚を覚えた。
「失礼ですが、詳しくお話し頂いてもよろしいでしょうか?」
こんな所で話し込んではいけないとだけは思ったらしく、イアンがルシュアンを城の建物の中に招く。
「俺も昨日聞いたばかりなんだけど、城の茶会に来た貴族の女たちが噂してたんだ。
あの日、ダンスホールに鳥の仮面を被った、正体不明の奴がいたって」
「女性ですか?」
侵入者である【月の女神】が女だったので、そういう質問になったのだろう。
あの【月の女神】は神聖ローマ帝国軍のフェルディナントとも正面から斬り合ったという。以前王宮に出た小柄な男もそうだが、あの仮面たちは女だから戦えないとか、小柄だから大したことがないとか、そういう常識に生きていない。
……そしてイアンの頭に一番引っかかっている、スペイン駐屯地の襲撃事件。
何度考えても、仮面の者たちが王都ヴェネツィアで起こす事件の中で、あれだけが異質な事件だった。
確かに『例の警邏隊を狙った』という点だけでは他の事件と共通点はある。
しかし他の事件の犯人は、相手を凄惨に切り刻んだりは一切していない。
どちらかというと、襲撃においても姿を見せないことが多く、目撃者もいないのだ。
フェルディナントが着任して早々、街で斬り合った仮面の男がいたが、あれも自ら進んで姿を見せたのは、街の女が暴行を受けていた所にフェルディナントが居合わせて、警邏隊の一味だと判断されたからだった。別に神聖ローマ帝国軍を狙ったわけではないと、その後の襲撃から判断すれば推察出来る。
イアンも王宮で仮面の者と対峙したが、スペイン軍の者だと分かっていても、相手は全く襲って来なかった。
仮面の男たちの目的は何であれ、
狙いは、王都の腐敗に関わる、自国の守護職なのだ。
治安を取り戻しに他国から来た者たちには、決して手を出すなと、まるで彼らには大いなる者から勅命が下っているかのように、警邏隊やそれを擁護する者たち以外に、彼らは手を出さない。
勅命。
イアンはその時、不意に脳裏に浮かんだその言葉が引っ掛かった。
フェルディナントとの話から、少なくとも【仮面の者】達が単独ではなく、複数おり、それぞれ異なる場所で任に着きながらも、時折協調体制を取って、陽動を起こすこともあることが見えて来た。
(まるで軍隊の動きや)
イアンの兄姉達も、数多くいるが、それぞれがジブラルタル、ドノスティア、ア・コルーニャ、カルタヘナ、バルセロナという五つの主要軍港を守る様に駐屯し、有事の際には王都マドリードから一斉に各方面と命令が放たれる。
北方イングランド、フランス、南の地中海勢力に対しての動きは特に厳しく見られ、安易なスペイン側の動きで戦況が動く可能性も高く、そこに何かあっても、例え攻撃を受けているようなことがあっても、マドリード宮から出撃命令が下るまでは軍港は動くことが出来なくなっている。
『直ちに出撃して、スペインの敵を殲滅せよ』
勅命が下った時だけ、五つの主要軍港を任された王族の子供たちが勅命を下した王、或いは王妃の紋章を掲げて動き始める。
王都ヴェネツィアに現われる、仮面の者たち……。
あれはスペイン軍の動きに似ていたのだ。
守護職に着く王子や王女、その個人的な感情などは、全く有事において加味されない。
全ては王や王妃が戦況をどう見るかであり、勝手な動きなどは決して許されなかった。
そういうことをした王子なども過去に当然存在したが、歴史において、軍規に逆らう者は二度と指揮杖を握ることは許されたことがない。
あのスペイン駐屯地の襲撃事件だけが、何者かの感情に満ちている。
イアンはそれを感じ取った。
他の局面では仮面の者たちの考えや感情は、彼らだけの奥に秘められて、全く表にそれは出てこない。
例え、死の淵に追い詰められたような局面であっても。
イアンの脳裏に、西の塔から躊躇いなく飛び降りた【仮面の男】の姿が過る。
あの男が身を投げたのは、仲間の為だ。
自分が捕まり尋問を受けたら、仲間や関わりある者を危険に晒す。
お前の身柄はスペインと、神聖ローマ帝国が出来る限り擁護すると持ちかけても、拒絶した。
(他国の人間など、あいつらは一切信用しない)
ただ勅命に身を捧げる騎士のように、それだけを行う。
スペイン駐屯地襲撃事件だけ、強く激しい憎しみがそこに表われていた。
「いや、男だ」
ルシュアンはすぐに否定した。
「確かに?」
「うん。あの日はみんな仮面を付けてたけど、なんでそいつが目を引いたかっていうと、すげぇ長身の男だったからなんだと。それでどこの貴族なのか、女たちはあれこれ噂し合っていたらしい。別に特に怪しい動きをしていたわけじゃないけど、そいつは舞踏会にもあんまり興味がないらしくて、女が踊りたそうにしても踊ってなかったんだと。
ただ、一度だけその鳥の仮面が踊った時があって……なんでも、会場にいた給仕の男を誘って踊ったらしい。踊った感じは両方上手かったってあいつらは言ってたな……。
その給仕の奴を捕まえて聞けば、鳥の仮面がどこの貴族の誰だったか分かると思って女たちはその給仕も探したらしいんだけど、その日の給仕全員に話を聞いたけど、あの時踊った給仕はいなかったらしいんだ」
「では、その給仕は……」
「お前なら分かると思うけど、王城で開かれる夜会の給仕は素性も厳しく調べられて管理されるから、他所から集められることはない。貴族の夜会とはそこが違う。だから、その給仕はもしかしたら、そいつも侵入者で」
「【鳥の仮面】の仲間かもしれないと」
「お、おお……そうだ。物分かりいいなお前……」
イアンは深刻な表情になった。何かを考え込んでいる。
「……その【鳥の仮面】が踊ったというのは、【月の女神】が神聖ローマ帝国のフェルディナントと斬り合った後かどうか分かりますか?」
「後だって聞いたよ。女の一人が、庭園での余興だと思ったそれを見た後に、ダンスホールに戻って踊ってるのを見たって言ってたから」
ならばその情報は確かである。
「……なに考えてる?」
「……。給仕の方は男であったことは確かでしょうか?」
「男の給仕の格好はしてた、と聞いたが。女も男の衣装は着れるから、分からないな。男に見えたとは言ってたけど」
こちらの情報は不確かだ。
王太子の前でなかったら、イアンは舌打ちをしていたところである。
フェルディナントも言っていた。
女の格好をしていたからといって、女だとは限らないと。
男の給仕も、その格好をしていたからといって、女だった可能性がある。
【鳥の仮面】の男が群れの中にいても目を引くような長身なら、踊った相手の性別は余計外からは分からないだろう。
ラファエル・イーシャが王宮の森で会った相手も、女のように見えたなどと言っていた。
イアン自身、塔で会った仮面の者は、男だったような確信はあるものの、子供のようにも感じられて、性別があまり明確に分からなかった。
そもそもあの仮面舞踏会では、仮装も人々がしていたから、男装している者がいたり、女装している者もいたり、外見での判別が出来なくなっていたのだ。
(だから俺はこの王都が不穏な時期に、普通の夜会ならともかく仮装や仮面をする催しはやめとけ言うたんや、あの無口な参謀。まんまと敵がバンバン入り込んどるやないか)
今の話では【鳥の仮面】は明確な侵入者の一人だが、給仕の方は正体不明だった。
【月の女神】がその後結局発見されていないことを考えると、給仕が、仮装を変えた月の女神だった可能性がある。恐らくそれで、城から逃げおおせたのだろう。
そうすれば、厳戒態勢だった城から逃げた方法はもう二、三ありそうだ。
(だけど問題は【鳥の仮面】の方や)
外見からの特徴だと、目を引くような長身の仮面の男は今まで目撃情報がない。
もしかしたら第三の男かもしれない。
スペイン駐屯地の凄惨な殺害現場を思い出す。
あの殺し方は、女や子供には決して出来ない。
パワーのある実行力だった。
相手は例え馬鹿でも警邏隊の男三人である。あの殺しに関わったのは、男のはずだ。
(その【鳥の仮面】の奴が、スペイン駐屯地襲撃を起こした奴かもしれん)
スペイン海軍の軍服は、ヴェネトではもう知れている。
もしかしたらその軍服に仮装し、駐屯地に入り込んだのかもしれない。
一瞬のことであれば、あの頃は港の増設で夜も騒がしかったから、同じ赤い軍服を着ていれば、見逃す可能性はあった。
それにしても駐屯地の本部まで乗り込んで来たら、当然何人かのスペイン兵とは必ず挨拶を交わしたはずだ。堂々とそんなことを行い、地下牢に潜り込み、殺し、飄々と出て来て去っていくなど、どんな豪胆な人間なのだと思う。
王都ヴェネツィアの劇場を調べているが、そういう部分でも役者を思わせるような場数を踏んだ感じがある。
姿を見たかった。そうすれば何かがもっと分かったかもしれないのに。
イアンは拳を握りしめる。
自分は仮面舞踏会など、と馬鹿にしてあの日は王城の守りを近衛に任せていた。
不貞腐れながらでも会場にいたら、貴族の女たちがざわざわ噂をしていた男なら、きっと気づいたはずだ。
今は王太子の剣術指南役を仰せつかって、城下に屋敷をやっともらい、嬉しくて毎日そこに帰るようになったが、ラファエル・イーシャは逆に今までは豪奢な迎賓館暮らしだったが、最近は王城でも寝泊まりをするようになったようだ。
結果、王妃セルピナに外遊の同行まで許されている。
今の姿をスペイン王妃が見たら、きっと「任務に集中していない」とイアンを厳しく叱責するはずだった。
ヴェネト王宮は嫌いだ。
つまらなくて退屈で、何も得るものがない。
ただ自分がヴェネトに来た目的は、そこで楽しく過ごすためでは無かったはずだ。
王妃セルピナに信任され、ヴェネトにおいてスペイン王国の立場を明確なものにし、重んじられるために自分はここに来た。
ダンスホールの中央で悠々と踊った【鳥の仮面】を、そこにいなかったから見逃すなど、とんでもない落ち度である。
イアンが額を押さえたのを見て、ルシュアンは多分イアンの知らない情報だろうから、教えてやったら喜ぶかなと思って話したので、なんか随分落ち込んじゃったよと思った。 なんでそんなに落ち込むんだろう……と思って、ふと思い当たる。
「あのさ……。今の話……、何事も無かったから別にいいだろと思って、まだ誰にも話してない。母上にも、ロシェルにも。ただ……お前は近衛を率いるから、一応耳に入れておいた方がいいかなって思っただけだ。別に侵入者がまだいた不手際とか、お前を責める気もないし、母上やロシェルに話すかどうかは、お前に任せる」
だから、そんな落ち込むなよ。
そう言ったつもりだった。
「いえ……ロシェル・グヴェンには……。話します。何事も起きなかったとはいえ、次はあるかもしれませんから。妃殿下に報告するかどうかは参謀にお任せします。私は近衛を率いる身なのに、全く【鳥の仮面】や給仕にも気づいていなかった。【月の女神】にもです。ここは王のおられる王宮なのに、侵入者をそう易々と許すなど、私の本国でさえ決して許されないことです」
イアンは息をついてから、気を取り直すようにしてルシュアンに向き直った。
「有益な情報を、ありがとうございます。殿下。
私がこの先近衛をこのまま任されるかどうかは分かりませんが、神出鬼没の【仮面の者】達には今まで以上に注意を払いますので」
深く一礼し、イアン・エルスバトは去って行った。
ルシュアンが感じたのは、強い謝罪の意志で、あいつは王城に侵入者を入れたことを、つまり王妃や王太子の自分にそういう人間に近づけたことを、それほど悔いているのかと驚いたほどだった。
王妃は、スペインや神聖ローマ帝国をまだ信用していない。
信用出来ない人間だ、と言っている。
しかしフランスのラファエル・イーシャがそんなに信用出来る人間かというと、別にそうではないはずだとルシュアンは思っていた。確かに敵意などは見せていないし、王妃や自分にラファエルは従順だったが、別にスペインや神聖ローマ帝国も命令には従っている。 そもそもフランスも、ヴェネトに来た理由は他の二国と一緒なのだ。
【シビュラの塔】が発動するまでは、フランス王国もアドリア海に暢気に浮かぶヴェネトなど、歯牙にもかけていなかった。
そういう意味では、ルシュアンにとって三国は対等な印象だ。
だけど。
(あいつは任務に着いたら、本当に母上や俺を危険から遠ざけようと思っていたんだ。守ろうとしてくれてた)
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